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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十回 波動と祭祀

いまあると みすゑしものは すぎしかげ いまのすがたを ひとはしりえず
(今有ると見据ゑし物は過ぎし影 今の姿を人は知り得ず)

古代ギリシアでは、哲学といふ学問の専門分野があつたのではなく、哲学は学問一般の一部分に過ぎず、独立したものではありませんでした。経済財政危機にさらされてゐる現代のギリシアとは隔世の感がありますが、古代ギリシアは、神話に彩られた伝統があり、アポロンの神託地としてのデルフォイなどの聖地があつて、今のバチカン以上にその中立と独立が保障されてゐました。隣保同盟(アンフィクティオニア)といふ、ギリシア神話信仰とそれを祭る神殿を通じて結ばれたポリスの同盟があり、ギリシア諸国は、デルフォイから受ける神託(託宣)によつて人々の心と生活を導いてゐました。


ところが、いつの時代でもさうですが、理性を絶対視する合理主義が台頭してくると、神託を拠り所とする政治は崩壊し、形而上学の暴走が始まります。支那の歴史で言へば、春秋時代や中共時代の百家争鳴の状態と同じです。

そして、この理性万能主義(合理主義)の行き過ぎに気付いて、再び理性(合理主義)の限界に気付く揺り戻しが起こります。理性では理解し得ない本能原理を発見するからです。これまでの様々な哲学の歴史は、本能と理性の両極のいづれに軸足を置くかによつて、両者間を振幅してきた歴史であり、時代ごとに新しい言葉や概念が出てきて、「○○哲学」と呼称されたとしても、実質は何ら目新しいものではありません。素材は同じで、調理方法や見栄えが少し変はつただけです。


所詮、人間が考へることには行き過ぎと限界があり、人間の知覚には致命的な限界があります。知覚の限界とは、人間の五感の作用には克服できない限界があることです。たとへば、人の目は、可視光線しか見えません。不可視光線や電磁波などは、不十分な測定器や計測器の補助を借りてその一部を可視化できるに過ぎません。もし、全部の波動を知覚できるとしたら、まぶしすぎて目が潰れてしまふはずです。そのことは音も匂ひも温度変化なども同じ限界があります。限界があるから生きてゐられるのです。そんな限界だらけの人間に宇宙真理のすべてが容易に認識できると考へることが傲慢すぎます。これは、自然哲学に始まる自然科学についても同じです。


そして、これに輪を掛けたやうな限界として、言葉の問題があります。祭祀の道第四十二回(道義と正義)でも述べましたが、言語学的には、使用言語の性質によつて人の思考や行動が規律されるとする「サピア・ウォーフの仮説」(言語相対説)と呼ばれるものもあり、ウィトゲンシュタインといふ哲学者が提唱した「論理実証主義」といふ見解もあつて、これによれば、検証不可能な形而上学の命題は無意味となります。哲学には、これらの言葉の意味と定義の曖昧さとその限界に関はる問題を克服し得ないといふ致命的な欠陥があります。ですから、「哲学は死んだ」とまでは言へないにしても、哲学には致命的な限界があることを知らなければなりません。「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知るなり。」です。


ところで、古代ギリシアの学問では、現在の哲学を含む重要な争点が出尽くした感があります。たとへば、ゼノンの逆説(パラドックス)です。これには、いくつかありますが、連続性(運動)に関する逆説として、有名なのは、「アキレスとカメ」と「飛ぶ矢は飛ばない」です。アキレスがカメの出発点に達したとき、カメは少し前進してゐるので、その繰り返しによつてアキレスはカメに追いつけないとする「アキレスとカメ」のパラドックス。飛んでゐ矢は各瞬間に一定の位置を占め静止してゐるので矢は運動できないとする「飛ぶ矢は飛ばない」のパラドックスです。


このゼノンといふ人は、エレア学派の創始者であるクセノファネスを引き継いだパルメニデスの弟子です。クセノファネスは、「すべては一つである」として、人間的な神々を否定し、ホメロス、ヘシオドスを痛烈に批判した人です。そして、パルメニデスは、理性(ロゴス、logos)のみが審理の基準とし、「有るもの」は、唯一、不生不滅、不変不動の充実した球体であり、一切の変化を仮象と看做しました。運動変化を否定する一元論です。

ところが、この考へを仕上げたはずのゼノンがこの理論における内在的な矛盾をパラドックスとして露呈してしまつたのです。


近代数学では無限の概念を用ゐずに、極限、収束、連続等を定義することによつてこれを避けやうとしますが、静止思考と数値確定による数学に動態思考を持ち込むことはできないので、これらのパラドックスが数学的に解明できたとは到底言へません。現代の自然科学では、時間と変化について、運動の原則と結果として認識できたとしても、運動自体や時間と変化そのものを認識表現できないからです。


このやうな、理性では限界があつて到底知覚しえないものを、本能原理による直観を磨いて得ようとする営みが祭祀の効用の一つです。

祭祀を日々間断なく続けてゐると、ときには長い時間、御明(みあかし)をただ見つめ続けることがあります。これまで、そのやうな経験を経て得られた直感として得られた、次の三つの「パラドックス」を紹介してみたいと思ひます。


一つは、「光のパラドックス」であり、二つ目は、「超光速のパラドックス」であり、最後は、「現在不覚知のパラドックス」です。


「光のパラドックス」とはかうです。

御明を灯すと、その炎の光が目に届きます。光は、秒速約30万キロメートルで等速度運動をするとされてゐます。さうすると、もし、点灯した光が御明である光源から放たれて出発し、それが目に届くとすると、点灯してから光が走り出すことになり、初速0(静止状態)から加速して秒速約30万キロメートルまで加速され、その速度に到達すると直ちに加速を止め、その後は等速度運動をして目に届くことになります。

すると、加速中の光は光速度よりも遅いことになり、これは光とは違つたものなのでせうか。また、どうして加速して光速度に達すれば加速を止めて、その後は等速度運動をするのでせうか。加速の程度は一定なのでせうか。その加速時間はどの程度なのでせうか。光自身が加速したり加速を止めたりする意志があるのでせうか。例外はないのでせうか。光が等速度運動をしてゐるとすれば、光が波動であつても光子の流れであつても、水や空気の中を通過すれば、光もエネルギーが減殺され、その物質中の粒子と衝突して「減速」しないのでせうか。光の速度は、ダイヤモンド<普通のガラス<水中<空気中<真空の順で高くなりますが、水の中を進んできた光が空気中に出てきたときにも加速されるのか、などなどと数多くの疑問が出てきます。


だから、そんなはずはないと考へるはずです。「光の加速」などこれまで誰も指摘してゐません。さうすると、こんな仮説が生まれてきます。それは、「不可視光線から可視光線への波長変動」です。光が灯るといふ現象は、その光源から発せられてゐた不可視光線が可視光線の波長と周波数に変動する現象といふことです。しかし、点灯前の電球からは、現在の計測器では一切の電磁波(波長の長い方から列挙すると、電波、赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマー線)は観測されないでせう。だから、観測できないほど波長の長いもの(無限大波長)か、あるいは観測できないほど波長の短いもの(無限小波長)の「無振動電磁波」のやうなものがあるのかも知れません。極大と極小とは方向が逆であり到底交はらないものであるとされてゐますが、無限小の超低周波と無限大の超高周波とは、限りなく「無振動電磁波」に近づくといふ意味では、この「無振動電磁波」は、「太極」なのかも知れません。


エーテルは光が伝はるための媒体として仮定された粒子です。マイケルソンとモーリーによつて存在しない事が証明されたと言はれてゐますが、果たしてさうでせうか。最近では、ダークマター(暗黒物質)といふものがあるとする仮説があり、宇宙空間にある重力の発生源で、恒星と違つて目に見えないものを言ひます。見えないので正体が解りません。その意味では、エーテルと同じです。しかし、エーテルが頭の中で作られた空想の産物であるのに対し、ダークマターは観測されたものとされてゐます。


マイケルソン=モーリーの実験によつて、エーテルの存在仮説に重大な疑問を引き起こし、それが、アインシュタインの特殊相対性理論の基礎となつたと一般に説明されてゐます。しかし、エーテルといふものを宇宙に充満するエネルギーと捉へ、エーテルは物質との間に一定の「粘性」があるものと仮定すれば、マイケルソン=モーリーの実験はエーテルを否定する根拠とはならず、エーテル不存在を前提とした特殊相対性理論や一般相対性理論も崩壊することになります。


これが「初めに光ありき」の新解釈です。全ての物質は光(波動)を発してをり、それが所与の条件によつてその波長が変動することです。点灯とは可視光線(知覚波動)への転換、消灯とは不可視光線(不知覚波動)への転換なのです。それが点滅の原理と理解すれば不自然ではなくなります。これは、朱子によつて大成された「理気二元説」の新しい解釈でもあり、宇宙は、物質、エネルギー、波動、エーテルなどの「気」が宇宙原理(理)によつて統合されてゐるものと捉へることができます。


また、「超光速のパラドックス」とはかうです。

光速を超えるものはないとされてゐますが、光速よりも早いものは周りにいくらでもあります。それは、力の伝達速度です。長い鋼鉄製の棒を想像してみてください。それを机の上に置き、鉄棒の左端から右端に向かつて押してみてください。左端は少し右に移動し、右端もさらに右に移動します。この力の伝達は、同時に起こります。鉄棒は少し押しただけでは縮むことはありません。ですから、左端の移動と右端の移動とは同時に起こります。同時であるといふことは、時間的な間隙がないといふことです。力は瞬間に伝達されることになります。鉄棒の長さとは無関係に同時に伝達することいふことは、左端から発せられた光が右端に到達するよりも早く(同時に)力は伝達するのです。


最後に、「現在不覚知のパラドックス」について説明します。

先ほどのゼノンに始まり、アリストテレス、アウグスティヌスなどは、時間と変化について様々な考察をしてきました。マクタガートは、「時間は実在しない」といふことを証明しようとしたりして、「過去」、「現在」、「未来」について思考しました。我が国でも、山田孝雄(よしを)の考察があります。

ところが、誰も「現在」が知覚できるとといふ大前提に立つて議論しますが、はたしてさうでせうか。脳科学が発達してくると様々なことが判つてきました。人間の知覚は、外界からの刺激(光、熱、音、臭、味、触)をそれぞれ知覚臓器で受け止めて、それを電気信号によつて脳などに伝達して知覚するといふ構造なのです。つまり、刺激を受けてから知覚するまでには、僅かですが時間がかかります。さうすると、人間は、知覚構造からして、知覚するのは、刺激を受けた時点よりも後の時点であり、しかも、その刺激の源から発せられた刺激が知覚器官にまで届くまでも時間がかかります。つまり、知覚は常に「過去」の情報であり、間断なく「直近の過去」を知覚することしかできないのです。決して、これは「現在」を知覚ではなく、生物学的に「現在」は知覚できないのです。もし、この「直近の過去」を「現在」といふのであれば、定義を改めなければなりません。

にもかかはらず、過去、現在、未来と区分したり、時間の実在性を議論しても意味がありません。しかも、先ほど述べた「論理実証主義」による言葉自体の限界もあります。


ですから、私達に必要なことは、理性の働きによる論理思考を無視することはできませんが、それだけに偏ることなく、祭祀の実践によつて、とほつおやから発せられる不知覚波動を直観力によつて知覚波動へと転換することに勤め、人生を豊かに生きることが求められてゐるのだと思ひます。祖先、自然、英霊から発せられる知覚波動を受け止めるのが祭祀の要諦です。

平成二十五年五月一日記す 南出喜久治


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