自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H29.10.15 第八十五回 井上達夫の憲法論

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十五回 井上達夫の憲法論

うけうりの あたましかなき をこのもの ひとかどよそふ ふりぞあさまし
(受け売りの頭脳しか無き痴の者(学者)一廉装ふ振りぞ浅まし) )

平成27年11月29日の朝日新聞に、長谷部恭男と杉田敦の対談「平和主義守るための改憲ありえるか」の記事が掲載された。

11月29日と言へば、帝国憲法の「憲法記念日」なのであるが、よくもこんな日に長谷部は妄言を吐いたものである。


それは、こんな妄言である。


「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。国民には法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」


他にもいろいろと話してゐるが、つまり、長谷部恭男は、エリート集団である法律家共同体で決めたジャーゴンによる密教的解釈に国民は従ふ義務があり、国民は素直に日本語の常識で読んではいけないと命令して自らの憲法解釈を押しつけるのである。

これは、憲法解釈権は、主権者とされる国民に帰属することを否定する自家撞着の妄言に他ならない。

国民主権を語りながら、憲法解釈権を国民主権から除外して寡頭制を敷く。とんだお笑いぐさである。


宮澤俊義といふ変節漢の流れを汲む、芦部信喜、長谷部恭男、石川健治、木村章太などと続く東大法学部の直系学者によつて形成されてゐるのが法律家共同体(憲法学者コミュニティ)と自画自賛する。


「東大法学部にあらずんば人にあらず」


これは、「平家にあらずんば人にあらず」と同じであり、驕れる者は久しからずである。


無効論について紹介することはあつても、ほどんど反論はしない。反論できないので、占領憲法が成立するに至る手続とその内容が違憲であつたとしても、占領憲法が無効であるとは言へないといふ詭弁まで使ふ者まで出てくる。法の目的と意義を完全に否定することを平気で唱へる法匪の言説である。


また、東大法学部であつても、憲法解釈業を営まない者や、これ以外の大学の法学部出身者や法学部以外の出身者、ましてや大学も行つたことのない私などの憲法論は、そもそも憲法論ではなく、憲法を知らない未開人の言説の類なのである。


そして、東大法学部による法律家共同体を神様のやうに崇める事大主義者も数多く居て、これに迎合して敗戦利得者の地位を守らうとする者は、これらのコミュニティに属する憲法業者の見解を根底から否定する者に対して、「憲法を知らない輩」であると痛烈に批判する。私は、その最大のターゲットなのである。


ところで、この法律家共同体の「周辺者」の中から、これに反旗を翻し、石川健治に噛みついた者が出てきた。まづは、井上達夫である。


井上は、東大法学部の教授ではあるが、法哲学の学者なので、直系ではないから法律家共同体の傍流といふか、仲間はずれの「周辺者」に甘んじてゐる。

だから、法律家共同体による占領憲法第9条の解釈論理の欺瞞性を痛烈に批判して、自分がその主流にならうとして派閥抗争を始めた。石川健治とのガチンコの憲法論争は確かに見応へがあつた。


井上は、『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 2』の中で、


「それに、一見、非政治的な解釈論に見えるような、個別的自衛権の枠内なら合憲だけれど、集団的自衛権は違憲だ、という、この主張自体が、極めて政治的な意図から出た解釈であって、非政治的な中立性をもった学問的解釈の名に値しません。前から言っているように、九条を読む限りは、専守防衛であれ、自衛隊と安保は違憲だと言わざるを得ないわけですよね。木村(章太)さんも、集団的自衛権が違憲だと言うなら、従来の内閣法制局の見解も違憲と言わなければいけない。従来の内閣法制局の見解がOKなら、なぜ集団的自衛権解禁の解釈改憲もOKと言えないのか。」


「原理主義的護憲派と、修正主義的護憲派を比べると、九条解釈について原理主義派が正しいのですが、同時に、立憲主義への裏切りという点で、原理主義派のほうが罪が重いと思います。修正主義派は、九条に反して自衛隊・安保を容認するという解釈改憲をしている点で、そもそも「護憲」派と言えるのか、という疑問があります。しかし、少なくとも、自衛隊・安保が違憲であるという事態を何とかしなければならない、という、私と共通の問題意識がある。しかし、原理主義的護憲派には、その問題意識すらありません。」


と述べてゐる。

ここで、井上は、「立憲主義への裏切り」といふ言葉を吐いてゐるので、井上の「立憲主義」についての主張についてもう少し注目する必要がある。


それは、朝日新聞社の「論座」2005年6月号に、掲載された「挑発的!9条論 削除して自己欺瞞を乗り越えよ」といふ井上には、かうある。


「9条の牙を抜こうとしながら、対米従属からの自立という課題を前に思考停止する改憲派。絶対平和主義の峻厳な責務を引き受ける覚悟があるとは思えない護憲派。両派とも「甘えの構造」から脱却する必要がある。」


として、持論を展開するのであるが、グダグタ饒舌を尽くしただけのものではあるが、立憲主義に関しての記述を抽出してみると、次のやうなものがある。


「9条が戦後憲法に加えられたのは本来の立憲主義の要請によるものではなく、日本の武装解除を求める初期占領政策の産物であり、・・・」


「時々の情勢の変動に左右される政策選択を憲法に取り込んでしまうと、憲法自体が時々の政治力学の変動に翻弄され、立憲主義は形骸化されてしまうのである。」。


「9条は立憲主義にとって異物であるばかりか、それがはびこらせる政治的欺瞞は立憲主義の精神を蝕んできた。憲法の本体を救うために、この病巣を切除することこそ、真の護憲の立場である。」


これらを見ると、9条は立憲主義に悖るもの、つまり立憲主義に違反してゐると言つてゐるのである。

しかし、9条は、占領憲法の中核として不可分一体のものであるから、9条が立憲主義違反であるとすれば、占領憲法全体が立憲主義違反といふことになるはずである。

我が国を支配した権力の中で最大のものは、GHQ権力であつて、「権力を縛ること」が立憲主義であれば、GHQ権力によつて生まれた占領憲法は立憲主義違反となることは論理上当然のことになる。


そこで、私は、井上に平成29年6月19日付けで手紙を書いた。立憲主義について面談の上、公開の討論がしたい、と。


ところが、全く返事がなかつたので、再び、同年7月20日付けで催促の手紙を書いた。


すると、同月28日に、東京大学法学部研究室の総務係からのFAXによる文書で、井上の直筆で返事を送つてきた。それには、何の前置きや挨拶もなく、立憲主義についての質問についての回答もないまま、余りにも乱雑に書き殴つた、しかも驚くほどのヘタな字でかう書いてあつた。


「南出様 面談には応じられません。理由:諸事繁亡 悪しからず 井上達夫」


これだけで終はりである。


「諸事繁忙」と書くべきところが、「諸事繁亡」とあるので、暇だと言つてゐることになる。これは誤字ではなく、思はず真実を書いてしまつたといふことである。


つまるところ、議論をするのが怖くて、職務放棄をして逃げたのである。

南出喜久治(平成29年10月15日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ