自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H31.01.15 第百十五回 本能と理性 その二

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十五回 本能と理性 その二

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


本能は、個人個人の個体に宿つてゐるだけではなく、家族、部族、民族、国家といふ集団にも本能があります。蟻や蜂などのやうな集団本能です。


たとへば、蜂を例にとると、通常の場合、女王蜂(母)が老齢化して世代交代が必要になれば、次の女王蜂(娘)を産んで交代します。これは、母親の女王蜂の遺伝子を娘の女王蜂が引き継ぐので、個体の本能の領域で理解できます。


しかし、蜂の巣が突然に破壊されたり火災などによつて女王蜂が突然に死亡したなどのやうに後継者が居ないまま女王蜂が死んだ場合、女王蜂にしか卵を産み続けることができなければ蜂の集団は女王蜂の死亡によつて滅亡するはずです。しかし、その場合でも、働き蜂の巣房や雄蜂の巣房が王台(女王蜂の巣房)に変化して、新しい女王蜂が生まれます。このことは、複数の個体の集まりである蜂の集団が全体として一つの生命であり、それに種族保存のための機序としての能力(本能)が備はつてゐるといふことを意味してゐるのです。


このことからしても、個体のみに自己保存本能や種族保存本能などがあるだけでなく、集団にも、全体的な自己保存本能や種族保存本能などがあるといふことです。


そして、本能には、明確な優劣の序列があります。まづ、個体の身体、生命を外敵から保護しようとする自己保存本能があります。


これが個体の基礎となる本能です。しかし、この本能にも重層的な序列があります。


いきなり大きな石が顔面に向かつて飛んできたとします。直撃を避けるため体を躱す暇もないとき、咄嗟に顔面の前に腕や手をかざす行動をとります。

しかし、顔面も腕も手も、どれも身体の一部なので、顔面を守るために腕や手を犠牲にするのはどうしてでせうか。それは、顔面には、眼球、そしてその奧には脳などの再生不能臓器があるからで、それを再生可能な腕や手で護らうとするからです。腕や手ならば、骨折しても皮膚が破れても、比較的短時間で回復できるからです。

しかし、こんなことを理屈で考へ、理性的に判断して行動するのではなく、大脳の思考を経ずに咄嗟に行動するのは、まさに本能の働きなのです。


得体の知れない危険を察知したとき、咄嗟に身を屈めて丸くなるもの、再生不能臓器が集中してゐる腹部や胸部を、再生可能な腕や足で包み込むことで護らうとするからです。


このやうに、自己保存本能と言つても、一面的で単純なものではなく、序列や優先順位が定まつてゐます。


人間以外の動物は、自己保存本能、自己防衛本能、種族保存本能、種族防衛本能などの本能による忠実な生活をするために、生活するための必要最小限度の獲物を捕らへることはあつても、決して無益な殺生や姦淫、盗みなどはしません。人間だけは時にはそれを犯します。それこそが「人間らしさ」と云へばそのとほりですが、そのやうなことをすると、外道、畜生、ケダモノなどと最大級のスラングで罵られます。そして、忠実に本能に従ひ品行方正な生活を営む動物たちを蔑み、この「人間らしさ」の行動を「犬畜生にも劣る」とか、「人非人」などと謂はれなき中傷を浴びせるのです。


もし、人間だけに理性といふ「高尚なもの」が備はつてゐるのだとしたら、人間だけが無益な殺生や犯罪をすることからして、その原因が「高尚な理性」に欠陥があるのだと自省することこそ理性的な判断ではないでせうか。犬畜生に劣るのが人間なのであるとの謙虚さが微塵もないことを恥ずべきなのです。


人間でも他の動物でも、子供が親の前で突如危険に晒されたとき、側に居た親は咄嗟に我が身を盾にしてでも捨て身で子供を護らうとします。しかし、現在の合理主義教育であれば、人の命の尊さだけを説き、親の命も子供の命も平等で、親が自己の命の危険を侵してまで子供を護る義務はないと教へます。見殺しにしてもよいのです。自分の命が一番大事であり、その一番大切な命を捨てて守るべきものはないのです。自分の命を捨ててまで守るべきものがあるか否かを問ひかける必要があるのに、そんな質問をすること自体が愚問だと切り捨てるのです。これが合理主義の結論です。


しかし、この事例の場合、親は脳の判断を介することなく、脊髄反応のやうに捨て身の行動を取ります。これは、本能の働きであり、自己保存本能より種族保存本能が上位の本能として作動するからです。

我が身を犠牲にしてでも家族を守り、さらに種族を守り、そして祖国を守る。このやうに本能には、自己保存本能、家族維持本能、種族保存本能、部族保存本能、社会保存本能、祖国防衛本能といふやうに高次に連なる優先序列があるのです。


特攻隊に志願までして祖国のために命を捧げられた英霊は、最も上位の本能である祖国防衛本能(祖国愛)が強かつたためであり、このことは、理性論では、到底理解もできないし、このやうな行動原理を説明することは到底不可能なのです。


戦後教育は「命の大切さ」といふ理性教育をしてきましたが、自己の命を捧げてでも護るべきものがあることを気付かせる本能教育が伝統的な真の教育なのです。


本能は決して単なる欲望ではありません。むしろ、理性、つまり計算能力こそが本能を超えた無制約の欲望を生みます。

損得勘定をして完全犯罪なるものを考へるのも、理性の働きです。動物は、こんな悍ましいことはしません。理性のある人間だからこそ、無益な殺生をしたり、必要以上の財貨を求めようとするのは、すべて理性の仕業なのです。


およそ、動物の本能は、それぞれの個体と種族を維持し続けるための「指令」であり、それに過誤がなかつたので生きながらへてきたのです。本能に設計ミスや施工ミスがあれば、自然淘汰されて、その個体は早世し、種族そのものが早晩絶滅します。


人は、本能を強くし、これを能力の土台として学習し、知識と経験を得て成長するのです。本能を強化する教育こそが教「育」なのです。現代の理性教育は、「教」あつて「育」がありません。

身を捨ててでも子を守り、伝承され続けてきた智恵と財産の「家産(身代)」の担ひ手となつた祖先を崇拝し、親を守り、家族を守り、その相似的に拡大した部族、種族、そして祖国を守ることは、まさに本能の働きなのです。生まれと育ちとによつて、家族愛、郷土愛、祖国愛(愛国心)などは本能の発露として育まれます。大脳の働きによつて、多くの事柄を知ることができれば、自分や家族や民族が生かされてゐることの感謝の気持ちが必然的に湧いてきて、それが祭祀の姿となつて、「祭祀神祇」(あまつかみくにつかみをいはひまつること)に繋がるのが人間の本能の働きなのです。


ところで、人間の「本性」は、「善」なのか「悪」なのかといふ性論が古くから有りました。しかし、ここでいふ「性」とは、人間が生まれ持つた先天的な「性質」のことですから、「本能」のことです。ですから、性善説が正しいことは当然なのです。ここで言ふ善と悪の区別は、本能の働きに適合することが善であり、本能に適合しないことが悪といふことになります。決して、道徳的、宗教的な判断のモノサシを使つて決められるものではないのです。


道徳的、宗教的な善悪の基準は、必ずしも同じではありません。また、道徳的、宗教的な善悪の基準と、本能適合性の基準とは、概ね一致しても完全に同じではありません。道徳的、宗教的な基準は、理性の働きによる価値体系で決まるものが多く、本能に適合しないことでも、道徳的、宗教的には善とする場合もありますので、存在論の領域にある本能を価値論の領域である理性による基準で判断しても意味がありません。


善悪の区別は、本能と祭祀に適合する方向が「善」であり、これに違ふ方向が「悪」なのであり、必ずしも、これまでの道徳的、宗教的な基準における善悪の基準とは異なります。


ところで、本能とは、個体の生命維持の機能と種内の秩序維持の機能の体系ですから、剥き出しの欲望を抑制して秩序維持を果たす働きがあります。


たとへば、大多数の人が近親相姦を犯さないのは、家庭内の秩序維持のために近親者には性欲を感じさせないように抑制する本能の働きがあるからです。このことは、レビ・ストロースの構造主義では、到底解明できない問題です。


人は、近親相姦をしてはならないといふ道徳的な学習を受けて理性の働きにより近親相姦をしないのではありません。むしろ、そんなことは教育現場で、口にするのもタブー視され、決して教はることはないのです。それでも、そのやうな行為に及ばないのは、種族保存本能に根ざした性欲は、これよりも高次の家族秩序維持本能によつて抑制されてゐるからです。欲望を抑制するのも高次の本能なのです。近親相姦が行はれば、家族の秩序は崩壊します。それでも近親相姦をする人は、本能が低下したり壊れた狂人なのです。理性以外のあらゆるもの(本能を含む)を失つた結果なのです。


理性といふのは、他の動物にはないとされます。それは、大脳がないか、大脳が発達してゐないためです。動物は本能だけでその指令に基づいて秩序正しく生きてゐます。無益な殺生も、強欲な蓄財も、そのために詐欺や裏切りをすることもありません。本能を超えて欲望を実現しようとするのは理性の働きです。つまり、理性は、「計算能力」であり、「損得勘定」が根底にあるからです。


狂つた人といふのは、本能が劣化し、あるいは喪失した「理性の怪物」だとするチェスタートンの言葉は、正鵠を得たものと言へます。


本能とは、生得的(先天的)であると学習的(後天的)であるとを問はず、大脳の思考過程を経ない機序ですから、祭祀を行はうとする動機は、反射的、直観的なものです。


天皇祭祀(宮中祭祀と神宮祭祀)は、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀の雛形です。我々は「祭祀の民」であり、祭祀こそが規範國體の枢要として実践し護持しなければならないことを推古天皇の御詔勅に示されてゐるのです。


祭祀を行はうとする動機は、本能を強化することによつて獲得されるものですから、合理主義からすれば、祭祀は理性といふ計算原理からして無用の長物です。かたじけなや、申し訳なやと感謝の祈りを捧げても、合理的な生活に何の利益ももたらしません。迷信や因習の最たるものであり、時間の無駄、労力の無駄です。合理主義によつて否定すべき最大のものは、本能原理による祭祀と不可分一体なものとして営み続ける精神生活なのであり、祭祀は、まさに規範國體の枢要なものなのです。


祭祀とは、神霊を招き、神人共食によつて一体化する営みを意味してゐます。大嘗祭は、天皇祭祀の典型なのです。祭祀の儀式や作法は大脳を経たものですが、祭祀の中心は、誓約(うけひ)です。誓約とは、初めに登場するのが記紀に出てくるアマテラスオホミカミとスサノヲノミコトとの「うけひ」であり、これは神意を伺ふためのものでした。それが、神と人との交流についても「うけひ」となり、人が命懸けで神意を求めて、これに神が応へるといふことになります。


明治時代に熊本で起こつた敬神党の乱(神風連の乱)は、偉大なる国学者の林桜園に師事した門弟らが、この誓約(うけひ)に従つて蹶起し、滅びの道を選んで後世にその心を伝へ続けることになつたのです。

この誓約(うけひ)とは、「受け霊」であり、大脳半球による理性的な思考過程によつて導かれるものではなく、まさに本能的な直観の領域です。


南出喜久治(平成31年1月15日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ