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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百二十二回 本能と理性 その九

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


イギリスの詩人トマス・スターンズ・エリオットは、「ある共同体に、ある他民族が、ある一定以上、ある一定速度以上で入つてきたら、その共同体(community)は壊れる。」と言ひました。


これは、戦争などによる「征服」といふ場合のやうに、征服者が問答無用で侵略してくる急激な変化の場合ではなく、どちらかと言ふと非暴力的に他民族が移民として流入してくる場合についてのことです。


暴力的な征服者は既存の共同体に入つて同化するのではなく、既存の共同体を破壊して放逐し、新たな共同体を作ることになるのですから、エリオットが言つてゐるのは、そんな場合ではなく、既存の共同社会に他の民族が比較的平穏に移民として流入してきた場合において、流入の人数とその速度の限界点を超えると、既存の共同社会が崩壊したり変質したりすることを述べてゐるのです。


文化、伝統の視点からすれば、共同体の秩序を維持してゐる慣習の中に織り込まれてきた共同体の伝統は、慣習の極端な変容によつて破壊されることを意味することになります。

習慣とは、勿論、祭祀や宗教などの信仰習慣を含むすべての生活習慣のことです。


既存の民族共同体にも宗教その他の信仰慣習があり、それが衣食住の生活習慣の基礎となる密接不可分なものとなつてゐます。そこに、別の民族の信仰慣習や生活慣習などの入り込むことによつて共同体に混乱を生じさせることになります。


「郷に入つては郷に従へ」と言ひますが、郷に入つても直ぐには郷に馴染めない人が徐々に馴染んで従ふまでには相当の時間が必要です。既存の習慣と流入した習慣とが融和したり共存して同化できるまでには相当の時間が掛かるのです。

その同化して行く速度よりも、流入する速度の方が上回ると既存の共同体は崩壊ないしは変質して行くことになります。


既存の共同体に同化できないのであれば、別の独立した共同体を形成すれば混乱は生じないやうですが、高度に分業化した現代では、主として経済的に他の共同体との関係を断ち切つた完全独立した共同体を形成させることはできないのです。どうしても、雇用や経済活動などでは密接な関はり合ひを持ち、共存せざるを得ないのです。


家族単位で信仰してゐる宗教生活を家族単位で密かに営む限度においては問題はありませんが、その中に、一人でも異なつた宗教信仰を持つた者が居ると、たちまち家族の共同が維持できなくなります。


宗教は個人主義ですので、家族主義とは相容れないのです。

また、宗教生活は、家族単位の限度で留まるものではありません。職場でも学校でも、その他のありとあらゆる生活事象で宗教生活やその習慣的行動が営まれて、周囲との差異が生じます。


宗教や民族的習慣が徐々に世俗化して、信仰が習俗化し民族意識が稀薄化すれば、他の者の違和感や嫌悪感などは生じなくなりますが、これに過度の期待を抱くことは到底できません。どうしても、基本的な違和感や嫌悪感は残るのです。


これが紛争や差別の源泉となり、これまで抑圧された感情が爆発して、極めて暴力的な衝動を生むことはこれまでも繰り返されてきました。また、このことを煽る過激思想が出てくるのも必然的なものです。


他者に対し違和感や嫌悪感を抱く者の感情を差別感情だとして問答無用で批判する人が居ます。これを強く批判すればするほど理性的な人とされます。しかし、そのやうな人には無自覚ではあつても大きな矛盾があります。

つまり、そのやうな理性的、良心的なことを言ふ人は、他者に違和感や嫌悪感を抱く者に対する違和感や嫌悪感を抱いてゐるのであつて、典型的な偽善者だからです。


そもそも、批判することは理性の働きではあつても、違和感や嫌悪感などの感情は本能の働きです。ですから、理性的な行動としては、異なる考へと自己の考への相違点を認識し、その相違について論理的に冷静な態度で議論し、自己の誤りと相手の誤りを互ひに修正し弁証法的に変化させることしかないのです。


大脳思考を経由するものを理性とし、それ以外のものを本能と定義すると、喜怒哀楽などの感情や感性と呼ばれるものなどはすべて本能の働きですから、理性では、両者が相違するといふ知性による認識とそれを克服しようとする意志が働くだけで、違和感とか嫌悪感などの感情が生じることはないのです。大脳思考によつて喜怒哀楽が生ずるものではないのです。


人間の持つ心的要素を「知情意」の三つに分類すると、理性は「知」(知性)であり、「情」(感情)は本能です。理性か、知性か、といふ言葉の問題で議論しても無意味です。大脳の思考を経由する働きか否かの概念定義の問題なのです。

そして、「意」(意志)については、行動の契機となるものですから、理性(知性)に基づく場合も、本能(感情)に基づく場合も、そして、双方が複合する場合もあります。


違和感や嫌悪感などの感情は、自己と異なるものを排除して自己保存するための本能に根ざした働きです。

生体を維持してゐる免疫機序におけるキラー細胞の存在は、個体内に侵入した異物を排除するものであり、この個体における防衛本能は、種族共同体における防衛本能でも同じだからです。


さうであれば、共同体を破壊する危険のあるものを排除して共同体を防衛しようとする感情は健全なものです。家庭の中に土足で賊が侵入してきたら、直ちにこれを実力で排除するのは、本能とそれに基づく行動なのです。理性的にこれを正当防衛など説明するのは後付けの理屈であり、正当防衛に該当するか否かの理性的判断に基づいて賊を排除するのではありません。


このやうに考へてくると、レイシズム、ショービニズム、ジンゴイズムなどの排外主義は、本能に根ざした感情に基づいて、それを理性的に構築した思想体系であるために、これらを完全に根絶させることは到底できないのです。

特段の実害がないのにエトランゼによる被害が生じたと幻想し妄想して大量虐殺するやうな行動は、本能が劣化したことによつて起こる現象です。本能が強化され正常に機能すれば、無益な殺生はしません。こんな行動に走るのは、計算原理で支配されてゐる理性が暴走してパラノイアと化した結果なのです。


それでは、どうするのか。


これらの暴走しやすい感情をコントロールして平穏な生活を維持させるためには、「自立再生社会」を実現させることしかないことが解ります。

そして、その社会を実現するためには、やはり、その前提として、本能を強化する教育を徹底して行ふことしかないのです。


自己の「命の大切さ」しか教へない過度な理性教育によつて、排外主義が異常に増殖したことの自覚がなければなりません。

自己の命を捨ててでも守るべきものはあるか、といふことを問ひ続ける教育でなければなりません。

理性の産物である平等思想は、本能とは到底相容れません。その過度な平等思想が本能を劣化させてきました。

また、家族を崩壊させて個人が社会の前線に突出してきたことにより、個人主義が横行し、無制限な自由が叫ばれたことも本能を劣化させる原因となりました。


「家族に育まれた個人が家族を崩壊させる。」

「祖先から命を受け継いだ個人が祖先を否定する。」


こんなことを平気でできる愚民を作り出したのが、前回述べたとほり、理性を至上とした個人主義の「砂の民」を粗製濫造した「近代」(均代)なのです。


家族を否定し、祭祀を否定するのは、余りにも愚かなことであり、自己否定に他なりません。臣民の暮らし振りは、皇室にも反映されます。また、その逆も然りです。


「令和」の御代では、君民一体となつて「祓庭復憲」(庭を祓ひ憲に復へる)により、家族と祭祀の再生を実現したいものです。

南出喜久治(令和元年5月1日記す)


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