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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四十一回 祭祀と宗教 その二

いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)


一神教のみならず、宗教全般において、どうして「孝」が信仰の邪魔になるのでせうか。


それは、神仏に従ふか、祖先に従ふか、そのいづれかといふ究極の選択を突きつけられることになれば、宗教信仰を揺るがす危機が生まれるからです。宗教では、孝は、喉に突き刺さつたトゲになつてゐます。


しかし、宗教は、初めからさうだつたのではありません。


一神教のユダヤ教であるのみならず、キリスト教、イスラム教の啓典宗教の創始的預言者であるモーセは、なんと、「孝」を十戒の中で示しました。

モーセの十戒とは、出エジプト記第20章の第3節から第17節にありますが、理解を深めてもらふために、その全節(第1節から第26節まで)を旧約聖書の日本語訳から引用して以下に示します


1神はこのすべての言葉を語って言われた。
2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。 8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
13 あなたは殺してはならない。
14 あなたは姦淫してはならない。
15 あなたは盗んではならない。
16 あなたは隣人について、偽証してはならない。
17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
18 民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。
19 彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。
20 モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。
21 そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。
22 主はモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々にこう言いなさい、『あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。
23 あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。
24 あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。
25 あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。
26 あなたは階段によって、わたしの祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所が、その上にあらわれることのないようにするためである』


十戒のうち、第一戒が第3節、第二戒が第4節から第6節、第三戒が第7節、第四戒が第8節から第11節、第五戒が第12節、第六戒が第13節、第七戒が第14節、第八戒が第15節、第九戒が第16節、第十戒が第17節です。

このモーセの十戒のうち、第一戒から第四戒までは宗教固有のものですが、第12節の第五戒では、人倫の戒めの第一番目として、「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」と「孝」を説いてゐるのです。


そして、モーセの十戒における父母の孝も、イエスが「福音書」で説いた父母の孝も、その後の宗教世界では、神との関係を絶対視するために、徳目としては希薄となり、否定される傾向であることはご承知のとほりです。モーセの十戒の概要を説明するとき、孝の説明を意図的に省略することが多くなりました。


ところで、旧約聖書を経典とする宗教は、すべて一神教となつてゐますが、そもそも旧約聖書は、一神教の経典であると決めつけることに大きな疑問があります。


それは、「God」の起源は、旧約聖書の原典のへブライ語のエロヒム(「Eloheim」又は「Elohim」)であり、「im」は複数形を表すからです。ヘブライ語原典の聖書には、数へ切れないほど「エロヒム」が出てきます。単数形は、「Eloh」(エロハ)または「El」(エル)ですが、エロハはではなく、すべてエロヒムです。このエロヒムといふ言葉は、「天空から降りてきた人々」といふ意味です。つまり、複数の人間なのです。竹内文献などで語られる「宇宙人飛来説」を想像しうる記載です。「God」を「神」と訳するのは最大の誤訳ですが、仮に、これを神と訳したとしても、「神々」と複数形になるのです。


このやうに、一般に、一神教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの啓典宗教では、モーセ五書(トーラー)に出てくる神名は、「エロハ(Eloh)またはエル(エール、El)の複数形のエロヒム(Elohim)であり、これをヤハウェといふ唯一神と解釈してゐます。


セム族が古くから用ゐてゐた複数形の神名を唯一神の神名として便宜的に借用しただけであるといふ詭弁を用ゐてまで、そのやうに解釈しなければ、一神教としては成り立たないからです。この解釈に異議を唱へることは一神教世界では絶対に許されないのです。


しかし、出エジプト記第20章2節には、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と語り、ユダヤ民族の神であるとするだけで、天地創造の絶対神(God)であるとは言つてゐません。といふことは、当時の神界における多神(総神)のうちの一神であるといふことになります。


モーセは、硬直化した現在の宗教世界の概念における「宗教」といふ言葉ではなく、「主の道」(申命記第28章第9節)と言つてゐます。当時における多神教世界の中で、ユダヤ民族固有の新興宗教を唱へたとも言へます。


このやうに、モーセの十戒を素直に読めば、①ユダヤ民族の神は天地創造神ではないこと、②ユダヤ教の成立過程において一神教であるとの根拠に乏しいこと、③モーセの十戒では祭祀の基軸となる「孝」を徳目として説いてゐたことなのですが、これらのことを否定し、または、隠蔽し、稀薄にしなければ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの啓典宗教の教義が根底から崩壊し破綻することになるのです。


いづれにしても、祭祀の基礎となる孝を捨てることは、祭祀を捨てることになります。かくして、宗教の成立のためには、信者もその祖先と同列平等にして、すべて神の僕とする必要がありました。祖先を特別扱ひすることは許されないのです。親子の絆は、ときとして入信の妨げとなります。そのときは、祖先も親も捨て、子を捨てることになります。そして、棄教するときは、家族の後押しと協力があるなどして、これも教団の敵対勢力となります。

これらのことについては、「青少年のための連載講座 祭祀の道」の「第二十二回 祭祀と宗教」(平成22年10月1日)に詳しく述べて居ますので読んでみてください。


ところで、人間は、その思考の産物として神仏を想起できます。ところが、宗教では、人間が想起した神仏によつて人間が創造された(あるいは救済される)とします。

人間が神仏を造つた。そして、その神仏が人間を造つた。

これは、果てしない典型的な循環論法の思想体系です。

そして、人間の観念によつて作られた神仏によつて人間が作られる(救済される)といふ矛盾した論理を受け入れさへすれば信者になることできます。

そして、それ以外の教義については、それほど抵抗のあるものではなく、論理思考で理解できるもので、すべて合理主義(rationalism)、理性万能主義で構築されてゐるのが宗教です。

そのため、宗教は、本質的に個人主義です。

親も子も信仰の前には平等で、子は親の意見に従ふ必要がありません。信仰上は全く独立した存在です。個々人が信心を得たり信仰を深めるのに、親子の縁は時として有害無益なのです。


親鸞は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず」(「歎異抄」第五条)と言ひましたが、孝を排除して祭祀を否定し、信心のみを求めるのが宗教の本質にある個人主義であり、近代合理主義思想と親和性があります。


近代といふのは、すべてを画一的に均一化し、没個性と平等化を推進することで、統治効率を高め産業規模を拡大するために方向付けされた文明のことです。


それゆゑ、近代とは、「均代」であり、「均乃」です。乃(だい)は、母の胎内で、未だ手足も覚束なずに身を丸くした胎児の象形文字ですから、民主、平等、法の支配、資本主義などいふ相互矛盾を含んだ統治原理(母体)の下にある人民(胎児、乃)は、均一、平等であり、各民族の持つ文化や伝統・歴史などの特性なるものはコスモポリタン化させるために徹底した同化政策からすれば、これらは有害なもので、完全に消滅させることを目的とする極めて乱暴で野蛮なものです。


その意味では、近代思想といふのは、民族や国境を越えて一律に同化させる宗教と親和性があります。それゆゑ、近代思想といふのは、一種の宗教なのです。


南出喜久治(令和2年2月1日記す)


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