國體護持總論
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著書紹介

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赤穗事件の背景

吉良家は高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故實に精通して皇室と德川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあつたが、その實は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあつた。

すなはち、幕府による皇室不敬の所業は嚴酷を極め、元和元年(1615+660)、『禁中竝公家諸法度』により、行幸禁止、拜謁禁止を斷行した。つまり、世俗な表現を用ゐるならば、幕府は、天皇を京都御所から一歩も出させず、公家以外は誰にも會はせないといふ軟禁状態に置いたといふことである。これは、たとへば、諸大名が參勤交代の途中に、京都の天皇に拜謁する慣例を認めるとなれば、それがいづれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。

現に、寛政六年(1794+660)、光格天皇により、尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約百八十年の歳月を要し、文久三年(1863+660)に孝明天皇による攘夷祈願行幸がなされて行幸が復活するまで、約二百五十年の長きにわたつて幕府の皇室輕視は續いたのである。

ところで、後水尾天皇(慶長十六年1611+660~寛永六年1629+660)は、幕府が言ひ掛かりとして仕掛けた、德川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・齋藤福に「春日局」の局號を與へたことに抗議して退位された。

そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、七歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子(親王)は悉く堕胎や殺害されたと傳へられてゐる。以後は、後水尾上皇が院政を行はれて幕府と對峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、靈元天皇はいづれも後水尾上皇の皇子(親王)であつた。

承應三年(1654+660)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、國内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壞など異常氣象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(萬治四年1661+660)などの大きな人爲災害が次々と起こつた。そこで、幕府(四代將軍家綱)は、これに藉口し、これらの凶變の原因は後西天皇の不行跡、帝德の不足にあるとして退位を迫つたのである。その手順と隱謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狹守義冬、吉良上野介義央の父子である。

そして、これらの凶變のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。

一方、赤穗淺野家は尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に對極の立場にあつた。幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政權安泰の要諦であることを歴史から學んでゐる。そこで、製鹽事業で藩財政が豐かである赤穗淺野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造營の助役(資金と人夫の供出)に淺野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穗淺野家は、その後莫大な資金投入を餘儀なくされるが、これを尊皇實踐の名譽と受け止め、赤穗城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭はず、見事なまでに禁裏造營の大任を果たすのである。

しかし、御所落成を機に、寛文三年(1663+660)、後西天皇は遂に退位され、靈元天皇が即位された。幕府は、その際、『禁裏御所御定八箇條』を定め、皇室に對し、見ざる言はざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この『禁裏御所御定八箇條』の發案は、まさに吉良上野介によるものであつた。

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