國體護持總論
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著書紹介

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皇道と士道

ともあれ、權威と權力、王者と覇者、王道(皇道)と覇道とを區分し、天皇を前者、武家を後者とする天皇不親政の原理である王覇の辨へ(二重皇權)の論理で捉へれば、楠木正成は、尊皇の道、すなはち「皇道」であり、眞田幸村は、武士の道、すなはち「士道(武士道)」である。この分類であれば、赤穗舊臣は、眞田幸村と同じ士道であり、決して、楠木正成の皇道と同じではない。

思ふに、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」とは至言である。したがつて、士道は、國家變革を起すだけの起爆劑とはなりえず、皇道のみがその役割を果たすことは、明治維新などを見ても明らかである。それゆゑ、この二つの道は全く異なる。皇道に反する士道もありうるからである。しかし、ともに「死ぬことと見つけたり」(山本常朝)とする身の處し方と至誠において一致するので、士道は、皇道の相似象、つまり「雛形」(ひひなから)としての性質と役割を果たしてきたのである。

ところが、眞田幸村と赤穗舊臣とは、ともに士道でありながら、その評價が著しく異なるのはどうしてなのか。さらに言ふならば、眞田幸村は、豐臣家の家臣であり、豐臣家の家臣として戰ひ、そして散つていつたのに對し、赤穗舊臣は、あくまで赤穗淺野家の舊臣であつて、舊臣として義擧し、舊臣として果てた。眞田幸村とは異なり、赤穗舊臣の場合は、「主君なき士道」であつて、士道の本道とはいへない。

また、吉良上野介を打ち果たせなかつたといふ亡君の無念を赤穗舊臣の立場で晴らしたまでであつて、いはゆる仇討ちとか、意趣返しといふものでもない。斬りつけられたのは吉良上野介の方だからである。淺野内匠頭が切腹となり、赤穗淺野家が取り潰され、その赤穗舊臣が流浪に身を置かざるを得なくなつたのは、幕府の裁斷によるものであり、吉良上野介の仕業ではない。その意味では、赤穗舊臣全員を切腹させるべきであるとした荻生徂徠の見識のとほりである。

この裁斷に異議を唱へるならば、大鹽平八郎のやうに、幕府に弓を引かなければならなくなる。亡君が仕へた武家の宗家(棟梁)に弓を引くことは、幕藩體制における武士としての大義名分が成り立たない。幕府の政道を糺すための義擧といふのは、士道からは導けない。士道の自己矛盾となるからである。しかし、赤穗舊臣の身となつたとはいへども亡君への忠義と節操を貫き、何としてでも亡君の無念を晴らしたい。このやうに、二律背反の相克に陷つた場合、士道は武士に何を求めるか。それは諫死である。士道は、公憤の義擧を否定し、私憤の領域である諫死によつて公憤を示すことを求める。つまり、赤穗城明け渡しに際して、亡君の後を追つて一同切腹して果てることが本來の武士の姿である。このことは、後世になつて、長州藩の山鹿流軍學を引き繼いだ吉田松陰も、鍋島藩に傳はる『葉隱(聞書)』(文獻294)を著した山本常朝もこれを指摘するところではあるが、赤穗舊臣は、それをせずに、吉良上野介に矛先を變へた。かといつて、これは義擧ではあるが、幕府の政道を直接的に糺すといふ公憤の名目ではなく、仇討ちに似た私憤の名目を掲げてゐる。これは、どうも、本來の士道ではない。したがつて、純粹に士道の觀點だけからすれば、眞田幸村の方が赤穗舊臣よりも高い評價が與へられて然るべきである。

しかし、赤穗舊臣の示した忠義の方が眞田幸村の忠義よりも、どういふわけか現代に至るまで根強く我々に感動を與へ續けるのは、この赤穗事件には、士道だけでは説明のつかない何かがあるからである。おそらく、赤穗事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿つてゐるためであらう。

それは、赤穗舊臣は、「士道」の名の下に、隱された「皇道」に殉じた側面が存在したからに他ならない。そして、我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隱されてゐる皇道の實踐を感得して熱狂し續けるのであらう。

では、一體、その皇道とは、どのやうなものであらうか。何があつたといふのであらうか。

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