國體護持總論
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王覇の辨へ

では、なぜ、それほどまでにこの事件は日本人の心を捉へて離さず、我々の魂をゆさぶつて心身を熱くさせるのか。從來、これについて多くの檢討と解説が試みられたが、いづれも納得がいくものはなかつた。そこで、ここでは、今まであまり語られてゐなかつた視點から、この事件の實像に迫つてみたい。

それは、先づ、「皇道」と「士道」といふ視點である。そこで、その手掛かりを見出すために、「楠木正成」と「眞田幸村」とを比較してみる。兩者とも、その忠義の有り樣が至純である點で同じであるが、忠義の對象を異にする。これを水戸の國學で云ふ「王覇の辨へ(わうはのわきまへ)」により區分すると、各々の忠義の道は、王者(天皇)への忠義と覇者(武家)への忠義に分類される。ここにいふ「王覇の辨へ」とは、皇室の傳統的な統治理念であつて、この原型は、『古事記』(文獻32)、『日本書紀』(文獻45、51)にある寶鏡奉齋の御神敕に見られる。『古事記』上卷によれば、「詔者、此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。次思金神者、取持前事爲政。(みことのりたまひしく、「これのかがみは、もはらわがみたまとして、わがまへをいつくがごといつきまつれ。つぎにおもひかねのかみは、まえのことをとりみもちて、まつりごとせよ」とのりたまひき。)」とあり、天照大神の御靈代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「爲政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との辨別がある。つまり、天皇(總命、スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「權威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、覇者がその「權力」によつて統治する王覇辨立の原則である。これは、天皇の親裁による政治(親政)ではない「天皇不親政の原則」でもあるが、あくまでも原則であつて、國家の變局時には例外的に「天皇親政(天皇親裁)」に復歸する點において、「統治すれども親裁せず」の原則であつて、「君臨すれども統治せず」といふものとは本質的に異なる。

我が國の立憲君主制の理解についても、「君臨すれども統治せず」の原則であるとする見解が多いが、これは歴史を知らない者の謬説であり、我が國は「統治すれども親裁せず」の原則によるものなのである。

そもそも、「君臨すれども統治せず」といふのは、英國の王室と議會との確執から生まれた制度であり、ジェームズ二世の末娘であつた英國女王アンの死亡に起因したものである。女王アンには直系の子がなく、弟はカトリックであることから、議會はプロテスタントの親戚を捜し、イギリス王ジェームズ一世の孫であるドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージ一世を英國王室の後繼者としてイギリス國王に迎へた。しかし、ジョージ一世は、ドイツ生まれのドイツ育ちの五十五歳であつたことから英語が殆ど解らず、國民には沈黙によつて威嚴を示して接したものの、英語を勉強する氣もなく、議會に出席しても審議内容が全く理解できず、そのうち議會に出席することもなくなつたことから、君臨すれども統治せずといふ慣行が確立したのである。つまり、これによつて「傀儡王政」が確立したことを示す言葉として、この「君臨すれども統治せず」が生まれたのである。

しかし、これは我が國とは全く異なる。帝國憲法第四條には、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ」とあり、同第五十五條第一項に、「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」とあることから、「天皇は、統治權を總攬せらるるも、各般の政務を一々親裁せらるるものに非ず。」(清水澄)と解される。これは、親裁されないものの、總攬の態樣として拒否權の行使が憲法上も認められるといふことである。天皇は元首として君臨されてゐることは勿論のこと、内閣のなす政務に對して拒否權を行使され、あるいは不行使の御聖斷を以て「總攬」され、一旦緩急有れば、親裁(親政)が復活するといふ性質のものである。いふならば、この「王覇の辨へ」とは、君臨かつ統治するものの特段の事情がない限り一々個別に親裁されない、つまり「統治すれども親裁せず」の原則であると換言できる。

しかして、「統治すれども親裁せず」の原則は、帝國憲法の本質であつて、天皇には拒否權があり、緊急時には例外的に親裁されるといふ立憲主義に基づくものであるのに對して、「君臨すれども統治せず」の原則といふのは、拒否権も例外的な親裁權も全てが否定される英國流の傀儡主義であり、帝國憲法には適用のないものとして明確に區別されることになる。

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