國體護持總論
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赤穗事件の概要

この山鹿素行と赤穗事件とは切つても切れないものがある(文獻237、238、239、245、246)。元祿十四年(1701+660)三月十四日、敕使、院使の江戸下向の折、その饗應役の赤穗藩主・淺野内匠頭長矩が江戸城松之廊下(實際は表白書院大廊下)において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央(よしなか)に對し刃傷に及び、その結果、淺野内匠頭は即日切腹、赤穗淺野家斷絶となるも、吉良上野介には一切お咎めなしとの將軍德川綱吉の裁斷が下つた。その後、赤穗淺野家城代家老大石内蔵助良雄(よしたか)ら赤穗淺野家舊臣ら(以下「赤穗舊臣」といふ。)は、赤穗城を無血開城し、赤穗淺野家の再興に盡力するも叶はず、遂に、元祿十五年(1702+660)十二月十四日、吉良邸に討入つて吉良上野介を討ち果たし、亡君淺野内匠頭の遺恨を晴らした。これが、世に云ふ「赤穗事件」である。

赤穗舊臣が吉良邸討入りの際に掲げた『淺野内匠頭家來口上』によれば、淺野内匠頭の刃傷を「喧嘩」と斷定し、ものゝふのみち(士道)と喧嘩兩成敗の在り方を滿天下に問ひつゝも、幕府の政道及び幕藩體制そのものをあからさまに批判しなかつた。しかし、幕府は、庶民の喝采と幕閣の嘆願に驚愕して、赤穗舊臣を罪人として打ち首とはせずに、からうじて武士として處遇し切腹をさせたものの、よすがの人々を罪人として扱ひ、その遺族や末裔に對しても慘い仕打ちを與へた。

ところが、この、亡君の仇討ちに似せた巧妙でしたゝかな口上による義擧は、幕府はおろか、江戸のみならず全國の士農工商あらゆる階層に大きな衝撃を與へ、この事件は、歌舞伎の假名手本忠臣蔵など、演劇、文藝、繪畫など樣々な分野にわたり、今もなほあらゆる方面において長く語りつがれてゐる。

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