國體護持總論
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二・二六事件

ところで、クーデターと聞けば、昭和十一年二月二十六日に起こつた二・二六事件を多くの人が想起するやうに、昭和史において、その規模と現代に至る影響力において二・二六事件は最大の事件であつた。ところが、この二・二六事件については、今まで史學の側面から、史實の探求と考察はそれなりになされてきたが、戰前においても戰後においても、二・二六事件を鎭壓するための緊急敕令の渙發と先帝陛下の御叡慮の表明が、憲法學的、國法學的に如何なる意味を有するのかといふ法律的な考察は充分になされなかつたので、以下これに言及したい。

二・二六事件の思想的支柱となつた北一輝(北輝次郎)の『國家改造案原理大綱』(大正八年八月)及び『日本改造法案大綱』(大正十二年五月)によれば(文獻33)、「天皇ハ全日本國民ト共ニ國家改造ノ根基ヲ定メンガ爲メニ天皇大權ノ發動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ兩院ヲ解散シ全國ニ戒嚴令ヲ布ク。」とあるやうに、國家改造の根據を帝國憲法が定める天皇大權に求めてゐるのである。謂はば、天皇親政のためのクーデター(立憲的政治變革)を指向するものであつて、國法學的分類に從へば、「委任的獨裁」の範疇に屬する。

この委任的獨裁といふ概念は、カール・シュミットの『獨裁論』(大正十二年)などが詳しい。これを要約すれば、「獨裁」の態樣は、獨裁權の由來に關する國法學的分類として、「委任的獨裁」と「主權的獨裁」とに區分される。「委任的獨裁」とは、國家社會主義ドイツ勞働者黨(ナチス)がドイツ・ワイマール憲法第四十八條に基づき、合法的かつ民主的に全權委任法を成立させ、一黨獨裁政權を樹立したやうに、國家緊急時において國家の本質的な現存憲法體制を擁護するため、一時的にその憲法條項を停止する獨裁形態であり、現存憲法自體の委任による、いはば「現存憲法に基づく獨裁」である。これに對し、「主權的獨裁」とは、たとへば、ソ連共産黨がプロレタリアート獨裁の前衞黨と位置づけて一黨獨裁政權を打ち立てたやうに、將來の理想的憲法を實現するために、現在の憲法秩序を制定した權力とは異なる新たな憲法制定權力を前提とする、いはば先取り的な「將來憲法に基づく獨裁」である。

このことは、政治學的分類としての、「秩序獨裁(反革命獨裁)」と「革命獨裁」との區分に概ね對應する。「秩序獨裁(反革命獨裁)」とは、現存國家體制秩序を擁護するために、主として革命運動の彈壓を目的とする獨裁であるのに對し、「革命獨裁」とは、その逆の方向として、革命運動の目的推進のための獨裁と云へる。

しかし、いづれにせよ、帝國憲法は、國家緊急時の場合にのみ天皇に委任的獨裁權としての戒嚴大權などを與へてゐるが、その緊急時といへども、憲法改正手續によらず、戒嚴大權や非常大權により憲法事項まで改正することはできないのである。また、講和大權の行使による場合以外には、憲法の停止をすることは不可能なのである。つまり、帝國憲法下では、委任的獨裁は「天皇親政」とされてゐることから、首相を指導者とした一國一黨組織は國體に反するとする見解が根強く、難産の末に成立した『國家總動員法』(昭和十三年法律第五十五號)は、ドイツの委任的獨裁でもソ連の主權的獨裁でもない、單なる戰時立法の域を出なかつた。また、この國家總動員法と連動した「大政翼贊會」構想についても、帝國憲法において帝國議會に保障された立法協贊權を剥奪するものとして、帝國憲法違反であるとの意見が強く、完全な獨裁體制にまでには至らなかつたのである。

つまり、帝國憲法は、ドイツの委任的獨裁やソ連の主權的獨裁による「全體主義法制」を立憲的に阻止しえた法制として、世界的にみても畫期的なものである。

從つて、この北一輝の國家改造思想には、帝國憲法の無理解による謬論であり、立憲的見地からして根本的な矛盾がある。それは、立憲的に認められた天皇大權に基づいて非立憲的な改造を斷行しようとした點である。形式的には委任的獨裁(秩序獨裁)であるが、實質的には主權的獨裁(革命獨裁)を斷行しようとするものなのである。しかも、憲法護持と憲法破壞(憲法否定)、絶對君主と立憲君主、革命と反革命といふ、いづれも二律背反の事項を混在させようとした思想的矛盾がみられる。このやうに、北一輝の思想は、國内社會改造案に關しては、その方法論において「天皇の意志によらない天皇親政」と「憲法の規定によらない憲法改正」を指向した大いなる自家撞着に滿ちたものであつた。北一輝は、銃殺刑執行の直前に、西田税が「天皇陛下萬歳を三唱しませうか。」と問ふたことに對して、「俺は死ぬ前には冗談は言はないよ。」と答へたといふ。北一輝の「尊皇」的言説は、所詮「冗談」であつたのである。

ともあれ、二・二六事件は、この北一輝の思想に基づき、「元老、重臣、軍閥、官僚、政黨等は此の國體破壞の元凶なり」とした『蹶起趣意書』を以て斷行されたクーデター未遂事件であると認識しうる。

ところで、二・二六事件の結末は、次の經過を辿る。

翌二月二十七日午前二時四十分、皇居にて樞密院會議が戒嚴令の施行を決定。同日午前三時五十分、「朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮問ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム」との緊急敕令により、同日から叛亂軍將校が處刑された後の同年七月十八日まで帝都(東京全市)に戒嚴令が施行。同日午前八時二十分、天皇は、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲシテ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所屬師團長ノ隷下ニ復歸セシムヘシ」との奉敕命令を親裁された。そして、同年三月四日には、同じく緊急敕令により東京陸軍軍法會議が設置されて、この事件は封印されることとなつた。

何故さうなつたのか。

このことについての手懸かりは、本庄繁侍從武官長の日記にある(文獻48)。この日記よれば、以下のやうな同年二月二十七日の陛下に拜謁の折りの陛下と本庄との會話がある。


本庄 「彼らの行爲は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神に至りては君國を思ふに出でたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」

天皇 「朕が股肱の老臣を殺戮すかくのごとき凶暴の將校等その精神においても何の恕すべきものありや」「朕が最も信賴せる老臣をことごとく倒すは眞綿にて朕が首を絞むるに等しき行爲なり」

本庄 「彼ら將校としてはかくすることが國家のためなりとの考へに發する次第なり」

天皇 「それはただ私利私欲のためにせんとするものにあらずと言ひうるのみ」


との會話がなされ、


「此の日陛下には鎭壓の手段實施の進捗せざるに焦慮あられられ『朕自ら近衞師團を率ひ、これが鎭定に當らん』と仰せられ眞に恐懼に耐へざるものあり」

とある。

そして、陛下は、「自分としては、最も信賴せる股肱たる重臣及び大將を殺害し、自分を眞綿にて首を絞むるがごとく苦惱せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行爲たるや憲法に違ひ、明治天皇の御敕諭にも悖り、國體を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に肅軍の實を擧げ再び失態なき樣にせざるべからず。」との御叡慮を示され、叛亂軍は、宸襟を惱まし、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(軍人敕諭 資料十)に背き、國體明徴を汚す者となつたのである。

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