國體護持總論
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著書紹介

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敬神黨の亂

ともあれ、維新運動には樣々な特徴があるが、中でも特に注目すべきものとしては、敬神黨の亂(神風連の亂)と二・二六事件、それに三島事件がある。

二・二六事件は、帝都で起こつた最大のクーデターであり、「功業」すなはち國家改造の可能性を祕めながら、それを追ひ求め續けた點において明治維新と比肩され、三島事件は、國家改造に捧げる「忠義」の實踐として諫死したといふ點に敬神黨の亂に似たおもむきがある。そして、三島由紀夫と森田必勝は、この敬神黨の亂を戰後の昭和に蘇らせて市ヶ谷に散つた。「七生報国 天皇陛下万才」と房壁に記して自決した山口二矢などもその系譜にある。悠久の大義に生きたのである。

吉田松陰は、「其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」(文獻9)として弟子たちと義絶したが、これが「功業」と「忠義」の違ひである。松陰が太陰太陽暦で安政六年十月二十七日に處刑された祥月命日の昭和四十五年十月二十七日(太陽暦の十一月二十五日)に三島由起夫らが自決の日として選んだのは、その搖るぎない信念を示してゐる。

では、三島事件の源流とも云へる敬神黨の亂、俗に神風連の亂と呼ばれる事件はどのやうなものであつたか、その概要を以下に述べてみたい(文獻63、95、115、299)。

本居宣長、高本紫溟(しめい)、長瀬眞幸(まさき)の國學を受け繼ぐ林櫻園の薫陶を受けた太田黑伴雄(おほたぐろともを)、加屋霽堅(かやはるかた)が率ゐる敬神黨は、敬神、尊皇、攘夷を基軸とし、帶刀總髪を固守してきた。しかし、明治九年三月二十八日に廢刀令、同年六月二十六日に熊本縣に斷髪令が出たことから、それまでの盟約に基づき、太田黑が宇氣比(うけひ)を行つて神慮を受け、その決起の時は十月二十四日の月の入りを合圖にすることとなり、同日の月の入りに擧兵した。政府は、明治維新後急速に歐米化を推進する。そのため、憂國の至情から、日本古來の傳統や文化の崩壞を憂慮して、攘夷論者を取り締まるために置かれた鎭臺の一つである熊本鎭臺などの官軍の據點を敬神黨百七十名が攻撃したが、多くの戰死者、自刃者を出して一夜にして滅んだ。しかし、豫め盟約してゐた宮崎車之助と前原一誠とが、これに呼應して秋月の亂、萩の亂を決起することになる。これが敬神黨の亂であり、これを揶揄して世にいふ神風連の亂である。

慶應三年十月十四日の大政奉還、そして、神武創業の理念を掲げて祭政一致を目指した同年十二月九日の王政復古の大號令、慶應四年三月二十八日の神佛分離令(神佛判然令)、さらに、明治二年七月八日の神祇官の設置、明治三年一月三日の大教宣布の詔までのころは、確かに敬神黨が望む方向であつたに違ひない。

そのころ、敬神黨が師事する林櫻園は、藩主を通じて朝廷の招聘により熊本を出發して東上する。明治二年七月のことである。これに敬神黨の太田黑伴雄、井戸勘兵衞等が随伴した。この林櫻園の東上は、敬神黨の絶頂期であり、確かに榮譽には違ひないが、これには開國派の深謀遠慮があつたと疑はざるをえない。といふよりも、既にその時點で時代は大きく水面下で動いてゐたのである。

明治三年正月七日に林櫻園は有栖川宮に拜謁が叶ひ、有栖川宮も林櫻園を大いに嘉賞された。その後、同年四月二十四日に林櫻園は東京を出發し、後事之儀を井戸勘兵衞と太田黑伴雄(大野鐵兵衞)に寄託するとの書状を青木彦兵衞を通じて岩倉具視に屆けて、一行は歸途に着き、途中、伊勢參拜を經て同年六月四日に熊本に歸着した。すると、敬神黨は「浦島太郎」になつてゐた。熊本藩政は、富國強兵、殖産興業による「文明開化」といふ傳統文化の破壞をもたらす歐米化を推進する橫井小楠が率ゐる實學黨が實權を掌握し、敬神黨にはその身の置き所がなかつた。直ちに、敬神黨は擧兵を計畫し、佐久間象山を暗殺した河上彦齋も參加して井戸勘兵衞(その後年月日不詳に自殺)が藤崎宮で神慮の宇氣比(うけひ)を行つたが、擧兵不可と出たためやむなく中止することになつた。林櫻園と敬神黨は、「攘夷か開國か」の二者擇一から、幕府のなした開國を明治政府が受け繼いだとしても、それは「將來の攘夷のための開國」へと方針轉換しただけにすぎなかつたはずが、次第に「攘夷の心を捨てた開國」へと變節し、開國を積極的に受け入れて傳統が壞されて行く流れに忸怩たる思ひを抱いてゐたのである。林櫻園は、東上の際にも、このまま開國を續ければ尊皇敬神の傳統は朽ち果てることを強調し、今からでも直ちに斷交し、それによつて諸外國が攻めて來ても、我が國は敵を内部に引き入れてゲリラ戰で對抗すれば、必ずや勝利し獨立を保持できる旨を説いてゐたのである。つまり、これは、當時の自給自足體制による國力の強みがあり、侵略軍には海上經由による兵站の限界があることから、侵略軍が持久戦に耐えることができないために我が國が必ず勝利できると説いたのである。これは、元寇のときも同じ状況であり、まことに卓越した見解であつた。しかし、この卓見を政府は理解し得なかつたのである。

ところで、宇氣比が不可と出たこの時以降、さらに敬神黨の望まない方向へと一氣呵成に動き出す。まづ、その心柱とした林櫻園が、長い旅であつたためか、歸熊後に衰弱が著しく、遂に同年閏十月十二日に死去し、翌十一月には、河上彦齋の投獄に始まつて、加屋榮太(霽堅)、富永守國、鬼丸競、吉海良作、荘野彦七、福岡應彦ら敬神黨の主だつた面々が次々と投獄された。河上彦齋は、明治四年十二月に斬首され、「君がため死ぬるむくろに草むせば赤きこころの花や咲くらん」の辭世を遺した。その間、明治四年七月には廢藩置縣が斷行され、同年八月八日には神祇官を廢止し神祇省を設置された。實質上の神祇の格下げである。同年八月九日には「散髪脱刀勝手たるべし」の布達、同年九月一日には熊本藩校として熊本洋學校が開校し、米軍人ジェーンズ教官となりキリスト教主義による教育が開始され、明治五年三月十四日には、ついに神祇省を廢止し、式部寮、教部省を設置してその事務を移管し、その教部省を同年十月二十五日に文部省に合併してしまふ。明治五年十一月九日には、太陰太陽暦の明治五年十二月三日を新暦(太陽暦)の明治六年一月一日(元旦)とすることが發表された。

だが、その年の五月三十日に白川縣(後の熊本縣)の縣令に安岡良亮を任命され、安岡縣令は、實學黨を政權から放逐した。そして、その他の學校黨、勤王黨、敬神黨に縣政協力を要請するが、敬神黨は、文明開化の流れは變はらずとしてこれを拒絶した。安岡縣令は、おそらく、急進的な改革による敬神黨との大きな軋轢を回避して、漸進的な改革により敬神黨を懷柔する方針であつたものと思はれる。敬神黨は、それを見拔いたのである。

すると、同年十月二十四日に、いはゆる明治六年の政變が起こり、西郷隆盛が辭職し、翌二十五日には副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平らが次々と辭職し、明治七年二月一日には大久保利通の策略に嵌められて佐賀の亂(江藤新平、島義勇らの擧兵)が起こる。そこで、學校黨と敬神黨の主な人々は、長老住江甚兵衞の下で決起の可否を論じたが、住江は名分を説いてこれを鎭め、新開大神宮の神旨も不可と出たため、またもや擧兵を中止し、學校黨と民權黨も擧兵を中止した。同年七月になると、安岡縣令の薦めもあつて、敬神黨の多くが神職となり、縣内主要二十三社に五十六名が神官として奉仕することになるが、神職は祭祀のみを行ふものとされ、獨自の布教活動を禁じられた。敬神黨の神職封じ込めである。そのやうな情況の中で、明治八年二月、太田黑伴雄は、主な同志を新開大神宮に集め、大勢挽回の計策を議し、三策を立てて神慮を伺ふ。その一は政府要路への建白、その二は奸臣の暗殺、その三は挽回のための擧兵であつた。太田黑の精誠をこめた宇氣比の乞ひに對しする神慮は三策とも不許と出たためこれに從ひ、その場で同士たちが誓書を認め盟約を固め生死を共にすることを誓つた。

明治八年になると、神道布教の中央機關として明治五年に設置されてゐた大教院が廢止されることになつた。それは、神主佛從に對する不平と祭政一致などを批判する島地黙雷(眞宗本願寺派僧侶)らが猛反對し續けた活動が實つたといふことである。眞宗本願寺派(西本願寺)は、歴史的に見て反德川幕府の傳統があり、長州藩の庇護のもとで倒幕勢力の一翼を擔つたことから、この活動には長州閥の後押しがあつた。そして、明治九年一月三十日には、熊本洋學校生徒(橫井時雄、海老名彈正、德富蘇峰ら)が花岡山で祈祷會を開き、全員が信教を盟約し、キリスト教奉教趣意書に署名してキリスト教結社・熊本バンドを密かに結成するといふ事實が安岡縣令側に發覺し、これを契機に熊本洋學校は廢校となるが、明治九年三月二十八日には、武士の魂を捨てろとする廢刀令が出るのである。加屋は、廢刀すべかざるの論を草して安岡縣令に呈し政府への傳達を願つたが、安岡縣令がこれを拒絶したため、加屋は錦山神社祠官を直ちに辭したものの、他の同志がこれに續くのを押しとどめた。加屋は、他に考へるところがあり辭したが、皆が辭めたら神明に奉仕し神慮を安んずる者がなくなる、との理由から他の者の辭職に反對したのであつた。すると、今度は、同年五月に、安岡縣令は、學校の教員、生徒に對する散髪令を發し、同年六月二十六日には熊本縣に斷髪令が出され、ここに至つて、帶刀總髪を固守してきた敬神黨の生き樣すら許されないといふ事態に至るのである。

そして、加屋は「廢刀奏議」を草して元老院に上書諫奏する準備をなし、太田黑は一黨の首腦に擧兵の決意を打ち明け、齋戒沐浴してを伺ふと、ついに結果は可と出た。そして、來熊の宮崎車之助と會盟し、富永守國、阿部景器が宮崎車之助の先導で秋月に赴いて同志と會ひ、さらに萩に赴いて前原一誠と盟約を結ぶなど、柳川、久留米、福岡、鶴崎、島原、佐賀、豐津などの同志と連契をとつた。太田黑により宇氣比がなされ、十月二十四日の月の入りを合圖に擧兵と決まつたのである。そして、加屋が錦山神社の祠掌浦楯記に神意を伺はせると、ここでも決起を可とする神示があり、「廢刀奏議」を認めて勤王黨の長老魚住源次兵衞に託すことになる。そして、最後の軍議において、上野堅吾が近代火器を用ゐるやう主張したが、大勢は「神兵に洋風兵器は不用」と決し、古來の刀槍のみで戰ふことになる。ただし、燒打用の燒玉と石油入りの竹筒は使用し、糧食や負傷者の看護などについては、一氣に敵營を乘取つて全てを調達することに一決した。義擧においても武士としての作法を重んじたのである。

この敬神黨の亂において特徴的なことは、宇氣比(誓約、うけひ)である。林櫻園は、前に述べたとほり、東京を去るについて、青木彦兵衞を通じて岩倉具視に屆けた書状に、後事之儀を井戸勘兵衞と太田黑伴雄(大野鐵兵衞)に寄託したとされるが、この「後事之儀」とは、敬神黨においては「宇氣比」のことである。この後事において最も信賴されてゐた井戸勘兵衞がその後自殺した原因は定かではないが、この宇氣比の嚴しさと關係がないとは云へない。この宇氣比(うけひ)とは、天照大御神と速須佐之男命の、いはゆる瑞珠盟約の章に、「於是速須佐之男命答白、各宇氣比而生子。(ここにおいてはやすさのをのみことこたへまをししく、おのおのうけひてこうまむとまをしき。)」(古事記上卷)とあり、また、『日本書紀』にも、これと同じ場面において「誓約(うけひ)」(日本書紀卷第一神代上第六段)とあり、さらには、「卜問(うらとひ)」(日本書紀卷第五の崇神天皇七年の條)といふのも同義であつて、たとへば、太田黑の行つた宇氣比のやうに、擧兵の許しを庶幾ふ心を強く抱き、それを期して神前で眞摯に命がけで祈つて神示を得るための卜占を含んだ祕事のことである。

このやうに、敬神黨の擧兵には、およそ「功業」の計畫がない。いくらでもそれまでに政治的な工作や驅け引きができたのに、それを拒絶して至純無雜に貫いた。すべては神のはからひといふことである。何度か擧兵を決意したが、その都度の宇氣比による神意は否と出た。この義擧に至るまで、宇氣比による何度も擧兵を思ひとどまり、敬神黨は幾とせも耐へてきた。「益荒男が手挾む太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜」といふ三島由紀夫の辭世の句は、そのまま敬神黨の思ひでもあつた。

ともあれ、通常、維新とかクーデターには、吉田松陰の説いた「忠義」と「功業」の雙方を備へるものである。しかし、敬神黨の亂と三島事件などは、至純無雜な國家改造の「忠義」の實踐としての「諫死」であり、國家改造の功業といふ展望が少しもなかつたといふ意味で「義擧」といふのである。

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