國體護持總論
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大東亞戰爭の敗戰處理

では、次に、大東亞戰爭の敗戰處理についてはどうか。

つまり、ポツダム宣言受諾の際の陛下の「御聖斷」(親裁、敕裁)についても、「天皇の側からのクーデター」ではないかとの同樣の指摘があり、これが帝國憲法において許容されるのか否か、そして、その後になされた帝國憲法の改正法とされた占領憲法の制定手續、就中、その中心的な部分となる天皇による占領憲法の「公布」は、帝國憲法に適合するのか否かといふ點である。

まづ、「御聖斷」とは、ポツダム宣言受諾といふ講和大權の親裁行使であつて、この時點ではその行使についての要件である緊急性は紛れもなく存在した。それゆゑに帝國憲法に適合して合憲である。

しかし、その後、帝國憲法の改正法とされる占領憲法の制定、つまり、帝國憲法第七十三條に基づく敕命による發議と公布についてはどうか。結論を先述すれば、この憲法改正大權の行使は、後で詳しく説明するとほり、帝國憲法第七十五條に違反し、かつ、緊急性の要件を滿たさないのであつて、帝國憲法に違反して違憲無效であるといふことになる。「天皇と雖も國體と帝國憲法の下にある」ことは、第四條の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」とすることからも當然のことなのである。

そして、その改正手續の違憲に加へて、占領憲法の内容は、明らかに國體破壞の内容であるから、これもまた違憲無效である。占領憲法の制定により國體の變更があつたか否かについて、八月革命とか、八月クーデターとかの議論は、今では淘汰された噴飯ものの理論であることについては後で述べるとして、GHQによる直接全面占領が國内的には緊急敕令(ポツダム敕令)に基づてなされ、その占領下で占領憲法が制定かつ施行されたといふ點については、帝國憲法に基づく立憲的措置とはほど遠いものであつたことは確かである。その意味からして、占領憲法制定に至る經過は、まさに反立憲的なものであり、また、その内容において反國體的なものであることは多言を要しない。つまり、占領憲法には、手續的正義(合法性)も實體的正義(正統性)もない。それゆゑ、これは「GHQによる天皇の名を借りたクーデター」といふべく、この帝國憲法の改正としての占領憲法制定手續とその内容は絶對に帝國憲法が容認するものではないのであるから、占領憲法は帝國憲法の改正法としては絶對に無效である。いはば、占領憲法の制定は、帝國憲法の改正の名による反立憲的(反國體的)行爲であり、承詔必謹論を以てこれを容認することは反國體的言説に外ならない。そして、結論的には、後に述べるとほり、國體護持のために、『帝國憲法』と『皇室典範(明治典範)』を復元させる一切の措置がとられるべきであるといふことである。

ここで『皇室典範』といふのは、明治二十二年二月十一日制定の『皇室典範』(資料十一)を意味する。これを以下においては、「明治典範」と呼稱し、成文法であるこの「明治典範」と、三種の神器、宮中祭祀、男系男子の皇位繼承など、古來よりの皇室の家法である不文法としての皇室慣習法及び宮務法體系に屬する規範の總體を「正統典範」と呼稱して、非獨立時代のGHQ軍事占領統治下の昭和二十二年一月十六日公布、同年五月三日施行された同名の『皇室典範』(以下「占領典範」といふ。資料三十三)とは峻別されるものである。占領憲法と占領典範(皇室彈壓法)を排除して帝國憲法と正統典範を復元し、正統秩序を回復することは、帝國憲法によつて立憲的に容認されてゐるのである。

附言するに、天皇が任命大權を直接行使したとされる例として、張作霖爆殺事件(滿洲某重大事件)の處分問題に關して、天皇が田中義一首相に辭表提出要請をしたことから總辭職となつた例がある。昭和天皇は、田中義一首相が、事件首謀者である河本大作大佐の處罰と支那に對する遺憾の意の表明をするとしてゐたのに、この事件をうやむやの中に葬りたいとの思ひで前言を翻したことから、前掲獨白録(文獻177)にも、「・・・それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は、田中に對し、それでは前と話が違ふではないか、辭表を出してはどうかと強い語氣で云つた。こんな言い方をしたのは、私の若氣の至りであると今は考へてゐる。」とある。まさに「綸言汗の如し」であるが、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(帝國憲法第三條)との無答責の規定によつて、如何なる天皇の行爲も法的かつ政治的な責任がないことはもとよりである。

また、ポツダム宣言の受諾と玉音放送の實施を阻止し、聖戰完遂のために、昭和二十年八月十四日深夜から翌十五日にかけて、陸軍省の一部の幕僚と近衞師團參謀らによるクーデター未遂事件(八・一四事件、宮城事件)では、近衞第一師團長森赳中將を殺害して師團長命令を僞造し、近衞歩兵第二連隊により皇居(宮城)を占據したが、師團長命令の僞造が發覺し、ポツダム宣言受諾自體を阻止し得なかつたことから自滅的に未遂に終はつたのであつて、「玉」を擁した錦旗行動ではなかつたし、陛下の堅い御叡意を覆すことはできなかつたのである。

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