國體護持總論
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禮樂の振動的平衡

また、同じく社會科學としてその科學的考察を必要とする法律學、憲法學、國法學、政治學、經濟學などの分野においても、同じく「科學」である限りは、この雛形理論が適用されることになる。つまり、國家と社會、民族、部族、家族、個々の國民とは、同質性が維持される自己相似の關係にあり、個體の細胞や分子が全く入れ替はつても人格が連續する姿は、皇位が歴代繼承され、國民が代々繼襲しても、それでも連綿として皇統と國體は同一性、同質性を保つて存續する國家の姿と相似するのである。「國」は「家」の雛形的相似象であることから「國家」といふのであつて、前に述べた天皇機關説や國家法人説も、人體と國家の相似性に着目した學説であつた。また、占領期の昭和二十一年の詔書にも、「夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、獻身的努力ヲ效スベキノ秋ナリ。」とあるやうに、家から國家、そして世界の自己相似性が國體の本質であることが確認されてゐる。

そして、「生體」がその構造と代謝の基本單位である「細胞」で成り立つてゐるのと同樣、「國家」もまたその構造と代謝の基本單位である「家族」から成り立つてゐる。家族(細胞)が崩壞して、ばらばらの個人(分子)では國家(生體)は死滅するのであり、「個人主義」から脱却して「家族主義」に回歸しなければ、國家も社會も維持できない。

さらに、雛形であるといふことは、まさに、動的にも靜的にも形がなければ成り立たないといふことである。「形無し」といふ言葉が「價値無し」を意味するとほり、雛形構造が維持されるためには、萬物の事象において「かたち」が必要となる。そのことは、人の生活や社會と國家においても同樣で、人の社會において禮儀作法や規範といふ形が崩壞すれば社會それ自體が崩壞する。形としての人の禮儀作法は、社會規範の原型であり、その御靈(みたま)の依代であり器に他ならない。禮儀作法が廢れれば、國家もまた廢れるのである。

しかし、その形や器は、決して靜的かつ固定的なものではない。形と器の存在態樣についても、やはり「動的平衡」による安定を保つてゐるのである。分子の微少振動、分子回轉、ブラウン運動や「ゆらぎ(fluctuation)」などのやうに、また、獨樂(こま)の回轉軸がゆつくりと方向を變へて回轉する現象や地球の自轉軸が約二万五千八百年の周期で首振り運動をするなどの歳差運動のやうに、事物が安定的に存在しうるのは、「周期的振動」にある。二極が相即不離の關係にあり、華嚴經の説く、相即相入、事事無礙といふのも、振動的平衡による雛形構造を意味するものである。形を收縮させる方向と擴散させる方向、陰と陽、緊縮と緩和、収束と擴散などのやうに、中心軸又は中心點から対照的に存在する兩極への反復振動によつて動的平衡(振動的平衡)が生まれる。回轉したり振動してゐる状態の方が、停止したり静止してゐる状態よりも安定した力と姿が保てるのである。「魂振り」によつて魂の活力の再生があるとするのも同樣の教へである。式年遷宮の傳統も然り。この動的平衡の本質は、産靈(むすひ)であり、伊邪那岐命と伊邪那美命の國生み、天照大御神と速須佐之男命の瑞珠盟約が祖型となつてゐる。また、儒教の根本規範とされた「禮樂」の思想なども、この「振動的平衡」によつて説明できる。禮儀、規範といふ形による行ひの戒め(禮)と和歌(長歌、短歌など)と音樂(歌舞音曲、樂曲歌唱)による心の和らぎ(樂)、つまり、緊張と緩和の節度ある營みによつて「忠恕」(まごころとおもひやり)を得ようとする眞理の智惠なのである。歌會における瀟洒で荘嚴なる韻律を以てなされる和歌の朗詠や神前でなされる祝詞の奏上などは、魂振りの祖型を今に傳へるものである。また、「樂は内を修むる所以なり。禮は外を修むる所以なり。」(禮記)、「仁は樂に近く、義は禮に近し。」(禮記)、「樂は同を統べ、禮は異を辨つ。」(禮記)などは、「禮」と「樂」が對極に位置しながら相互に作用し合ふ關係にあることを説明するものであり、佛教などで經文などを獨自の誦法で諷詠する聲明(しゃうみゃう)することや、曲調をつけて詠ずる讃嘆、和讃、偈、融通念佛、六齋念佛なども、經文などの意味内容(禮)がその曲調などの旋律(樂)とが合體することによつて動的平衡の調和を實現しようとしてきたものと云ふことができる。

つまり、禮と樂は、緊張と緩和、ハレ(晴)とケ(褻)、靜と動、陰と陽、月と日、外と内、義と仁、異と同、統と辨、理(思想)と情(情感、情念、心情)といふ對極關係にあり、しかも、それは靜止状態で對してゐるのではなく、あたかも時計の振り子の如く中心から左右に振幅し続ける動的平衡によつて調和するのである。これらは、魂振(たまふり)による振動的平衡の雛形となつてゐる。あたかも天照大神の「御統の珠」(みすまるのたま)の如く、對極にある二つの分節が、それぞれ獨自に存在しつつも、その二つが繋つて一つとなり、互ひ雙方向に影響し合ふ關係である。決して、分離獨立した上下の關係でも一方が他方を包含する關係でもなく、また、一方のみが他方に對して一方向的に影響を與へる關係でもない。

従つて、これは、支那の宋儒の説(朱子學)のやうな靜止的で固定的な二分説である理氣説(理氣二元説)や、その原型として影響を與へた佛教の「理事論」の考へ方とは明らかに異なるものである。「理事論」では、森羅萬象を「理」と「事」とに二分し、「理」とは因縁を超越した真理であるのに對し、「事」とは因縁による現象として不可逆的に二分したのと同樣に、理氣説では、森羅萬象を「理」と「氣」に二つに分離して認識し、「理」とは、形而上學的意味における宇宙萬物生成の原理であり、「氣」とは、形而下學的意味における萬物生動の原質(陰陽、五行による現象を含む)であるとした。そして、朱子學は、「性即理」とするのに対し、朱子學が斯文(儒學)の亂賊と批判した陽明學は、「心即理」、「知行合一」、「致良知」とした。心を性と情とに峻別した朱子學の硬直化した認識とは異なり、心の動的平衡の調和を認識しようと試みたのが陽明學であつたと云へる。

ところで、和歌の朗詠や音樂(歌舞音曲、樂曲歌唱)について云へば、歌詞と旋律(メロディー)が一體的に調和した關係となれば、人の心を搖さぶる動的平衡を生む。言靈(ことたま)とは、言葉(ことのは)の意味(禮)と旋律(樂)とが一體調和して生まれる産靈(むすひ)である。歌詞と旋律との關係は、禮と樂の關係、そして、理性と感性(本能)の關係に相似してゐる。

餘談であるが、「むすんでひらいて」の歌の旋律は、ルソーの作曲である。後に述べるとほり、ルソーの歪んだ理性によつて構築された理論(社會契約説、主權論)は破綻したものとなつたが、ルソーにも人竝みの感性があつたといふ證でもある。この旋律は、後に贊美歌のメロディーとなり、これが我が國に浸透したのは、キリスト教の宣教活動の一環でもあつた。しかし、この旋律は、どのやうな意圖や目的で誕生したとしても、それは、その意圖や目的を超えたものになる。それは、意圖や目的は理性の産物であり、本能(感性)から生まれる旋律とは別物だからである。ルソーの思想(靜)は破綻してゐても、ルソーの情感(動)はその旋律によつて維持されてゐた。それ故に、詞(理)は受け入れられなくても曲(情)は受け繼がれたといふことである。家庭に惠まれなかつたルソーは屈折した思想に到達したが、それであればこそ本能的で切實な情感を抱いてゐたのであらう。ルソーの悲劇は、理性と本能の不調和にあつたといふことである。

「音樂」を「音學」としないのも、神道には雅樂があるのも、この禮と樂の統合が祭(まつり)であり、それが政(まつりごと)の理念となるからである。この祭政一如の源流は、古事記にある御神敕の祭政一致、聖俗の辨へ、王覇の辨へに求めることができる。

このやうにして、世界は、禮樂の振動的平衡によつて「修身齊家治國平天下」といふ連續した階層的な雛形構造が亂れなければ安定するのである。しかし、この「修身齊家治國平天下」のうち、「家」と「國」との間には、階層的には相當の距離がある。そのことから、その中間に、家の血縁と地縁による農村的共同體の社會があることを認識した上で、その社會が雛形理論によつて安定することが國家に安定をもたらすものとして、この社會の階層構造の有樣を考察することによつて、その上位にある國家の構造を見定めようとする試みが生まれることも當然のことであつた。

たとへば、農村の村落共同體を「社稷」と定義し、その社稷の防衞のための「農本主義」を通じて「國家」の改造を目指した權藤成卿の思想もまた、この雛形構造理論で説明しうる。「社稷」の「社」とは土地の神、「稷」とは五穀の神を意味するので、農事と祭事とは一體と認識することになり、これを構成要素とする國家もまたその相似形との認識に基づくからである。この點は、無政府主義(アナキズム)と根本的に異なる。似て非なるものである。つまり、無政府主義は、權力分散型の社會を目指し、單位社會である協同組織體のみを肯定して、これらと相似した統合體である國家の成立を認めない。いはば、萬物がそれぞれ一個一個の原子の状態で安定し、核分裂が起こることはなく、しかも、各原子間では相互の關連も持たず、決して原子同士が結合して分子となつたり、クラスター状態にはならないといふ非科學的所見がこの無政府主義の思想に他ならないからである。もし、無政府状態下において國家を形成しようとする動きがあれば、これを阻止しうる權力を認めなければ實效性がない。しかし、その權力の源泉はやはり國家といふことになつて矛盾を來すことになる。これも輕薄な合理主義の所産であつた。

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