國體護持總論
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著書紹介

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祭祀と宗教

古代エジプト文明に見られるやうに、ある祭祀主宰者の血統が率ゐる王朝が別の血統の王朝と交代しても、交代後の新王朝の新たな祭祀主宰者が舊王朝の祭祀を承繼したものと擬制する場合がある。しかし、この場合、新王朝は、舊王朝の祭祀と統治を全否定するのではなく、その基本的な構造を維持しつつ、その統治の源泉である祭祀は、舊王朝とは實質的には別の祭祀ではあつても、形式的にはこれを發展的に承繼したものすることによつて、新王朝の正統性を舊王朝の祭祀に求めることが多い。このやうな事例は、オルメカ、テオティワカン、マヤ、トルテカ、サポテカ、ミシュテカ、タラスカ、アステカなどの文明王國が勃興して王朝の交代を繰り返した「メソアメリカ文明」の各王朝や、スペインの侵略によつて滅亡するまでのインカ帝國の征服擴大の歴史において、それまでに滅亡した少數部族國家とインカ帝國との關係についても同樣である。

ところが、支那で生まれた「易姓革命」の概念は、「天命」が改(革)まつて天子の姓が變(易)はることであるから、新王朝の統治と祭祀は、實質的にも形式的にも舊王朝とは隔絶し、エジプトなどの前例の場合とは異なるものであるが、この場合でも、「天命」を新たに受けること(天命の承繼)といふ點に統治の正統性を見出すことになる。

このやうに、統治の正統性は、國家の成立と存續にとつて必要不可缺なものである。しかし、それを天命に求め(易姓革命論)、あるいは神に求める(王權神授説)などの理屈は、人の頭で考へ出した觀念にすぎず、新國家が誕生した黎明期の熱い時期には通用しえても、國家がその後に安定期に入り永年存續するためには、このやうな觀念の産物だけでは到底維持しえない。國家は、家族、氏族、部族、民族と重畳した雛形構造であることから、國家の本質と正統性は、まさに祭祀に求められることはこれまで述べてきたとほりであるから、革命國家が存續し續けるためには、どうしても國家祭祀と民俗祭祀の復興をなすか、あるいは、民俗祭祀が存在する社會にあつて國家祭祀を復興しえないときには、この國家祭祀に擬へた代用物が必要となる。それが、前にも述べた擬似祭祀としての國家宗教(國教)の創設である。

祭祀は、祖先から連綿と命を受け繼ぎ、家族を守り維持するといふ始源的な本能に由來するもので、家族愛による祖先への崇拜と感謝、子孫への慈しみとは不可分なものであり、死によつて「から」(體、幹、柄、殻)を失つた祖先の「たま」(靈、魂)は、常に家族の「から」と「たま」と一體となつて共存してゐるとの確信こそが祭祀の原型なのである。「祭如在。祭神如在神。(祭ること在すが如くす。神を祭ること神在すが如くす。)」(論語)といふ言葉があるが、これは、「神人共在」である。また、たとへば、新年において、上下兩方が使へる白木の祝箸を使ふのは、人が使ふ箸の上端部分で祖靈神が召し上がるためである。これは「神人共食」であり、大嘗祭での神事の雛形である。このやうに、家族は祖靈神と共に生きるのである。

そもそも、祖先祭祀の根源とは何か。それは、親が子を慈しみ、子が親を慕ふ心にある。我々の素朴で根源的な心には、たとへ死んで「から」を失つても、その「たま」は生前と同樣に子孫を慈しんで守り續けたいとするものである。たとへ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいは自分自身が地獄に落ちることによつて身代はりになれるのであれば、それと引き替へてでも、家族が全ふな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願ふ。そして、子孫もこのやうな祖先(おや)の獻身的で見返りを望まない心を慕ふのである。死んでも家族と共にある。それが揺るぎない祭祀の原點である。子孫が憂き目に逢ふのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天國に召され、極樂・淨土で暮らすことを願ふのは「自利」である。「おや」は、自分さへ救はれればよいとする自利を願はない。これは「七生報國」の雛形である。一神教的宗教の説く救濟思想への違和感はまさにここにある。「利他」の「他」は、まづは家族である。あへて家族から離れさせその絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞する。家族主義といふ「利他」を全ての人がそれぞれの立場で實現すれば、世界に平和が訪れることになるのである。

「親を親しむが故に祖を尊ぶ(親親故尊祖)」(禮記)や「親を思はざれば、祖は歸せざるなり(不思親、祖不歸也)」(左傳)、さらに「大義、親を滅す(大義滅親)」(左傳)などは、家(親)から宗族(祖先)へ、そして宗家(すめらみこと)へと連なる階層的な入れ子構造(雛形構造)を示すものであると同時に、自己保存、家族保存、種族保存、国家保存の各保存本能の階層構造において、最も優先する本能が國家保存本能であることを意味してゐる。

そして、家族の生活が維持されるためには自然の惠みが必要不可缺であることから、自然物(山岳、海洋、河川、湖沼、平地、樹木、巖など)や自然現象(雷、風、竜卷、雪、雨、地震など)その他森羅萬象の神祕さに對する感謝と畏敬、そして畏怖の念が生まれ、それが祖先と共に信仰對象となつて祭祀の要素として取り組まれたのである。これは、佛教の説く「山川草木悉有佛性」といふやうな觀念論に留まるものではなく、日本書紀卷第二神代下第九段一書第六に、「及至奉降皇孫火瓊瓊杵尊、於葦原中國也、高皇産靈尊、敕八十諸神曰、葦原中國者、磐根木株草葉、猶能言語。夜者若熛火而喧響之、晝者如五月蠅而沸騰之、云云。」(すめみまほのににぎのみことを、あしはらのなかつくににあまくだしたてまつるにいたるにおよびて、たかみむすひのみこと、やそかみたちにみことのりしてのたまはく、「あしはらのなかつくには、いはね、このもと、くさのかきはも、なほよくものいふ。よるはほほのもころにおとなひ、ひるはさばへなすわきあがる」と、しかしかいふ。)とあるやうに、神が生み成された磐根や木株も草葉も、人と同じく、もの言ふ神の雛形であり、擬人化ならぬ「擬神化」されたものとして受け止められてゐたのである。

この點について、宗教學者らは、祖先祭祀と自然崇拜とによつて織りなされた「祭祀」の信仰をアニミズムと稱してゐる。このアニミズム(animism)の語源は、ラテン語の「anima」(靈魂、生命)であり、萬物に靈魂が宿るとする有靈觀、萬物有魂論を指す用語であるが、これを否定する一神教文明では猥雜な言葉として受け止め、これらを未開低俗であるかの如く「原始宗教」とし、この祖先祭祀と自然信仰の融合した「祭祀」を否定した「世界宗教」とを比較し、後者は前者が進化したものであるとする。たとへば、ヤスパース(Karl Theodor Jaspers)は、「文明」と呼びうるのは、超越的秩序としての巨大宗教と哲學をもつた「樞軸文明」だけであるとした(『歴史の起源と目標』)。これは、開發によつて森と水を失ふに至る人間中心主義の麥作を主とした畑作牧畜文明の擴大こそが文明の本質とする單純な進歩史觀に基づく。これが現代の都市文明の源流であり、その擴大は、森と水に育まれた人の生態的環境を破壊して無機質に砂漠化することである。このやうなものが文明であれば、それは「野蠻」そのものである(西郷南洲遺訓、文獻77)。しかし、宗教學者はもとより、祖先祭祀と自然信仰を否定するのが世界宗教であると自負する宗教人たちは、この宗教進化論を唱へ、その世界宗教なるものが、人類にとつて本能的に最も重要で始源的な祭祀から逸脱して「退化」し「劣化」した「人工的粗惡物」であるとの自覺ができないのである。

祭祀と宗教の社會的機能について云へば、祖先祭祀や自然崇拜は、宗教とは異なり、決して誰も傷付けない。對立する家族や氏族、部族、民族、人種であつても、祖先を遡れば、やがて根源に收斂されて統一融合するものであり、悉く對立を解消させる機能が祭祀にはある。人は、遺傳によつて親子の顏や姿などの形質が近似することによつても親子の絆を強くして、家族が連綿と世襲する。この世に生を享けたことの感謝にも順序がある。まづは兩親、しかして、祖先、家族、氏族、同族、部族、宗家、國家、地球、宇宙といふ相似性の順序を辿つて「かみ」に至る雛形の祭祀がある。このことは、自然崇拜についても同樣である。

つまり、祭祀の機能は「人類の融和」である。これに對し、世界宗教といふのは、特定の宗教勢力が「絶對神」を定め、それを「唯一神」とすることによつて、これと異なる「唯一神」を主張する宗教勢力とは、不倶戴天の敵となる。つまり、このやうな宗教の機能は「人類の對立」である。現に、これまで「祭祀戰爭」は一度もなく「宗教戰爭」は數限りなく存在したことは嚴肅な歴史的事實である。人々の救濟のためにあるとする宗教が、まつろはぬ人々を脅し傷付け殺戮する。それゆゑ、世界平和を眞に實現するためには、人類は宗教進化論の誤謬に一刻も早く気づいた上で、祭祀から退化・劣化した「宗教」を捨てて始源的で清明なる「祭祀」に回歸するしかない。それによつて、闘爭的で過度な教義の宗教も、選民思想や國粹主義にうなされた過度な民族主義も、その弊害は次第に除去されて行く。

ところが、祭祀と宗教とは全く異質のものであることが理解しえず、國家祭祀とその擬似祭祀である國家宗教(國教)とを混同すると、我が國が戦前に推進した「國家神道」といふ過ちを犯すことになる。神道には宗教的側面も存在するが、その本質は祭祀である。ところが、國家神道政策によつて「神道の宗教化」が一層促進されてしまつた。國家神道政策による最大の被害者は神社神道であつたことを忘れてはならない。いまこそ、我々は、一人一人が宗教の呪縛から解き放たれ、祭祀への回歸が必要なときである。

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