國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第一巻】第一章 國體論と主權論 > 第四節:國體と主權

著書紹介

前頁へ

英國における國體論と主權論

この國體についてさらに考察するに際しては、その前提として、どうしても避けて通ることができない問題がある。それは、英國において、世界を二分する思想的潮流があり、その後の世界に思想的にも政治的にも激變をもたらした對立、すなはち、傳統國家である英國の君主制を支へてきたヘンリー・ブラクトン、エドワード・コーク、エドマンド・バークに代表されるコモン・ロー(common law)の思想に基づく「國體論」を主張する人々(國體派)と、これを根底から否定するトーマス・ホッブズやジョン・ロックに代表される、法典として紙に書かれた實定法のみを法とする實證法主義(法實證主義positive law)の思想に基づく「主權論」を主張する人々(主權派)との對立についてである。

英國の立憲政治の歴史は、マグナ・カルタ(1215+660)、權利請願(1628+660)、權利章典(1689+660)などを通じて、國王の不法な政治を抑制して人民の自由と議會の權利を擁護した歴史であるとされる。しかし、これは一面において眞實であるが、他面においては、「主權」思想の攻勢から英國の「國體」(コモン・ローの支配)を守つた歴史であるとも云へる。

そもそも、英國では、カントに始まる「ドイツ觀念論」といふ理性論(合理主義)に拮抗する「イギリス經驗論」が支配してゐた。前にも述べたとほり、このイギリス經驗論は、法律學においても、現存する經驗的事實のみならず、むしろ傳統的な歴史的事實を經驗的事實として重視することにより必然的にコモン・ローの法理を確立させてきたである。しかし、このイギリス經驗論の土壤で育つたはずのホッブズは、これとは異質である大陸の唯物論に傾倒して社會契約説といふ見解に到達し、それがロックに引き繼がれた。

イギリス經驗論といふのは、過去から現在までの經驗的事實を基礎に眞理を探究するものであるから科學主義であり、本來は「實證主義」と同じものではあつたが、慣習法、判例法を含む實定法(positive law)は、過去の經驗的事實から演繹されるべきコモン・ロー(國體)としての「自然法」を認識できるはずであつた。しかし、對立の圖式といふのは單純化、先鋭化するものである。イギリス經驗論から自然法を認識しうる可能性はあつたものの、法實證主義と自然法主義との對立を緩和し融合させるまでには至らなかつた。そして、自然法の概念を超經驗的性格の普遍法とし、實定法の上位に位置するものであるとの自然法思想に對抗して、法實證主義は、この自然法概念を否定し、さらに自然法思想がその存在根據とする慣習法をも、紙に書かれたものではないとして否定する傾向が生まれる。そして、この自然法主義と實定法主義(法實證主義)との相克が、英國において社會契約説のホッブズとロックを生んだ土壤となつた。

社會契約説でいふ自然法とは、國家の存在を前提とせず、その非國家社會において個人の自己保存の權利が保障されるべきとの規範を意味するが、これには前に述べたとほり大きな矛盾がある。人は生まれてから死ぬまでの間、個人一人ひとりで誰に賴らずして自立して生活できる時期は皆無であるか、あつたとしても極めて短い。この社會契約説から派生した現代人權論といふ欺瞞に滿ちた見解が想定するやうな、完全な人權を保有する「全人」なるものは存在しえない。もし、それが存在するとしても、生まれながらに富裕であり、高度な教育を受けた者が成人に達して自立した状況になつて「全人」が初めて誕生するのであつて、それも、老病によつて介護を受けることになつて死亡するに至るまでは「全人」ではなくなる。つまり、ほんの一時期しか「全人」では居られない。しかも、それは全人になるための教育と環境に惠まれた富裕者かつ健常者に限られるのであつて、貧困者又は障害者には法律的、政治的にその機會が與へられない。從つて、現代人權論とは、全人でない者も全人であると看做して形式的平等だけを主張する僞善の思想であり、究極の差別容認論なのである。

ともあれ、個人は、あくまでも家族の一員として、共同生活による協同扶助關係によつて維持されるのであるから、ひとりの個人が初めに接する規範は、家族内の規範である。決して、家族から離れた個人がいきなり野に放たれて流浪し、そこで出會つた見知らぬ人々との間で對等に合意(社會契約)された規範なるものがあるとするのは噴飯ものの幻想にすぎない。家族といふ統一された組織秩序から一歩出れば、そこは意思の疎通が期待できない他人としか遭遇せず、その他人と共通する規範は當初から存在するはずがない。しかして、人は家族の中で生まれ、家族に育まれて成人し、老病者を介護し死者を見送り、新たな子孫を産み育てて家族を連綿と維持し續ける。それが世界的に共通した人の營みである。そして、他の家族との關係は主として婚姻によつて連結し、家族連結社會が生まれ、そこに規範が成立する。それがさらに相似的に擴大集合して、最終的には國家となる。家族を離れて一人ひとりの個人の集合體である非國家社會なるものは、やはり幻想なのである。それゆゑ、自然法とは、家族、家族連結社會、國家といふ國家生成過程を無視して認識することはできないのである。このやうな雛形構造(フラクタル構造、入れ子構造)の認識をするのが國體論であり、家族から國家に至る各規範構造もまた雛形構造であり、それが本能論に基づいて規範國體となると認識されるのである。これが社會契約説及び天賦人權論との根本的な相違であり、社會契約説及び天賦人權論の誤謬と矛盾は明らかになつてゐるのである。

ともあれ、この社會契約説と天賦人權論とは、イギリス經驗論とは全く無縁のものである。むしろ、この契約によつて形成される規範があるとすれば、それは、實定法を超える「自然法」として超經驗的に生み出されたもののはずある。さうであれば、社會契約説は、自然法論との親和性が生まれてくるのであつて、このやうな捻れ現象が英國における國體論と主權論の論爭をより複雜にし、それが異路同歸の如くルソーの主權論と合流するに至るのである。

続きを読む