國體護持總論
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著書紹介

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歐米の宿痾

アメリカの建國は、英國をはじめ歐洲諸國がその西方に新天地を求める「領土擴大主義」に由來する。そして、アメリカは、さらにそれを「西部開拓」といふ理念なき征服欲、支配欲、所有欲を正當化した「西進主義」に脱皮させ、それをキリスト教に基づく「神から授けられた明白な使命」(マニフェスト・デスティニィ、Manifest Destiny)であるとして、西方にある野蠻な未開の地に文明の恩惠を施すことを正義とし、先住民の虐殺、土地の收奪に全く罪惡感を持たず、それを希望と快樂に倒錯する惡魔の所業を行つた。これがアメリカの植民地主義、侵略主義の原點であり、さらに、アメリカ大陸で虐殺と收奪をし盡くして太平洋岸まで辿り着くと、さらに、西方である極東、そして世界全域に進出したのがアメリカの歴史である(文獻97、134)。

英國その他歐洲諸國からアメリカに渡つた移民の抱いたアメリカン・ドリームとは、白人がインディアンから肥沃な土壤と金鑛のある土地を詐取又は強奪することの「機會均等」と、これに反抗する者を容赦なく虐殺する「權利」が與へられてゐることを意味する。

押し込み強盜の頭目(イギリス)とその手下(獨立前のアメリカ)がインディアンの土地や財寶を強奪し、その後の分け前の段階になると、手下がこれらを獨り占めしようとして頭目と決別したのが「アメリカ獨立戰爭」の動機である。頭目と決別した手下は、今度は頭目に遠慮することなく恣に強奪できることになり、「インディアンは嘘をつかない」ことを逆手に取つて、アメリカ合衆國や地方政府がインディアンと結んだ條約や協定を三百回以上も平然と破つて彼等の土地を收奪した。その上、第七代アンドリュー・ジャクソン大統領(1767+660~1845+660)は、インディアンを野蠻人と決めつけ、東部諸州から一掃するために強制移住法(1830+660)を制定し、全てのインディアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分けるミシシッピー川よりも西側に立ち退かせてインディアンの全ての土地を手に入れた。軍によつて暴力的に追ひ立てられ、多くの者を病氣と飢ゑで死に至らしめられて、先祖傳來の土地を離れざるをえなかつた數萬人のインディアンが、強制移住のためにミシシッピー川の西側へと歩いた道は、「涙の道」と呼ばれた。ところが、このやうな多くの犧牲で移住したミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを合衆國政府が知るや、その四年後には、さらに西の西經九十五度に境界を移動させ、ミネソタが州に昇格するのに伴ひ(1858+660)、更に百マイル西方に境界を勝手に移動させた。

そして、その後も「ボナンザ(豐かな鑛脈)」を目當てに土地を奪ひ續け、多くのインディアンを虐殺し續けた。ついには全ての土地を奪つた擧げ句、人里離れた狹い地域に隔離し、その居留地に住むことを條件に食料を支給し、生活保護を與へたインディアン居留地(リザベーション)を設置し、この「インディアン・サファリ・パーク」に部外者との接觸を禁じて押し込めてゐる。

また、メキシコからもテキサスの土地を奪つたことからメキシコと戰爭となり、メキシコ大統領のサンタ・アナ將軍を捕虜にしてテキサスの獨立を承認させた上、講和條約を締結し(1848+660)、更にニューメキシコとカリフォルニアを買收することに同意させた。このメキシコとの戰爭の際、ザガリー・テイラー將軍率ゐる米軍がメキシコ領内に侵攻したのは、米國議會がメキシコに宣戰通告をする四十八時間も前であつた。我が國の眞珠灣攻撃を卑劣な攻撃(Sneaky Attack)とか騙し討ち(Traitorous Attack)などと批判する前に、己の頭の蠅を追ふべきであつて、この騙し討ちをした者を第十二代大統領に選んだアメリカは、本質的に野蠻人國家である。

そして、西部開拓が太平洋岸に達すると、さらに海を越えて武力でハワイの獨立を奪つて併合し、スペインの無敵艦隊(The Invincible Armada)が英國との海戰に敗北すると(1588+660)、キューバがスペインから獨立する機に乘じて米西戰爭(1899+660)を仕掛けて勝利し、スペインの植民地であつたフィリピン、グアム、ウエーク、サモア、プエルトリコをアメリカの領土とした。

次は我が國である。ペリーは、我が國と戰爭をして勝利し、我が國の領土を奪はうとする野望があつたが、德川幕府が戰はずして屈服したため、開港させることなどだけに甘んじた。さらにその次は支那である。歐洲と我が國が既に進出してゐたので後塵を拜すことになつたため、「門戸開放」、「機會均等」、「領土保全」を主張し、特に、日清戰爭と日露戰爭を經て、支那に對して先行的な特殊權益を持つ我が國と衝突した。

このやうに、西進主義のアメリカが太平洋を渡りきつてきたのを下支へしたのは、やはり黄禍論であつた。日清戰爭に勝利し、さらに日露戰爭に勝利した我が國を假想敵國として對日戰爭計畫( War Plan Orange オレンジ計畫)を策定し、兵器の發達進歩に伴つてその計畫は何度も内容が更新された。そして、昭和十六年九月二十七日、日・獨・伊の三國同盟が成立したことから、三國との戰爭を豫想して、その戰略を一國ごとの戰爭計畫を、それぞれ一色で表してゐたのを止めて、新たな戰爭計畫を「レインボー5」と名付けて策定することになつた。これによれば、日米開戰の場合に取るべき米國の作戰は、アメリカ艦隊により日本周邊の海上封鎖を行ひ、海外からの物資の輸入を絶ち、沖繩を占領し、空襲により日本國内の生産設備を破壞して繼戰能力を喪失させ、本土を孤立させて降伏させるといふものであつた。そのための布石として、ハワイとフィリピンのマニラ(スービック灣)に海軍基地を建設して海軍力の增強を圖つたのである。その後、まさにこの計畫のとほりに推移したことは多言を要しないところである。

この黄禍論は、つまるところ「日禍論」であつて、歐米では、我が國の大國化は歐米列強の白人至上主義に基づく東亞支配戰略に對する脅威であるとの認識がなされ、我が國の國力增強に比例して、東洋人(日本人)を蔑視・敵視する傾向は一段と加速した。アメリカでは、まづ『學童隔離令』が制定された。これは、明治三十九年(1906+660)十月十一日、サンフランシスコ市教育委員會が、公立學校に通ふ日系人(當時は韓民族を含む)學童全部を白色人種の學童が通ふ公立學校とは別の東洋人學校に通學させるとの人種民族差別議案を可決成立させたことをいふ。この東洋人學校は、市内の中國人街に設置されてをり、同委員會は、既に、中國人學童について、隔離通學を實施してゐたのである。

そして、次に『外國人土地法』(排日土地法)の制定がなされる。これは、大正二年(1913+660)五月十九日成立した『カリフォルニア外人土地法』のことである。「合衆國の法律により歸化しうる外國人」(同法第一條)に「該當しない外國人」(同法第二條)とは、その當時最も多い「日本人移民」のことであり、日本人差別立法であることは明らかであつた。さらに、アメリカの追ひ打ちは續く。それは、日本人の歸化權剥奪判決である。これは、大正十一年(1922+660)、カリフォルニア州での日本人移民の歸化權の存否をめぐる訴訟において、合衆國最高裁判所のなした判決であり、黄色人種(日本民族、韓民族)は歸化不能外國人であり歸化權はなく、その歸化權の剥奪の效力は移民開始時に遡及し、既に歸化した日系米國人の既得權をも剥奪するといふ内容の著しい差別判決がなされた。さうして、東洋人、とりわけ日本人を公然と露骨に差別する多くの排日法の制定と政策が次々と斷行されていつた。

さらに、アメリカは、『國際連盟規約』制定の審議過程において、我が國が提案した『人種平等案』を一方的に否決させるなど、歐米列強は、その絶對的優位を脅かす我が國を國際社會から孤立させて壞滅させる意圖を鮮明にしてきたのである。

つまり、大正七年(1918+660)十一月、第一次世界大戰が終結し、その翌大正八年(1919+660)に『ヴェルサイユ講和條約』が締結され、その規定に從つて、さらにその翌大正九年(1920+660)一月十日、初めての國際機關である國際連盟が成立した。その『國際連盟規約』の審議の際、我が國の牧野伸顯全權委員が「各國民均等ノ主義ハ國際聯盟ノ基本的綱領ナルニ依リ、締約國ハ成ルヘク速ニ聯盟員タル國家ニ於ケル一切ノ外國人ニ對シ如何ナル點ニ付テモ均等公正ノ待遇ヲ與ヘ、人種或ハ國籍如何ニ依リ法律上或ハ事實上何等差別ヲ設ケサルコトヲ約ス」といふ内容を國際連盟規約案第二十一條の「宗教の自由」の規定の後の一項として追加しようとの修正提案を行つた。しかし、アメリカは、國際連盟規約に、第五代大統領モンローが提唱した歐米兩大陸の相互不干渉の對歐洲孤立主義の外交政策方針、いはゆるモンロー主義を容認する旨の項目を要求して實現させたのに、アメリカ・イギリスなどは、我が國の右修正案(人種平等案)の要求のみを否決させたのである。人種差別を肯定することが、やはり歐米思想の正體であつた。しかし、このやうなアメリカの東洋人に對する露骨な差別と偏見と迫害の中でも、毅然としてこれに反對した東洋人差別反對運動家がゐたことを忘れてはならない。それは日本人藤井整である。彼は、カリフォルニア州で『加洲毎日』を主宰して活動したが、昭和七年十二月二十七日、反日勢力に銃撃されて殺害されたのである。

そもそも、非資源國である我が國は、經濟及び軍事を維持する石油を全て輸入に依存してをり、當時石油の大部分はアメリカから輸入してゐたのである。從つて、いくら我が國が軍事大國とならうとも「油上の樓閣」であることは日米共通の認識でもあつた。

アメリカの名目上の國是であつたモンロー主義の正體は、西洋諸國との共存のために、アメリカは歐洲問題には干渉しないとするに過ぎず、逆に、その見返りとして、南北アメリカ大陸におけるアメリカの優先的な權益を歐洲から保障された。また、アジアその他世界の地域については西洋列強と同樣に、西高東低の優越思想による植民地主義に依據するものであつた。現に、アメリカは、その建國の精神とされるものが原住民族の命と生活と土地を侵奪する「侵略思想」であり、ハワイのカメハメハ王朝を滅亡させ、皇紀二十六世紀(西紀十九世紀末)からフィリピンを植民地としてゐた自稱「自由の國」であつた。アメリカは、遥か太平洋の彼方の國ではなく、バシー海峡で我が國と隣接する超大國となつてゐたのである。

當時は、二・二六事件(昭和十一年)以降、軍部(統制派)と内務省の二大權力が政治の全權を掌握するに至つてゐた時期であつて、アメリカの行つた宣戰通告ともいへる經濟封鎖等の一連の措置は、我が國に宿命的な選擇をさせることになる。支那事變に引き摺り込まれて疲弊した我が國は、支那事變と對英米戰爭の「二正面作戰」を回避しなければならないが、このままでは「座して死を待つ」ことになる。さうであれば、「死中に活を求める」ことを選擇して開戰を餘儀なくされたことは、國家の自己保存本能による必然的な自衞行動であつた。

このやうな經過からすると、幕末から大東亞戰爭に至る「東亞百年戰爭」全體の巨視的な歴史評價としては、自衞戰爭と解放戰爭の性格を有する思想戰爭であると云へる。これは、歐米列強の植民地支配から東亞を解放し、大東亞新秩序の建設を目的とした擴大的自衞論ともいふべき思想戰爭であつて、その思想性、目的、戰闘手段、結果及びその波及效果などを總合すれば、昭和十六年十二月八日の『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』(『大東亞戰爭開戰詔書』)にあるとほり、大東亞の「自存自衞」のための戰爭であつたことは明らかである。

即ち、東亞全域を歐米列強の植民地支配から脱却させ、アメリカなどからの石油輸入に依存しない東亞獨自の貿易經濟圈を平和裡に建設することを目指す「大東亞共榮圈構想」は、大東亞戰爭遂行中の昭和十八年十一月、東京で、同盟國タイ、獨立フィリピン、ビルマ、中國南京政府(汪兆銘政權)、滿洲國の首腦が參加し、シンガポールで樹立した自由インド假政府(インド國民軍)もオブザーバーとして加はつた「大東亞會議」で象徴されるやうに、東亞全域に存在する開明派政權の大同團結による大東亞の新秩序をめざす思想的集大成であつて、基本的に、アメリカを含む歐米列強による全世界植民地支配構想と眞つ向から對立してゐたのである。

この「大東亞會議」とは、昭和十八年十一月五日、我が國が主宰し、東京で開催された『大東亞戰爭同盟國會議』(參加六箇國)であり、翌六日に、「正義の實現」、「相互の獨立」、「主權と傳統の尊重に基く共存共榮の新秩序」、「互惠の精神をもつての經濟開發」、「すべての人種差別の撤廢」を要求する『大東亞共同宣言』(資料二十)を滿場一致で採擇されたのである。

この會議は、開催時期が大東亞戰爭突入後であつたことから具體的な效果はなかつたとされてゐるが、大東亞戰爭が思想戰爭であつたことを證明して餘りあるものである。この大東亞會議に、臺灣と朝鮮の代表が出なかつたことを批判する當を得ない論評があるが、國内の地域代表を出すか否かは國内問題であり、各國の國際的連携を目的とする會議には相應しくはないからである。また、この會議にオブザーバーとして出席した自由インド假政府(インド國民軍)の代表者は、インド獨立運動家スバース・チャンドラ・ボースであつた。ボースは、マハトーマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネールらとともに、イギリスの植民地として收奪・搾取され極貧下にあるインドが獨立を勝ち取るための獨立運動の指導者の一人であり、昭和十三年(1938+660)、國民會議派議長に選出されるが、武裝蜂起による急進的立場を堅持したため、ガーンディーやネールの穩健派の反對で議長を辭任した。その後、昭和十六年(1941+660)にベルリンへ逃れて反英ラジオ放送を開始して活動を續けてゐたが、昭和十八年(1943+660)に來日し、我が皇軍と協力して、マレーで降伏した英印軍五萬人を基礎にインド國民軍(INA)を編成して、後の日印共同のインド解放戰爭(インパール作戰)のために大東亞會議に參加した。ボースは、ガーンディーやネールらの穩健派の説く「平和主義」がイギリスの非情な自己優越思想や植民地主義には無力無能であることを力説し、自由インドの人柱となることを決意する。そして、昭和十九年三月八日、皇軍とインド國民軍(ラーニー女性連隊を含む)の連合軍は、インド東北部のインパール(ビルマとの國境付近)まで進軍したが、戰線擴大による戰力低下と物資補給不足などが原因し、皇軍とインド國民軍は壞滅した。イギリスは、見せしめのため、インド國民軍の指導者(元英印軍將校)らを反逆罪として裁判にかけたため、インド人民はこれに抗議して全國的に暴動と反亂を繰り廣げた。それが契機となつて、ガーンディーやネールらの國民會議穩健派の手によつて、ボースやインド國民軍五萬人の悲願が達成する。かくしてインドは日印將兵の多くの屍を乘り越えてイギリスから獨立したのである。

ともあれ、アメリカは、イギリスと共に、當初から我が國及び皇軍の能力と意圖を見拔き、高い關税障壁をめぐらして種々の經濟封鎖を行つた。つまり、アメリカとイギリスは、昭和初期になつて、恐慌對策を理由に自由貿易を制限し、保護貿易主義や地域主義へと轉向して、我が國との貿易に高い關税障壁をめぐらしたのである。アメリカでは昭和五年(1930+660)の『ホーリー・スムート法』による保護貿易化が始まり、イギリス連邦諸國では昭和七年(1932+660)の『オタワ會議』による經濟ブロック化がなされる。これが世界恐慌などの引き金となり、歐米依存經濟であつた我が國は、大きな經濟的打撃を受けることになつた。

加へて、アメリカからの過度な政治的要求と背信行爲もあつた。具體的に云へば、日露戰爭終結の翌明治三十九年(1906+660)四月十八日、サンフランシスコ一帶が大地震に見舞はれた際、我が國は、日露戰爭後の苦しい財政事情にもかかはらず、世界各國から送られた義援金の半數以上に當たる總額金五十五萬圓(當時の國家總豫算約金五億圓)を見舞金として被災地に送つた。ところが、その六か月後の同年十月十一日、そのサンフランシスコで前に述べた『學童隔離令』などによる公然とした日本人差別がなされ、我が國では、このアメリカの措置が「恩知らず」の背信行爲であるとの批判が卷き起こつた。

このやうに、アメリカは徐々に我が國を窮地に追ひこみ、對日強硬路線に反對する國内勢力を一掃するために、我が軍の行動樣式を完全に讀み取り、敢へて眞珠灣奇襲攻撃を誘發させて對米英戰爭に早期突入させた。しかし、日本の國力では長期戰ができない。從つて、戰略としては、緒戰に勝利して早期停戰講和を實現しなければならない。ところが、アメリカは、これらの事情を知りぬいた上、その壓倒的軍事力をもつて我が國の完全壞滅を企て、「リメンバー・パール・ハーバー」のスローガンを掲げて、報復の思想に國論を統一し、早期講和實現を目論む我が國を泥沼の長期戰に引きずり込んだのである。

そして、我が國の敗色が濃厚となつた後も徹底交戰せざるをえなかつたのは、昭和一六年(1941+660)八月十四日發表の『英米共同宣言(大西洋憲章)』(資料十八)に「敗戰國の武裝解除」を要求してゐたことも原因してゐた。從來までの世界の戰爭處理は、戰勝國の敗戰國に對する賠償請求や領土の割讓の事例しかなく、敗戰國の武裝解除は前代未聞の要求になつてゐた。このことは、英米側からしても大東亞戰爭、即ち「太平洋戰爭」が思想戰爭であつたことを證明してゐる。そして、アメリカは、もはや制空權と制海權を完全に喪失して戰闘能力が壞滅してゐる我が國の皇土に對し、戰爭に名を借りた大規模な虐殺行爲による人體實驗として原子爆彈の投下まで行つて、ポツダム宣言を無條件で承諾させるといふ、實質的な無條件降伏による敗戰に追ひこんだ。これらの一連の事實經緯については、戰後五十年を經て順次公開されてきたアメリカ國防總省等の機密資料の中に讀み取ることができる。かくして、内外の多くの將兵・軍屬・民間人らの人命を奪ひ、各地を廢墟と化した大東亞戰爭は停戰した。我が國が理想とした大東亞共榮圈構想は現實との大きな乖離を生じたまま潰へ、我が國は國際舞臺から退いた。だが、これは、紛れもなく世界の植民地支配を終焉させた世界史上最大の結果を生んだ「聖戰」といへる。

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