國體護持總論
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灣岸戰爭とアフガン戰爭

灣岸戰爭の思想的背景は複雜である。アラブ側の同意なしに連合軍主導による國連の『パレスチナ分割案』に基づき、昭和二十三年(1948+660)五月十四日、ユダヤ人はイスラエルの建國を宣言した。そのため、アラブとイスラエルとの間で幾度となく中東戰爭が起こつた。中東戰爭は、パレスチナはもとより、アラブ全域の歴史・宗教・思想などを全く無視した連合國(アメリカなど)主導の國連體制に挑戰する思想戰爭であり、灣岸戰爭は「第五次中東戰爭」又は「新十字軍戰爭」として位置づけられる。それは、戰中における「リンケージ論」や、戰後におけるパレスチナ民族問題などの各種民族問題やエルサレム首都問題などがさらに深刻化したことによつても明らかである。

平成二年(1990+660)八月二日のイラクのクウェート侵攻直後である同月五日に、我が國は、イラク及びクウェートに對して「經濟封鎖」といふ「宣戰布告」を行つて「參戰」し、翌平成三年(1991+660)一月十五日に「灣岸戰爭」が勃發するまでの經緯は、恰も、大東亞戰爭の勃發直前における状況と酷似してゐる。我が國は、軍隊を出して血を流すことはなかつたが、明らかに「灣岸戰爭」に「參戰」したのであり、これに對する日本人一般の認識は、第三次オイル・ショックといふ程度であつたとしても、參戰は嚴肅な歴史的事實であり、占領憲法が憲法であるとしたら、明らかに第九條に違反したことになる。

そして、この灣岸戰爭といふ思想戰爭の延長線上に、平成十三年九月十一日のアメリカにおける、いはゆる同時多發テロ事件(九・一一事件)が起こり、同年十月七日のアフガニスタン戰爭、さらに、平成十五年三月十九日にイラク戰爭といふ思想戰爭が續くのである。九・一一事件はイスラムによる思想戰爭の開戰である。テロ(テロル、テロリズム)を政治的目的を持つた非戰闘員の抹殺その他の暴力と定義すれば、アメリカによる廣島と長崎に對する原爆投下や都市空襲もテロであり、北朝鮮による邦人拉致事件もまたテロである。

アメリカは、江戸の仇を長崎で討つが如く論法で、アフガニスタンを侵略する(アフガン戰爭)。これは、九・一一事件の首謀者への報復として、その首謀者と名指しされた國際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを支援するイスラム原理主義政權タリバンをアフガニスタンから驅逐するための自衞戰爭であるとして、アメリカとイギリスを中心とする連合國軍が九・一一事件から約一か月後の平成十三年十月七日に空爆を開始し、同年十一月十三日には、反タリバンの北部同盟軍が首都カブールを制壓した。他の國家も英米に追随し、わが國も早々とこれに贊同して、同年十一月から正式に參戰し、インド洋に海上自衞隊の艦艇を派遣した。ところが、初期の軍事作戰は約二か月程度の比較的短期に終息したものの、その後に展開された掃討戰が無差別的に擴大されたことから生ずる民衆の反感をタリバン勢力が吸ひ寄せて再び復活した。そのため、内戰状態のやうに治安などが惡化して泥沼化して行く過程で、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ米大統領(以下「ブッシュ」といふ。)は、その原因はテロ支援國家が背後にゐるためだとし、イラン、イラク、北朝鮮の三か國をテロ支援國家であるとする「惡の樞軸國」發言がなされ、それが平成十五年三月のイラク戰爭への道標となる。「惡の樞軸國」とは、英米などの「連合國」と日獨伊三國同盟による「樞軸國」との對立構造を模した表現であつた。

そして、英米を中心とした連合國軍の軍事支配下にあり、獨立國としての實體のない暫定政權である「アフガニスタン暫定行政機構」が平成十三年十二月二十二日に發足し、翌平成十四年六月十九日には、「アフガニスタン・イスラム移行政府」が成立するが、その實態は英米の傀儡政權であることに變はりはない。そして、平成十五年三月十九日にイラク戰爭が開戰となつて、駐留米軍の一部がイラク戰爭に轉戰した後の平成十六年一月には新憲法を公布する。そして、同年十月の大統領選擧を目前に、タリバン勢力が再結成して米軍に對して攻撃を始め、内戰状態化する最中の同月九日に、アフガニスタン初の國民投票による大統領選擧が實施されるが、投票所襲撃などのテロが多發した。それでも同年十二月七日にハーミド・カルザイが大統領就任し、新政府が發足したことになつてゐる。

ともあれ、ブッシュは、アフガニスタン侵略を對テロ戰爭として連合國軍を派兵した際に、連合國軍のことを「十字軍」と叫んだ。いみじくも自己の本心を表現したものであるが、このことこそ、これら一連の戰爭が思想戰爭であることを證明して餘りあるものである。

そもそも、十字軍の遠征は、政治手腕に長けたローマ教皇(法王)ウルバヌス二世(Urbanus the second 、1042+660~1099+660)が、クレルモン公會議において、その當時イスラム教徒に奪はれてゐたキリスト教の聖地エルサレムを武力で奪還するといふ大義名分を掲げたことを決定したことに由來する。ウルバヌス二世教皇は、「異教徒を聖地から根絶やしにすることが、神の意志に叶ふことであり、聖なる戰ひである。」 「神がそれを望んでをられる。」として神の榮光と祝福を與へて第一次十字軍の遠征は始まり、「十字」の印をつけた衣服を着て三年間(1096+660~1099+660)行はれた。それをブッシュは引き繼いだのである。それでも我が國は、ポツダム宣言と降伏文書を引き摺つて、對米「隷屬」(subject to)のまま、日露戰爭と大東亞戰爭によつて民族自決を覺醒した諸國に向けて、その解放戰爭の偉業をなした名譽を捨て去つて黙々と自衞隊を派兵して參戰し續けるのである。

國際連合の實態は、ヤルタ・ポツダム體制の固定化を謀つた國際組織であり、戰勝國(連合國)を常任理事國とする反民主的制度であつて、日獨伊などの敗戰國を敵國と規定する條項(『國際連合憲章』第五十三條、第百七條)を有する組織である。これまで用ゐられてゐる國連軍(United Nations Force)といふ表現は、國際連合憲章でいふ國連常備軍を意味せず、安全保障理事會の授權や當時國の同意に基づいて派遣されてゐた「連合軍」のことである。この連合軍は、實質的には國連體制を創設した「連合軍(Allied Force)」であつて、「多國籍軍(Multinational Force)」ではない。連合軍が、我が國のマスメディアなどを操つて、敢へて「多國籍軍」と表現させた眞意は、灣岸戰爭が第五次中東戰爭といふ「思想戰爭」ではなく、イラクのクウェートに對する單純な侵略戰爭への自衞戰爭であるとの國際世論形成を狙つてのことであつた。

このやうな情報操作やプロパガンダは枚擧に暇がない。例へば、米軍機がクウェートの油田を爆破して炎上させたのに、それをイラクの仕業として、全身油にまみれた水鳥の映像を繰り返し垂れ流し、環境問題も絡ませてイラク批判の國際世論形成を操作した。あるいは、クウェートに居なかつた駐米クウェート大使の娘をクウェート難民の少女に仕立て上げ、イラク兵による殘虐行爲があつたなどとして上院委員會で涙ながらの證言をさせる演出などで功を奏したが、これは全くの虚僞であつた。そして、後で述べるとほり、イラクが大量破壞兵器を所持し、それを放棄しないことを戰爭の大義としたが、これも事實ではなかつたのである。古くは、ベトナム戰爭の場合のトンキン灣事件の僞裝工作もあつた。アメリカがベトナム戰爭に全面介入するための口實としたのが昭和三十九年八月二日と四日に起きたとされたトンキン灣事件では、北ベトナムの魚雷艇がトンキン灣上の米驅逐艦マドックスに對して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式發表した。しかし、ベトナム戰爭終了後になつてから、實はこの攻撃は「まぼろし」の魚雷艇からの攻撃であつたことが公表され、米軍が參戰するための虚僞の口實だつたことが判明してゐる。

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