國體護持總論
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イラク戰爭

大東亞戰爭を總括するとき、アフガン戰爭及びイラク戰爭との類似性を指摘せねばならない。これは、偶然の一致ではなく、共に思想戰爭であることからくる必然である。アフガン戰爭については、前にその概要を述べたので、ここではイラク戰爭との比較をしてみることにする。

結論を述べれば、アメリカ軍を中心にイラクの國家體制を構築しようとする連合國暫定施政當局(CPA The Coalition Provisional Authority)の完全軍事占領下で、イラク暫定政權が發足し、さらに、移行政府が發足してその政權下で新憲法を制定させた經緯は、大東亞戰爭後のGHQの完全軍事占領下で、幣原喜重郎内閣(暫定政權)や吉田茂内閣(移行政府)が發足し、その政權下で占領憲法を制定させた消息と、まるで合はせ鏡のやうに一致して見えてくるのである。

そこで、大東亞戰爭とイラク戰爭との類似性、GHQとCPA、東京裁判と特別法廷、占領憲法とイラク憲法との相似性などについて、その必要な限度でイラク戰爭の經緯を見てみることにする。

まづ、このイラク戰爭の近因は、イスラム原理主義によつて達成したイラン革命にある。イランのパーレヴィ國王は、莫大な石油收入と米國の支持に賴つてゐた。しかし、そのパーレヴィ國王によるイランの獨裁體制は、昭和五十四年にパリに亡命してゐたホメイニ師の歸國によつて崩壞し、革命政府が樹立される。これが引き金となつて、經濟的には第二次石油ショックが發生し、中東においてイラン革命の波及によるイスラム世界における革命の連鎖(革命の輸出)を懸念したアメリカは、イラクのサダム・フセイン大統領(以下「フセイン」といふ。)が率ゐる親米政權を政治的・軍事的に全面支援し、アメリカの中東における堡塁をイラクに築いた。アメリカが批判するイラクの生物化學兵器は、まさにアメリカとドイツなどから資金と技術・材料を提供されたものであつた。そして、アメリカは、革命の據點であるイランに對し、イスラム革命に對する「干渉戰爭」をフセインに仕掛けさせた。それが、イランとイラクが國境をめぐつて行つたといふ名目でなされたイラン・イラク戰爭である。これは、昭和五十五年九月二十二日に始まり昭和六十三年八月二十日の國連安全保障理事會の決議を受け入れる形で停戰を迎へるまで約八年に亘つた。當然、イラクは經濟的に疲弊した。イラクは、國家歳入の九十五パーセントを石油收入が占めてゐたので、その戰後復興に必要な財源となる原油價格の下落は死活問題であつたのに、クウェートとサウジアラビアは、イラクと同じ親米政權でありながら、原油價格の安定と戰時融資の返濟猶豫に消極的であつた。これは、フセイン政權が強大化することに對するアメリカの牽制を受け入れて、イラク經濟を破綻させる狙ひであることは明らかであつた。しかも、クウェートがイラク側の埋蔵原油を盜んでゐることに對して、フセインは、平成二年七月、バアス黨革命二十二年記念に合はせて、最後通牒の警告を發し、推定三萬人のイラク軍部隊をクウェート國境地帶に集結させた。このことについて、アメリカは何ら非難聲明をしてゐない。むしろ、同月二十五日に、駐イラク米國大使エイプリル・グラスビーは、フセインの立場に理解を示し、アメリカがこれを黙認したことから、同年八月二日、イラクハクウェートに侵攻したのである。クウェートは、石油利權の確保のために意圖的に作られた國家である。オスマン・トルコの時代では、クウェートはイラクのバスラ洲政府の統治下にあつたが、英國が自己の石油利權を確立させるために強引に國境線が引かれて領土を奪はれたのであつて、イラクのクウェート併合にはそれなりの理由があつた。

ところが、アメリカは、その數時間後に明確に反イラク政策へと劇的に轉換させ、平成三年一月、米軍を中心とした連合軍がイラクを攻撃して灣岸戰爭が勃發した。イラクは敗戰し、連合國の報復措置によつて經濟制裁を受け續けた。そして、平成十三年九月十一日には、アメリカ同時多發テロが起こり、約三千人が死亡したとされる。しかし、この事件は、眞珠灣攻撃の「奇襲」といふ虚僞の幻想に勝るとも劣らないアメリカの自作自演の謀略であるとの大きな疑惑があり、今もなほその疑惑は一層增殖し續けてゐる。現在、九・一一事件の遺族の多數が集團訴訟を提起してをり、早晩その眞僞が白日に曝されることになるだらう。

ともあれ、九・一一事件があつたことから、テロへの報復との口實で、同年十月七日、アメリカがアフガニスタンを攻撃する(對テロ戰爭、アフガン戰爭)。そして、今度は、平成十四年一月二十九日に、ブッシュが一般教書演説でイラクを「惡の樞軸」として非難する發言を行ひ、同年十一月には、國連決議千四百四十一號により、イラクが四年ぶりに査察を受け入れることになつた。

その後になされた査察とこれによる報告の推移の中で、アメリカは、査察が不十分であるとして、戰爭をも辭さないとする新決議を提案したが、フランス等はこれに反對し、新決議案が反對多數で否決される見通しとなつた。このことから、國連安全保障理事會での裁決を避けて、單獨で開戰に踏み切ることを決定し、平成十五年三月十七日、ブッシュがイラクに對して、テレビ演説にて最後通告を發したが、フセインは徹底抗戰を宣言した。そして、同月十九日、米英軍による空爆「イラクの自由作戰」を開始して開戰となつた。

同年四月一日、ラムズフェルド米國防長官は、イラクとの和平交渉の可能性を否定し、無條件降伏を追求するとの方針を明らかにした。間もなく米軍は、バグダッドを制壓し、同月十日には、バグダッドのフセインの銅像が引き倒される光景が映し出される。

ブッシュは、同年五月一日、太平洋上を航行中の米空母エイブラハム・リンカーンの艦上で、「イラクにおける主要な戰闘作戰」終結宣言(大規模戰闘終結宣言)をなし、その演説の中には、新聞報道によると、かくのごとき表現があつた。
「(フセイン大統領の)銅像が倒される映像で、私は新しい時代の到來を目撃した。ナチズムのドイツ、日本帝國主義の敗北で、同盟軍は町を完全に破壞した一方、戰闘を始めた敵の指導者は最後の日まで生きてゐた。」と。己の殘虐さを棚に上げ、イラク、ドイツ、日本を一律に捉へ、第二次世界大戰を全體主義の日獨伊の「樞軸國」と民主主義の米英などの「連合國」との對立であるとし、「惡の樞軸」に對するアメリカの正義を高らかに歌ひ上げる單細胞動物の傲慢さを示すものとして興味深いものがある。


そして、同月二十二日には、國連安保理で米英によるイラクの統治權限の承認し、經濟制裁の解除など含む國連決議千四百八十三號が採擇され、この決議に基づき、CPAが發足して占領統治が始まり、同年七月十三日には、「イラク統治評議會」が發足した。このイラク統治評議會とは、イラク人による戰後初めての機關ではあるが、CPAの下部組織として、CPAの指示・指導に基づき立法と行政を行ひ、暫定統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行なつた機關のことである。


そして、同月二十二日には、國連安保理で米英によるイラクの統治權限の承認し、經濟制裁の解除など含む國連決議千四百八十三號が採擇され、この決議に基づき、CPAが發足して占領統治が始まり、同年七月十三日には、「イラク統治評議會」が發足した。このイラク統治評議會とは、イラク人による戰後初めての機關ではあるが、CPAの下部組織として、CPAの指示・指導に基づき立法と行政を行ひ、暫定統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行なつた機關のことである。

フセインは、大規模戰闘終結宣言後も生死不明、行方不明であつたが、同年十二月十三日には、イラク中部ダウルで發見され、米軍に拘束された。そして、翌十六年七月一日には、フセインら政權幹部計十二人を裁く特別法廷がバグダッドの米軍基地内で開かれることとなり、訴追手續が開始され、平成十七年十月十九日に初公判が開かれた。フセインは、裁判そのものが違法であるとし終始一貫して拒絶した。辯護人もそれに從つたが、翌日に何者かによつて誘拐されて殺害され、その後も他の辯護人が殺傷されるなど辯護もまゝならぬ裁判であつた。そして、フセインは、平成十八年十一月、「人道に對する罪」で死刑判決を言渡されると、「イラク萬歳」と叫び、「裁判は戰勝國による茶番劇」だとして痛烈に非難した。その後、同年十二月二十六日、控訴審でも死刑判決が下り、同月二十九日には四十八時間以内に死刑執行が行はれることが決まり、翌三十日に絞首刑が執行され、フセインは、「神は偉大なり。この國家は勝利するだらう。パレスチナはアラブのものだ。」などと叫んで六十九歳の波亂に滿ちた人生を閉じた。

この一連の裁判が長期に亘つて審理されてゐる間にも、イラクの情勢は混亂を極めた。ブッシュが大規模戰闘終結宣言を行つた後も、戰闘は止むことがなく、民兵の自爆テロなどによる米軍などの占領軍に對する戰闘はさらに過激になつて行つた。

占領と戰闘が繼續してゐるにもかかはらず、平成十六年からは形式的に復興支援が開始され、同年二月からは、我が國の陸上自衞隊がイラクに派遣された。

そして、同年四月、CPAは、イラク保健省へ行政權限を移讓することを初めとして、以後、各省廳へ權限移讓が行はれ、同年五月二十八日には、イラク統治評議會が暫定政權を選出し、同年六月二日、イラク暫定政權が發足して、同月二十四日には、イラク各省廳への行政權限の移讓が完了し、そして、同月二十八日、CPAは暫定政權へ「主權移讓」することになる。これによりCPAは解散するが、依然として連合軍はイラクの占領とイラクでの戰闘を繼續して今日に至る。

同年七月二十八日には、中部バクバで警察署を狙つた大規模な爆彈テロが發生したことから、暫定政府は同月三十一日に豫定されてゐた國民會議を延期せざるをえなくなり、八月十五日にバグダッドで國民會議が開催された。そして、サドルの民兵に向けて、暫定政權や占領軍に對しての反抗中止を呼びかけ、同月二十日には、暫定政府がサドルに對して最後通牒をなした。しかし、同月末に、シーア派の指導者シースターニー師の停戰呼びかけに應じ、サドルが全國の武裝勢力に停戰を指示した。そして、翌九月から、スンニ三角地帶の武裝勢力に對し米軍による大規模な掃討作戰を開始したが、それでもその後の治安の混亂は續き、このころまでに米兵の戰死者は千人を超え、イラク人の死者は一萬四千人を超えたとされる。

ところが、イラクの大量破壞兵器は存在しなかつたとのアメリカ調査團の最終報告が同年十月に發表され、これによりアメリカは自らが主張したイラク戰爭の大義を失ふことになる。それでも、同年十一月三日にはブッシュは大統領に再選され、翌四日にブッシュは、「イラクを自由な國にするためには、選擧を阻止しようとする連中をやっつける必要がある」との見解を示し、暫定政權アラウィ首相も「國連決議の日程に從ふ選擧實施が使命である」としてブッシュに同調した。

すると、明けて平成十七年の初頭から、反選擧テロが相次いだことや、スンニ派勢力のボイコットのために實施が危ぶまれたが、同年一月三十日に、投票所が襲撃されて多くの死亡者が出るなど、恐怖と騷然の中で國民議會選擧が強行實施されたことから、その公正さには著しい疑問が殘つた。

そして、二月十七日、イラク選擧管理委員會は國民議會選擧の結果を公式に發した。投票率は五十八パーセントで、定數二百七十五議席のうち、第一黨はシーア派政黨連合の統一イラク連合の百四十議席、第二黨がクルド人政黨のクルド同盟の七十五議席などの結果となつた。多くの黨派が選擧をボイコットしたスンニ派の中にあつて、例外的に選擧に參加したムクタダー・サドル師派の國民獨立エリート集團は三議席に留まり、殆どのスンニ派が選擧をボイコットしたことが議席獲得數の上からも明らかであり、その後も選擧結果を不滿とするシーア派を狙つたテロが相次いだ。

このやうな事態の中で、三月十六日に選出議員による初の國民議會が開幕し、四月二十八日に移行政府が發足して、大統領にクルド人のジャラル・タラバニが選ばれて、暫定政權は解消した。

そして、八月には、新憲法草案の投票裁決がなされるが、クルド人議員とスンニ派議員の反對により否決された。一週間後に再度投票がなされ、このときもスンニ派が反對して全會一致とはならないものの、多數決により憲法草案は承認され、十月十五日には新憲法草案の採否を問ふ國民投票にかけられた。スンニ派が贊否を巡つて分裂する中、クルド人、シーア派らの支持を得て、七十八パーセントの贊成で承認されたと同月二十五日に發表された。

その後の十二月十四日に、ブッシュがイラク開戰の最大の理由とされた大量破壞兵器の情報に誤りがあつたことを認めたが、これは、前に述べたとほり、前年の平成十六年十月のアメリカ調査團の最終報告を追認することになつた。

ブッシュは、先に述べたとほり、平成十五年五月一日の大規模戰闘終結宣言の演説の中で、「テロリストはイラクの體制から大量破壞兵器を得ることはできない。その體制がすでに存在しないからだ。」、「大量破壞兵器を追求または所持する者は、文明世界への重大な脅威であり、(我々に)直面することとなる。」として、イラクが大量破壞兵器を所持してゐることを先制攻撃による制裁戰爭の大義としてきたが、その大義がなかつた戰爭であることを認めざるを得なかつた。

しかし、アメリカ調査團の最終報告から一年以上も先延ばししたのは、もし、早い段階でこれを認めると反米意識に油を注ぐことになり、イラクの選擧に影響して憲法制定が遲れ、さらに反米政權樹立の切つ掛けになることを強く懸念したことによるものである。

イラクには、百を超える新聞があると云はれるが、ブッシュが大量破壞兵器がなかつたことを認めた記事はどこも出なかつた。それは、米占領軍の檢閲がなされてゐたためであつたが、翌日の平成十七年十二月十五日、新憲法に基づき、新政府發足に向けた二度目の國民議會選擧が行はれ、シーア派勢力が壓勝することになる。

ところが、年が明けて平成十八年二月、正式政府發足に向けての首相選びが難航する。選擧によつてシーア派保守が臺頭したことにスンニ派各政黨が拒否感を顯はにしたためであり、その後は、多數をしめるシーア派、少數のスンニ派、占領軍とが三つ巴となつて報復の連鎖による武力闘爭が繰り廣げられ、まさしく「内戰状態」に突入したのである。

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