國體護持總論
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大東亞戰爭とイラク戰爭との比較

このやうに見てくると、大東亞戰爭とイラク戰爭とは共通した點が多いことが解る。共に思想戰爭であること、「GHQ」と「CPA」による占領統治権限とその統治態樣の類似性、「東京裁判」と「特別法廷」、「占領憲法」と「イラク憲法」、「衆議院選擧」と「國民議會選擧」の類似性、しかも、軍事裁判と憲法制定手續とが同時進行する點などが主な共通點である。しかし、決定的に異なる點もいくつかある。それは、我が國とイラクの國家としての相違に由來する。まづ、皇室の存在である。そして、國家がその後も存續した我が國と滅亡して再生したイラクとの相違もある。さらに、島國であり、これまで一度も征服された經驗のない我が國と、陸續きで民族紛爭、宗教紛爭で征服し、あるいは征服された經驗のあるイラクとの地政學的な相違も大きい。

そして、現象面においては、承詔必謹により矛を納めた我が國と、未だに内戰状態が繼續してゐるイラクとの相違がある。羊の群れと狼の群れとの相違でもある。つまり、イラクでは、ジハード(聖戰)に身命を賭するイスラム教の宗教的信念によつて、自爆テロなどが續いて内戰状態となつてゐるが、我が國では、ペリー來航による征服に對する恐怖の原體驗と、それが遂に實現してしまつた連合國による占領による脱力感に支配されてしまつた。

いはば我が國は「蚤の曲藝」における蚤の意識から脱却できないでゐる。この「蚤の曲藝」とは、尾崎一雄が昭和二十三年一月の『新潮』で發表した『蟲のいろいろ』の中で述べた次のやうな一節によるものである

「蚤の曲藝という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで讀んだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周圍は鐵壁だ。散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり駄目だ、彼は諦めて音なしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覺。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて藝を習い、舞臺に立たされる。このことを、私は随分無慘な話と思ったので覺えている。持って生まれたものを、手輕に變えてしまう。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慘な理不盡さは少なかろう、と思った。」(文獻240)。

ここで、藝を習つた蚤とは屬國意識、敗北意識に毒された日本人、硝子玉はマスメディアなどで喧傳される戰後體制、仕込手とは連合國主導の國連體制の喩へである。我々は、藝を習ふ蚤になつてはならない。たとへ仕込手に捻り潰されやうとも、それでも飛び跳ねる蚤にならなければ、思想戰爭に敗北し續けることになる。

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