國體護持總論
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著書紹介

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昭和二十年九月

一日、第八十八回臨時帝國議會が、同月四日開會、翌五日閉會の豫定で招集された。

同日、ソ連が千島列島全域を占領したと發表。

同日、米太平洋陸軍總司令部(GHQ/USAFPAC)の參謀第二部(G2)民間諜報局(CIS)に屬する民間檢閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)の先遣隊の一部が橫濱に到着(横濱税關ビル)。

二日、政府代表として重光葵外相、軍部(大本營)代表として梅津美治郎參謀總長が、日本側全權大使として、戰艦ミズーリの艦上で『降伏文書』に調印して大東亞戰爭は正式に停戰となる。

この『降伏文書』調印にあたつての詔書は、「朕は昭和二十年七月二十六日米英支各國政府の首班がポツダムに於て發し後にソ連邦が參加したる宣言の掲ぐる諸條項を受諾し、帝國政府及び大本營に對し連合國最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合國最高司令官の指示に基き陸海軍に對する一般命令を發すベきことを命じたり、朕は朕が臣民に對し敵對行爲を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の條項竝に帝國政府及び大本營の發する一般命令を誠實に履行せんことを命ず」といふものである。

そして、GHQは、軍隊の敵對行爲禁止、武裝解除、軍需生産全面停止などを内容とするGHQ指令第一號(一般命令第一號、資料二十六)を發令する。これによると、「支那(滿洲ヲ除ク)臺灣及北緯十六度以北ノ佛領印度支那二在ル日本國ノ先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石總帥ニ降伏スヘシ」とし、さらに、「滿洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島二在ル日本國ノ先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ『ソヴィエト』極東最高司令官二降伏スヘシ」とある。トルーマンの原案では、千島列島の皇軍がソ連に降伏することになつてゐなかつたため、スターリンは、ヤルタ密約に基づき、ソ連軍に對し降伏させるやうトルーマンに要求し、トルーマンはこの要求を受け入れた。さらに、スターリンは、北海道東北部の占領を要求したが、トルーマンは、ヤルタ密約にないことを理由にこれを拒否した。他方で、米國側は、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるやう要求したが、スターリンはこれを拒否した、といふ米ソの交渉經緯があつた。

同日、東南アジア植民地は歐米の宗主國が次々と復歸する中で、ベトナム(主席ホー・チ・ミン)がフランスから獨立を宣言し、反佛闘爭を開始。

三日、ソ連が齒舞群島を侵略(五日までに占領)。

同日、フィリピンの皇軍部隊降伏。

同日、重光・マッカーサー會談により間接統治の方向性を確認。

同日、民間檢閲支隊(CCD)の先遣隊主力が橫濱に到着。

四日、第八十八回臨時帝國議會が開會され、その開院式の敕語には、「朕ハ終戰ニ伴フ幾多ノ艱苦ヲ克服シ國體ノ精華ヲ發揮シテ信義ヲ世界ニ布キ・・・」とあり、同日になされた貴族院の『聖旨奉體ニ關スル決議』には、「内ハ萬古不易ノ國體ヲ護持シ・・・謹テ聖恩ノ萬一ニ報イ叡智ヲ安ンジ奉ラムコトヲ期ス」とされた。そして、帝國議會は翌五日に閉會するが、これまでの經緯を記載した政府作成の『帝國議會に對する終戰經緯報告書』が配布され、東久邇宮稔彦首相が帝國議會で施政方針演説がなされた程度で、實質的な審議はされなかつた。同報告書には、「勢の赴く所我民族の犧牲愈々甚しく・・・國體の維持も亦危殆に陷るべきを憂ひ」とあつた。

五日、第八十八回帝國議會臨時會議を召集。東久邇宮稔彦首相は衆貴兩院における「戰爭終結ニ至ル經緯竝ニ施政方針演説」を行ひ、「ポツダム宣言は原則として天皇の国家統治の大權を變更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戰爭の終戰を見るに至つたのであります。」との認識を示した。これは、GHQによる憲法改正の強制がなされることを豫期してゐなかつたことを意味する。

同日、ソ連軍が齒舞諸島までを占領。

同日、瀬島龍三など關東軍首腦部がハバロフスクへ送られ、將兵約五十七萬人がシベリア抑留となる。

六日、トルーマンは、『降伏後における米國の初期對日方針』を承認し、マッカーサーに指令するが、これが發表されるのは同月二十二日である。

同日、帝國議會が、天皇と日本政府の統治の權限が連合國最高司令官の下に置かれるとする『連合國最高司令官の權限に關するマックアーサー元帥への通達』を出す。

同日、呂運亨が朝鮮人民共和國(臨時政府)の建國宣言。

遠藤柳作朝鮮總督府政務總監は、昭和二十年八月に、大東亞戰爭停戰に伴ふ韓半島の無政府状態化を防止するため、朝鮮人による獨立政府樹立を人望のあつた政治活動家呂運亨に要請してゐた。呂運亨は同月十五日に朝鮮建國準備委員會を設置して、朝鮮總督府から行政權の事實上の移讓を受け、この日に建國宣言を行つた。

八日、連合軍が東京を占領する。以後、都内の建物六百箇所以上を接收。

同日、米軍が韓半島に上陸。米軍は、呂運亨の臨時政府を認知せず、朝鮮總督府を接收してアメリカ軍政廳を設置した。

九日、マッカーサーは、日本の占領統治(占領管理)についての方針(日本管理方針)に關する聲明を出し、「間接統治方針」であることを發表する。

十日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』(SCAPIN16)を我が政府に提示し、これ以後、我が政府に代はり、報道制限と檢閲が全面的に實施される。

同日、「在日朝鮮人連盟」中央準備會が設立される。

十一日、GHQは、東條英機元首相ら戰爭犯罪人三十九人の逮捕を指令し、東條元首相が逮捕直前に拳銃自決を圖つたが未遂に終はつた。

同日、呂運亨の臨時政府は名實共に消滅。米ソ冷戰の狹間で翻弄され、實質的な地域支配も外交樹立もない臨時政府は國際法上の國家とは云へずに「幻の共和國」に終はつた。

十三日、大本營が廢止される。

同日、國後島を侵略したソ連は、千島のソ連領編入を宣言する。

同日、近衛文麿(東久邇宮内閣の無任所大臣)がGHQ/USAFPAC(横濱税關ビル)を訪問。

十四日、東久邇宮稔彦首相がマッカーサーを訪問。

同日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』違反で、同盟通信社の業務停止を指示し、翌十五日正午までの配信停止を命じた。

十五日、民間檢閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐が報道機關に對して、「連合國はいかなる點においても日本國と連合國を平等にみなさないことを日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸國間に地位を占める權利を認められてゐない。敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に對して命令する。交渉はしない。交渉は對等のものの間に行はれるものである。」といふマッカーサーの命令を發表。

これに對して、外務省の萩原徹條約局長は、「日本は國際法上、條件付終戰、せいぜい有條件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいふことを聞かねばならないといふ、さういふ國として無條件降伏をしたのではない。」と反論したが、GHQは、これに激怒して萩原條約局長の左遷を命じて強引に更迭した。

この更迭事件が政府首腦に及ぼした「萎縮效果」は計り知れないものがある。この更迭自體が直接統治形態であつたことから、占領統治における間接統治の原則は形式的な建前にすぎず、その實質は直接統治(デベラチオ)であるとの敗北的心理を根付かせ、GHQに逆らふことは身分保障を放棄することであり、保身のためには決して逆らつてはならないとする心理的な萎縮效果を生んだ。

同日、同盟通信社は事前檢閲の下で國内に限つて業務再開を許された。

同日、連合軍が東京・日比谷の第一生命相互ビルを接收。

同日、文部省の『新日本建設の教育方針』が發表され、それには「今後ノ教育ハ益々國體ノ護持ニ努ムルト共ニ軍國的思想及施策ヲ拂拭シ平和國家ノ建設ヲ目途トシテ」とあつた。

十六日、GHQ/USAFPACが橫濱から第一生命相互ビルに移轉。

十七日、マッカーサーは、東京(第一生命ビル)の本部に入り、日本占領が順調なことから「占領兵力は二十萬人に削減できる」と聲明。この發言が米國の許可を得てゐなかつたことから、トルーマン大統領が疑念を抱くことになる。

十八日、入江俊郎内閣法制局第一部長は、憲法改正檢討報告書の『終戰ト憲法』を法制局長官へ提出する。

同日、東久邇宮稔彦首相は、外國人記者團との初會見で、「憲法修正に關して、内政改革の時間的餘裕はない。」と發言する。

同日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』違反により朝日新聞社の業務停止を指示し、朝日新聞は四十八時間(九月十九日~二十日)の休刊を命ぜられる(SCAPIN34)。

十九日、GHQは、檢閲、言論統制、洗腦を目的とする『プレス・コード(日本新聞規則に關する覺書)』(SCAPIN33)を指令する(報道・出版關係者への公表は同月二十一日)。

二十日、帝國憲法第八條に基づく緊急敕令として、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)が公布され、即日施行される。これが、いはゆる「ポツダム緊急敕令」である。同日、これに基づく『「ポツダム」宣言受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件施行ニ關スル件』といふ「敕令」(昭和二十年敕令第五百四十三號)の形式の「ポツダム命令」が發令され、以後、占領統治を受け入れた國内法的な整備調整がなされることになる。

二十二日、米國政府は、『降伏後におけるアメリカの初期對日方針』を發表。GHQは、これに基づいて、生活必需品の生産促進・輸出入活動の禁止・金融取引の統制などに關する指令第三號を發令する。

同日、GHQは、『ラジオ・コード(日本ラジオ規則に關する覺書)」(SCAPIN43)を指令する。

二十四日、GHQは、『プレス(報道)の政府からの分離に關する覺書』(SCAPIN51)を指令する。これにより、新聞、通信社に對する我が國政府の統制支配が廢止されたが、これは同時に「プレス(報道)」全般がGHQの「直接統治」による統制へと移行したことを意味し、これが同盟通信社解散の契機となる。

二十六日、民間檢閲支隊(CCD)第三地區(廣島~九州)本部(福岡)の業務が開始。

二十七日、昭和天皇がアメリカ大使館のマッカーサーを訪問される(第一回會見)。奧村勝藏元外務次官の談話記録によれば、昭和天皇は、「今回の戰爭の責任は全て自分にあるのであるから自分に対して、どのやうな處置をとられても異存はない。戰爭の結果、現在國民は飢餓に瀕してゐる。このままでは罪のない國民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米國に是非食糧援助をお願ひしたい。ここに皇室財産の有価證券類をまとめて持參したので費用の一部に充てて頂ければ仕合せである。」と仰せられ、大きな風呂敷包みを机の上に差し出されたとのことである。マッカーサーは、この陛下のお姿を見て、「私は初めて神の如き帝王を見た。」と述懷してゐる。

このとき撮影された直立不動の陛下と樂な姿勢のマッカーサーが竝んだ寫眞が新聞に公開され、國内に衝撃を與へる。

同日、我が國の漁獲水域を指定する、いはゆるマッカーサー・ラインが設定される。

二十八日、天皇とマッカーサーの寫眞が新聞に掲載される。

二十九日、東久邇宮稔彦首相がマッカーサーを訪問。

同日、内務省の檢閲により、天皇とマッカーサーの寫眞の掲載禁止がなされる(これが内務省の最後の檢閲)。

同日、GHQが、内務省による檢閲制度の廢止を指示する『プレス(報道)および言論の自由への追加措置に關する覺書』を公布。

三十日、GHQの檢閲により、天皇とマッカーサーの寫眞の掲載が復活する。

同日、「日本における民間檢閲基本計畫」(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)第二次改訂版が策定される。

同日、GHQが『朝鮮人連盟發行の鐵道旅行乘車券禁止に關する覺書』を通達。

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