國體護持總論
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昭和二十一年二月

一日、第一次農地改革が實施される。

同日、軍人恩給が停止される(昭和二十八年に復活)。

同日、毎日新聞が「憲法問題調査委員會試案」であるとする改正案(毎日案)なるものをスクープ記事として掲載する(GHQの指示を受けて行つた政府内部通報者による陰謀説あり)。松本は、この日の閣議において、このスクープ記事に觸れ、「この案(毎日案)は、憲法改正問題調査委員會の甲案でも乙案でもなく、ただ研究の過程において作つた一つの案にすぎない。」とし、「これがスクープされたことについては、内閣側としては何ら責任はない。」と説明して閣議の了承を求めた。現に、この毎日案は、憲法問題調査委員會おける試案作成の初期段階(一月四日ころ)において、宮澤俊義委員がとりまとめた甲乙兩案のうちの「宮澤甲案」と殆ど一致するものであつた。宮澤俊義は、昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞に、憲法改正問題に關する批判意見を掲載させるなど毎日新聞社と濃密な關係にあつたことからして、秘密漏洩疑惑がある宮澤俊義の試案文書の管理責任の有無が問はれるべきであつた。しかし、同日夜に、内閣書記官長楢橋渡は、毎日案は憲法問題調査委員會の草案ではないことを公式に否定する發表をした。そして、政府は、「憲法改正の要旨」を非公式にGHQに提示。これをうけて、GHQは政府に委員會案の正確な内容を知らせるやう通知した。また、ホイットニー民政局長がマッカーサーに、極東委員會(FEC)とGHQの憲法改正權限の關係についてのメモを提出した。

二日、英連邦軍が占領開始。

同日、ホイットニー民政局長がマッカーサーに『最高司令官のための覺書』を提出。その内容は、毎日新聞のスクープ記事に對する評價に關するものであり、マッカーサーは、松本試案を拒否する理由書の作成をホイットニー民政局長に命令する。

同日、憲法問題調査委員會の第七回總會(最終總會)。

同日、改正「宗教法人令」公布。

同日、ソ連は南樺太と千島を自國領に編入すると宣言。

三日、マッカーサーは、GHQ民政局(GS)へ『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』に沿つた『日本國憲法草案』(GHQ草案、マッカーサー草案。資料三十一)作成を指示する。

その後、『日本國憲法草案』に盛り込まれることになつた、この『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』の内容とは、①「The Emperor is at the head of the State.」(天皇は、國家の元首の地位にある。)、「His succession is dynastic.」(皇位の繼承は、世襲である。)、「His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsible to the basic will of the people as provided therein.」(天皇の義務および權能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、國民の基本的意思に對して責任を負ふ。)、②「War as a sovereign right of the nation is abolished.」(國家の主權的權利としての戰爭を放棄する。)、「Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.」(日本は、紛爭解決の手段としての戰爭、および自國の安全を保持するための手段としての戰爭をも放棄する。)、「It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.」(日本は、その防衞と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。)、「No Japanese army, navy, or air force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.」(いかなる日本陸海空軍も決して保有することは、將來ともに許可されることがなく、日本軍には、いかなる交戰者の權利(交戰權)も決して與へられない。)、③「The feudal system of Japan will cease.」(日本の封建制度は廢止される。)、「No rights of peerage except those of the Imperial Family will extend beyond the limits of those now existent.」(華族の權利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。)、「No patent of nobility will from this time forth embody within itself any national or civic power of government.」(華族の授與は、爾後どのやうな國民的または公民的な政治權力を含むものではない。)、「Pattern budget after British system.」(豫算の型は、英國制度に倣ふこと。)といふものであつた。

ここで留意されるべきは、これは占領憲法の骨格となつたもので、特に、占領憲法第九條第二項後段の「交戰權」の譯語である「rights of belligerency」といふ、これまで國際法になかつた概念が初めて登場したことである。

四日、GHQ民政局(GS)は、『日本國憲法草案(GHQ草案)』の起草作業を開始(十二日までに完成)。

八日、松本烝治は、『憲法改正要綱(松本試案)』と『説明書』の英譯をGHQに郵送して、速やかな會談を求めた。GHQは『憲法改正要綱』を一時的に受け取り、二月十三日に會議を持つことを約束する。

九日、閣議で、公職追放令該當者の範圍を發表。

十一日、米英ソは、ヤルタ祕密の全文を公表。政府は、このとき初めてその内容を知るに至つた。これが「ヤルタ密約」といふ日ソ中立條約違反の違法な合意であつた所以である。

十二日、マッカーサーは、『日本國憲法草案(GHQ草案、マッカーサー憲法草案)』を承認。

十三日、午前十時ころ、吉田茂外相と松本烝治國務大臣らは、麻布の外相官邸にGHQ民政局長ホイットニー准將とケーディス大佐らの訪問を受け、政府が送付した『憲法政正要綱(松本試案)』の受け取りを正式に拒否し、その代はりに英文の『日本國憲法草案(GHQ草案)』を手交して、「①日本政府から提示された憲法改正案は、司令部にとつて受諾できない(an-accepable)。②この司令部の提案は、司令部にも米本國にも、また連合國極東委員會にも何れにも承認せられるべきものである。③マッカーサー元帥はかねてから天皇の保持について深甚な考慮をめぐらしてゐたが、日本政府がこの提案の如き憲法改正を提示することはこの目的達成のために必要である。これなくしては天皇の身體(person of the Enperor)の保障をすることはできない。④われわれは日本政府に對しこの提案の如き改正案の提示を命ずるものではない。然も、この提案と基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)を一にする改正案をすみやかに作成提示されることを切望する。」として實質的にこれに基づく憲法制定を嚴命した。これを受け入れれば、天皇を戰犯にしようとする他國の壓力から「天皇は安泰になる」(would render the Enperer practically unassailable)として、天皇を人質としてGHQ草案を強制した。そして、結果的には、占領憲法は、このGHQ草案と「基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)を一にする」ものとなつたのである(文獻171)。

この點に關して、興味深い記事がある。それは、平成十九年七月一日付け産經新聞朝刊の「緯度経度」欄の「憲法の生い立ち想起」といふ、同社ワシントン支局の古森義久記者の署名記事である(文獻337)。これは、昭和五十六年四月に、占領憲法の草案を書いたチャールズ・L・ケーディスに古森記者がインタピューしたときのことを書いたものであり、それには、次のやうな記載がある。

「基本方針こそ米統合参謀本部やマッカーサー総司令官から与えられたものの、ケイディス氏はかなりの自由裁量権をも得て、二十数人のスタッフを率い、わずか十日足らずのうちに、一気に日本国憲法草案を書き上げた。とくに第九条(注・草案第八條に對應)は自分自身で書いたという。」「彼(ケイディス)は、憲法をどのように書いたかについての私(古森)の数え切れないほどの質問に、びっくりするほどの率直さで答えた。こちらの印象を総括すれば、日本の憲法はこれほどおおざっぱに、これほど一方的に、これほどあっさりと書かれたのか、というショックだった。」「神聖なはずの日本国憲法が実は若き米人幕僚たちによってあわただしく作られ、しかも日本人が作ったとして発表されていた、というのだ。だからそのへんのからくりを正直そうに話してくれたケイディスの言葉は、ことさら衝撃的だったのである。同氏(ケイディス)はまず憲法九条の核心ともされる『交戦権』の禁止について『日本側が削除を提案するように私はずっと望んでいたのです。なぜなら『交戦権』というのが一体何を意味するのか私には分からなかったからです』と述べて笑うのだった。彼は交戦権という概念が、単に戦争をする権利というよりも、交戦状態にあるときに生じるさまざまな権利ではないかといぶかっていたというのだ。第九条の目的についてはケイディス氏は『日本を永久に武装解除されたままにしておくことです』とあっさり答えた。ところが、上司から渡された黄色い用紙には憲法の簡単な基本点として『日本は自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する』と記されていた。だか、同氏は、『この点については私は道理に合わないと思い、あえて削除しました』と語った。すべての国は自己保存の固有の自衛権利を有しており、その権利を否定すれば、国家ではなくなると判断したからだという。ケイディス氏はその自主的な削除を上司のコートニー・ホイットニー民政局長からは当初、反対されたが、最終的には通してしまった。」「ケイディス氏はさらに米側が憲法案を日本側首脳に受け入れさせる際、ホイットニー准将が『われわれは原子力エネルギーの起こす暖を取っている』との、原爆を連想させる表現で圧力をかけたことにも触れた。そして、ちょうど頭上をB29爆撃機が飛んでいたため、その言が日本側への威嚇の効果を発揮したことも、淡々と認めたのだった。」とある。

なほ、宮澤俊義は、これまで昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞などで、内大臣府が憲法改正作業をすること自體を批判してゐたのに、このGHQ草案を見るや否や、直ちに變節し、「このたびの憲法改正の理念は一言でいへば平和國家の建設といふことであらうとおもふ。・・・日本は永久に全く軍備をもたぬ國家ーそれのみが眞の平和國家であるーとして立つて行くのだといふ大方針を確立する覺悟が必要ではないかとおもふ。いちばんいけないことは、眞に平和國家を建設するといふ高い理想をもたず、ポツダム宣言履行のためやむなくある程度の憲法改正を行つてこの場を糊塗しようと考へることである。かういふ考へ方はしばしば『官僚的』と形容せられる。事實官僚はかういふ考へをとりやすい。しかし、それではいけない。日本は丸裸かになつて出直すべき秋である。」(「憲法改正について」、雜誌『改造』昭和二十一年三月號所収)として、GHQ草案の戰爭放棄を全面的に受け入れた憲法改正を積極的に支持したのである。これが變節學者の面目躍如たる由縁である。

十八日、松本烝治は、白洲次郎に『憲法改正案説明補充書』の英譯をGHQに提出させるも、GHQはこれの受け取りを拒否され、「松本案については考慮の餘地はない。司令部案を基礎として進行する意思があるかどうかを二十日中に回答せよ。それでなければ司令部案を發表する。」(文獻171)と恫喝された。

そもそも、GHQが司令部案を發表することは、憲法改正における國内的な獨自性を奪ふ壓力となり、それ自體が明確にヘーグ條約違反になるから、極東委員會もこのやうな行爲を許容することはなかつたはずである。「SCAPが憲法を起草したことに對する批判(日本の新憲法起草に當ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に當つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」もプレスコードで禁止してゐたことからしても、これは單なる脅しであつたはずてあるが、當時の政府はそこまでの讀みできず、これが公表されることの恐怖によつて萎縮してしまつたのである。

十九日、昭和天皇が川崎、橫濱兩市を初めて巡幸される。これを皮切りに地方巡幸が開始される。

同日、GHQは、『刑事裁判權行使に關する覺書』を公布し、これにより、占領目的に有害な行爲に關して、連合國軍事裁判所が裁判權を行使することになる。

同日、閣議において、初めてこれまでの經緯と『GHQ草案』の大要を説明してその受入れについて檢討に入つた。勿論、このとき、松本國務大臣は、ホイットニーが二月十三日に述べた「エンペラーのパーソン」問題にも言及し、閣僚全員は愕然とし、恫喝に屈する方向へと流れる。その結果、幣原首相が直接にマッカーサーと會見して最終的意思を確認することになり、そのために回答期限を二十二日までに延期されることをGHQに求めた。  二十日、ソ連は、千島、南樺太の領土編入を宣言。

二十一日、幣原首相は、『GHQ草案』の意向を確認するため、マッカーサーと會見。マッカーサーは『GHQ草案』の受け入れを強く政府側に要求。主權在民と戰爭放棄の二つがGHQ案の眼目であることが強調された。

二十二日、幣原首相は、午前中に天皇に謁見し、GHQ草案を受け入れざるを得ない事情を奏上して承認を受けた。そして、閣議において幣原首相から前日の會見の報告があり、その結果、GHQ草案の翻譯文もなく、その詳細な内容も解らないまま、GHQ草案を受け入れることが決定される。これが「第二の無條件降伏」である。

その上で、「基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)」のうち、「基本原則」は承認するとしても、「根本形態」とはどの範圍のものかといふことについて、松本大臣が司令部側と會見して、その趣旨を確認することになつた。そして、午後二時、松本大臣は、吉田外相と白洲次長とともに司令部へ行き「根本形態」について一時間四十分にわたり問答がなされた。その問答による結論は多岐に亘るが、その主な點を要約すると、
① 些末な點の變更は可能であること。
② 帝國憲法の各條項の改正と追加といふ改正形式は認められず、全面改訂に限ること。
③ 前文(日本國民ノ憲法制定、帝國憲法廢止ノ宣言)は憲法の一部を成すものであること。
④ 戰爭廢棄の規定は前文に移してはならず、條文中に置くこと。
⑤ 皇室典範は皇室の自治法であることを否定し、人民の主權的意思による法律によつて皇室を支配下に置くこと。
などであつた。つまり、變更を認めうる可能性があつたのは、GHQ草案で一院制としてゐたものを二院制にすることだけであり、このやうに殆ど讓歩しないGHQの姿勢に松本大臣は失望して辭去し、これを幣原首相に報告し、GHQ草案の翻案起草に着手することになる。

二十三日、政府は、『政黨・協會其ノ他ノ團體ノ結成ノ禁止等ニ關スル件』を公布施行する。

同日、十一か國で構成される對日政策の決定機關である極東委員會(FEC)が成立し、二月二十六日からワシントンで第一回會議が實施される。

二十四日、日本共産黨第五回黨大會開催。野坂參三は、その政治報告において、一番の中心問題は暴力革命を避けることであるとし、平和的・民主的な方法で民主主義革命を成し遂げ、さらに議會的な方法で政權を獲得するといふ二段階で社會主義革命を實現しうる可能性が生まれたと言明した(占領下平和革命論)。

二十五日、玄洋社など四十五團體に對し、軍國主義團體であるとして解散命令が出される。

同日、閣議において、やうやく閣僚全員にGHQ草案の翻譯版を配布し、さらに、總選擧を三月三十一日に實施するとした一月二十九日の閣議決定を取消し、四月十日に實施すると決定した。昭和二十年十二月十八に帝國議會が解散した後、これほどまでに總選擧が遲れた理由は、公職追放令關係の資格審査に手間取つたためであつた。

二十六日、極東委員會(FEC)が、第一回會議を開催。ソ、豪、英は、天皇制廢止を主張し、閣議において、『GHQ草案』を基本とする新憲法草案の起草を決定して開始する。

二十八日、政府は、『就職禁止、退官、退職等ニ關スル件』(公職追放令)を公布、同日施行した。

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