國體護持總論
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著書紹介

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昭和二十一年十月

 

一日、米國務省は、『降伏後の日本の政治指導者の展望』發表。

 同日、ニュルンベルク國際軍事裁判で判決(ゲーリングやリッベントロップら十二人が絞首刑。十六日に刑が執行された。)。

 同日、東芝電氣全勞連(産別會議系)がゼネストに突入。これを契機として、日本新聞通信放送勞組放送支部、全炭勞、日本映畫演劇勞組、電産勞組、國鐵總連などの産別會議系勞組が續々と呼應してゼネスト體制を確立させ、いはゆる「十月闘爭」に突入。

 同日、貴族院の帝國憲法改正案特別委員小委員會(第三回)において、宮澤俊義(貴族院議員)は、「・・・憲法全體ガ自發的ニ出來テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事實ハヤガテ一般ニ知レルコトト思フ。重大ナコトヲ失ッタ後デ此處デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己僞瞞ニスギナイ・・・」と發言し、帝國憲法改正作業がGHQの指令に基づく「自主性の假裝(自己僞瞞)」であることを告白した。

 三日、貴族院特別委員會が『修正内閣憲法改正草案』を修正可決。

 五日、貴族院本會議開會。安倍委員長の報告、質疑、討論がなされる。佐々木惣一議員は、反對意見を述べ、①わが國の「政治的基本性格」(國體)は變更してはならないこと、②「天皇ヘノ協力機關ノ徹底的改革ヲ行フコトヲ越エテ定時的基本性格タル國體ノ變更ニ進ムコトハ不必要」であること、③改正案では、終戰の際の御聖斷のやうに國家緊急時において「天皇ニ特殊ノ重大天職ノアルコトヲ見落シテ」ゐること、④天皇に責任を負はしめないために、天皇を政治に關し無能力とする必要があるといふのは大きな誤解であり子供だましの説明にすぎないこと、⑤改正案では天皇無答責任の規定が忘れられてゐること、⑥改正案では「天皇ヲ媒介トスル三權分立ノ機關ノ心理的歸一ト云フコト」についての注意がなされてゐないこと、⑦ポツダム宣言は、民主主義的な政府體制を求めてゐるにすぎず、君主制から共和制へ轉ずることを求められてはゐないこと、⑧國體には二つの觀念があるが、萬世一系の天皇が統治權を總攬されるといふ國柄が變更すれば、精神的、倫理的方面から見た國柄もやはり變更せざるを得ないこと、を指摘し、改正案全面反對の意見があることを公に表明することの意義を力説した。

 この佐々木惣一の行つた反對演説の評價について、現在の保守論壇には、これを絶贊する傾向があるが、全く別の評價もある。佐々木の學説は憲法改正無限界説であり、國體の變更も可能である。それゆゑに、ここでの佐々木演説は、「變更してはならぬ」といふ個人的な情念によるものであり、決して無限界説の學説を放棄したものではない。「國體を破壞することは許されるが、個人的にはそれを希望しない。」といふ見解に過ぎない。これは立法政策論であつて憲法論ではない。無限界説は、そもそも、主權論であり、國體論とは全く相容れないのである。そのため、むしろ、この演説は、佐々木の痛切な懺悔に基づくものと言ふべきであらう。前述したとほり、佐々木は、非獨立の占領下において、近衞文麿の要請に應じて内大臣御用掛に任命され、近衞とともに憲法改正案の起草にあたり、昭和二十年十一月二十四日、「帝國憲法改正ノ必要」といふ改正案を天皇に奉答し、貴族院議員として翌二十一年から「日本國憲法」の審議に參加したのである。非獨立の占領下において、憲法改正は許されないことを全く自覺せずして、眞つ先駈けて帝國憲法の改正を試みたのが佐々木であり、これは學者としても政治家としても萬死に値する誤りを犯したものと言へる。「改正が可能であるといふ論理」と「改正を不可とする情念」との矛盾に滿ちた葛藤を抱きながら、自らが占領下で改正を行ふ嚆矢となつた立場を恥じて、これまでの軌跡を痛切に懺悔する心で行つた演説であつたと受け止めなければ、このやるせない思ひを拭ひ切れないではないか。これは、まさに「狼少年の悲哀」であり、餘りにも時機を逸した自己顯示欲の發露にすぎなかつた。

 六日、貴族院本會議は、送付憲法改正案を修正可決した。このとき、GHQは、貴族院での審議に時間をかけて審議未了により憲法改正案を廢案にしようとする動きを牽制するために、帝國議會の大時計が午後十一時五十五分を指したときに、この大時計を止めて、名目上は同日に可決させることを強要した。この事實を知つた貴族院では、審議未了による廢案に追ひ込むのは不可能であると斷念して審議を繼續し、實際に修正可決したのは、翌朝(夜明け)であつた。そして、直ちに衆議院に再び回付された。

 七日、衆議院は、これを特別委員會に付託することもなく本會議に上程し直ちに起立方式で採決を行つた。「五名ヲ除キ、其ノ他ノ諸君ハ全員起立、仍テ三分ノ二以上ノ多數ヲ以テ貴族院ノ修正ニ同意スルコトニ決シマシタ。之ヲ以テ帝國憲法改正案ハ確定致シマシタ」との議長の宣告がなされ、最後に吉田首相の挨拶がなされた。ここで反對の五名とは、共産黨議員四名と細迫議員であつたと傳へられてゐる。

 八日、文部省は、式日における教育敕語捧讀の廢止を通達。

 九日、マッカーサーは、不敬罪訴追を牽制する聲明を出す。この牽制聲明は、『アカハタ』の天皇批判記事が契機となつたもの。

 十一日、マッカーサーは、第二次農地改革二法案成立に際して聲明。

 十二日、『帝國議會において修正を加へた帝國憲法改正案』を樞密院に諮詢。

 同日、『日本史科目再開に關する覺書』公布。

 十四日、このころ、外務省の終戰連絡事務局と法制局との協議によつて、成立した帝國憲法改正案の英譯文を作成する。GHQの指令により、昭和二十一年四月四日から昭和二十七年四月二十八日まで「英文官報」(英語版官報)が發行されてをり、それに掲載するためのものである。この「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されてゐる。

 同日、GHQは、『國民學校(小學校)の日本歴史の授業再開を許可する覺書』を提示。

 十六日、天皇、マッカーサーとの第三回會見。

 十七日、極東委員會(FEC)は、『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定を行ふ。これは、三月二十日の極東委員會(FEC)のなした『日本憲法に關する政策』において、「極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすると、既に成立したとする新憲法について事前審査がなされてをらず、それが果たして七月二日の『新日本憲法の基本諸原則』における「日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること」の要件からして、帝國議會の承認がこれに該當するのかについて、極東委員會が最終審査權による新憲法の承認又は不承認を判斷するためにも、日本國民に對し、その再檢討の機會を與へるべきであるとの見解を示した。アメリカは、帝國議會の承認がポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思」であるので、極東委員會において最終審査として承認されるべきとし、ソ連はこれに不承認として反對したことから、承認か不承認かを棚上げにする案として、占領憲法施行一年目から一年間(昭和二十三年五月三日から同二十四年五月二日までの間)に「再檢討」といふことになり、占領憲法は、極東委員會の最終審査を經ずに實施されることになつた。しかも、昭和二十一年十月七日に帝國議會で改正案が成立した十日後であり、公布前のこの時期になされた「再檢討」決定は、「憲法の權威を損なふ」との反對があり、マッカーサーも翌二十二年一月三日の書簡を以て吉田首相にも趣旨の異なる通知をしただけで、公表はされなかつた。ここでいふ「憲法の權威」とは、占領憲法が正統かつ正當な憲法であることを臣民に僞装することを維持することであり、「權威の假裝」の意味である。假裝が必要なのは、占領憲法が「日本國國民の自由に表明せる意思」に基づかないことが露見することを阻止しなければならないからである。この決定が公表されたのは、二・一ゼネストの中止命令がなされた萎縮效果も覺めやらぬ占領憲法施行直前の昭和二十二年三月二十日であつた(新聞報道は同月三十日)。

 同日、宮城前廣場で「生活權確保・吉田内閣打倒國民大會」が開催され、五十萬人が參加。ここで德田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。勞働者はストライキを以て、農民や市民は大衆闘爭を以て、斷固、吉田亡國内閣を打倒しなければならない。」と檄を飛ばした。

 十九日、樞密院の第一回審査委員會が開催。

 二十一日、農地調整法改正。自作農創設特別措置法公布(第二次農地改革開始)。

 二十二日、文部省は、ローマ字綴りに訓令式採用を決定。

 二十三日、文部省は、京大や高等師範での英才教育を廢止。

 二十九日、樞密院本會議で『修正憲法改正草案』を全會一致で可決(ただし缺席者二名)し、昭和天皇が憲法改正を裁可。公布の上諭文を閣議で決定。

 三十一日、公布の上諭文の上奏、裁可。その後、ケーディスは、政府に對し、獨自の英文原稿による公布の上諭文を交付。政府側が説明と説得を盡くした結果、ケーディスはホイットニーと協議した上でこれを撤回。

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