國體護持總論
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效力論學説の論理構造

ところで、これまで、占領憲法の效力論爭の樣相について、その基礎的な前提となる事柄のいくつかを述べてきたが、無效論と云つても、私見の無效論(眞正護憲論)以外にも、占領憲法が無效であるとする見解がいくつかあるし、有效論にも樣々な見解がある。そのため、無效論と有效論との論爭と云つても、その組み合はせを逐一示せば膨大になるので、とても紹介しきれない。それに、それぞれの見解の意味するところは必ずしも明確でなく、さながら「多岐亡羊」(列子)の看がある。

そこで、まづは、無效論と有效論の基本的構造を分類的に考察することにする。

まづ、雙方の效力論に共通する分類として、無效とし、あるいは有效とする時點について、それが制定ないしは施行の當初から(始源的)であるのか、事後から(後發的)であるのか、といふ區分がある。

有效論については、その雙方がある。それは、始源的有效論と後發的有效論である。そして、それぞれはさらに根據とする法理によつて諸説に分かれ、また、後發的有效論では、後發事實の評價、有效化する時期の判定などによつて諸説に分かれる。

では、無效論についてはどうかといふと、始源的無效論しかない。占領憲法制定當時に無效論を主張してゐた代表的な論者としては、井上孚麿、菅原裕、谷口雅春、森三十郎、相原良一、飯塚滋雄、飯田忠雄であるが、外にも、太田耕造(元・亞細亞大學學長)、澤田竹治郎(元・最高裁判所判事、元・日本辯護士連合會憲法審議委員長)などがゐた。現在でも小山常実その他の論者がゐる。

なほ、これらの學者以外にも、政治家の主張として、昭和二十八年十二月十一日の衆議院外務委員會における並木芳雄委員の發言(第九條無效論。同樣の主張として文獻334)、昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員會公聽會における大橋忠一議員の發言、そして、前述したとほり、昭和三十一年に内閣に憲法調査會を設置する法案の發議者として同年七月四日に參議院本會議において提案趣旨説明をなした清瀬一郎衆議院議員の發言、さらに、「文藝春秋」平成十一年九月特別号所収の自由黨黨首小澤一郎論文(「日本国憲法改正試案」)などあり、これらも舊無效論の範疇として認識しうるものである。

ただし、このうち、大橋忠一議員の發言内容に、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持つたもの」といふ表現があることからすると、この見解は次章で述べる講和條約説に近いものと考へることができる。


このやうな無效論については、その概念の形式的分類からすれば、後發的無效論がありうるが、實際は存在しない。しかし、これに關しては、菅原裕の『日本國憲法失效論』に言及する必要がある。これは、桑港條約の發效によつて占領憲法は失效するとの見解であり、桑港條約の發效を解除條件(すでに生じてゐる法律行爲の效力が成否不確實な將來の事實が成就することによつて喪失することとなる約款)とする見解である。ただし、菅原裕は、「日本國憲法」とは「憲法」ではなく、占領管理のための「法律」であるとし、憲法としては始源的に無效であるとの主張と思はれるので、後發的無效論ではない。

ところで、占領憲法の制定ないしは施行の時點(成立時)に限定して、效力の有無を論ずると、成立時に有效とする見解は、始源的有效論であり、成立時に無效とする見解は、始源的無效論と後發的有效論といふことになる。つまり、後發的有效論は、始源的無效論から出發し、後發的に有效となつたとする見解なのである。

では、これらの概觀を試みた上で、效力論の詳細を檢討することになるが、無效論の課題は、無效であるとしたら、これまで制定された法律、それによる取引や行政處分、裁判などが覆滅するのではないかといふ素朴で率直な疑問と不安にさらされることから、有效論とは異なつて、そのことを含めた綿密で多岐に亘つた立論が必要となる。

そのため、まづは、無效論の立論構造について、分類的に檢討を試みたい。

その分類方法はいくつか考へられるが、ここでは化學の構造式的な手法を採用することとする。

その分類の要素は次の四つである。

1 無效といふ意味が憲法のみならずその他の法令としてもすべてにおいて無效(無限定無效、絶對無效)であるか(要素A)、憲法としては無效であつてもその他の何らかの法令として成立を認め、あるいは有效である(限定無效、相對無效)と認めるのか(要素a)。
2 無效の程度と態樣において、それが確定的であり、その後の事情の變化や理由によつて有效になることはありえない(確定的無效)とするのか(要素B)、それとも無效は暫定的なものであり、 その後の事情の變化や理由によつて有效になることがありうる(不確定的無效)とするのか(要素b)。
3 無效であるといふことは、無效宣言などの何らかの國家行爲も必要とせずに無效(無條件無效)であるとするのか(要素C)、無效宣言などの何らかの國家行爲がなされて初めて無效(條件付無效)となるのか(要素c)。
4 無效宣言などの國家行爲がなされると否とを問はず、無效の效力とは成立時に遡及して初めから無效(遡及無效)であるとするのか(要素D)、あるいはその國家行爲がなされたときに、その時以降から無效になり、成立時まで遡及して無效とはならない(不遡及無效)とするのか(要素d)。

このうち、大文字と小文字の區別は、その樣相が、より端的かつ過激な方向を大文字とし、さうでない方向を小文字として相對的に決定した。

そこで、この分類により、代表的な無效論者について見てみると、
井上孚麿の構造式は[Abcd]、菅原裕の構造式は[aBCd]、相原良一の構造式は[ABCD]、小山常実の構造式は[aBcd]であると考へられるが、それぞれの論述に不明確な點があることと、管見の理解不足からか、この結論には餘り自信はないのでご容赦いただきたい。

井上孚麿[Abcd]は、絶對無效(要素A)を主張するものの、二次的には占領憲法は「占領基本法」にすぎない(要素a)とし、その立場が定かではない。しかし、これをあくまでも[要素A]と判斷したのは、占領憲法が憲法ではなく、法律もどきであると揶揄しただけで、嚴密な意味で法律であると主張したとは思はれないからである。現に、どのやうな理由で、憲法でないものが法律となつたのかの説明がないからである。このやうな事情は、菅原裕[aBCd]と小山常実[aBcd]についても同樣であり、なにゆゑに法律なのかの説明がなされてゐない。説明のないものは法的な立論として認めがたいので、これを「要素A」とすることも可能であるが、井上孚麿と比較して、菅原裕と小山常実は、法律であるとする點がより強調されてゐることから[要素a]と判斷したものの、この隘路にことさら深入りするつもりはないので、これ以上誤解を增幅させても有害無益であることから、ここでは私見の立場だけを明らかにしておきたい。

私見の構造式は[aBCD]であり、その立場に立つて、以下に先ほどの眞正護憲論(新無效論)の特徴に即して、その相違點について順次述べてみたい。

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