國體護持總論
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眞正護憲論の特徴その四

次に、第四の特徴は、「交戰權とは、宣戰大權、講和大權及び統帥大權が統合された權利であり、戰爭状態の終結を約した桑港條約、日華平和條約、日ソ共同宣言、日中共同聲明といふ各講和條約の締結と日華平和條約の破棄は、いづれも帝國憲法第十三條に基づくものであつて、交戰權が認められない占領憲法に基づくものではないこと、そして、これによつて帝國憲法は各講和條約の締結時點においても實效性を有してをり、今もなほ現存してゐる反面、占領憲法には今もなほその實效性がないことを眞正護憲論(新無效論)が明らかにしたこと。」である。

これは、帝國憲法の現存證明を果たしたといふ重要な意義を持つものである。これまで、占領憲法が無效であるか否かの議論に集中したものの、では、はたして帝國憲法は現存してゐると云へるのか、實效性を喪失してゐるのではないか、そして、占領憲法には實效性が備はつてゐるのではないか、との疑問に對し、舊無效論は全く答へてこなかつたが、眞正護憲論(新無效論)は、これらに正面から答へたことになる。

有效論によると、桑港條約の締結は、帝國憲法から主權の委讓を受け、あるいは、その他の何らかの根據により成立した占領憲法下の政府によつてなされたのであるから、内閣の條約締結權を定めた占領憲法第七十三條第三號に基づくものであるとする。それゆゑ、帝國憲法第十三條の講和大權に基づくものであるとする眞正護憲論(新無效論)の主張とは前提を異にするもので相容れないのではないかとの疑問が生ずるのも無理からぬところである。

しかし、内閣の權限は、國家の有する權限の範圍内のものであつて、占領憲法の豫定する國家の權限には、講和條約の締結權限はない。有效論が根據とする内閣の條約締結權とは、平時における一般の條約に關するものを意味するのであつて、講和條約の締結權を意味しないのである。

なぜならば、占領憲法第九條第一項で戰爭放棄を規定し、同條第二項後段には、「國の交戰權は、これを認めない。」とあるため、交戰權を有しない國家には、交戰(宣戰から講和まで)に關する一切の權限がないからである。

桑港條約第一條には、「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。連合國は、日本國及びその領水に對する日本國民の完全な主權を承認する。」として、同條約の效力發生日(昭和二十七年四月二十八日)までは、我が國には「完全な主權」がなく、隷屬状態(subject to)であり、未だ「戰爭状態」にあつたのである。

「戰爭状態」であるといふことは、戰爭は終結してゐないといふことであつて、交戰權のない國家がその終結のための戰爭講和をする權限もまた「交戰權」に含まれるのであるから、占領憲法を前提とすること自體に決定的な矛盾がある。また、戰爭を放棄した國家が、桑港條約によつて戰爭状態を肯定したことも大いなる矛盾である。

ところで、この「交戰權」の概念について、現在の議論では、廣義と狹義の區別があるとされる。廣義では、文字通り、「國家が戰爭を行へる權利」であり、帝國憲法第十三條の宣戰大權から講和大權に至るまでの一體的な權利であつて、いはば、戰爭の初めから終はりまで(宣戰から講和まで)を支配するものである。また、狹義では、「戰時において交戰當事國に與へられる國際法上の諸權利(船舶の臨檢・拿捕、貨物の没收など)」であり、この區別は古典期(皇紀二十三世紀、二十四世紀。西紀十七、十八世紀)の近代國際法以來の區別であつて、現在の國際法の用例では、交戰權(rights of belligerency)を狹義の意味として用ゐてゐるとの見解がある。

そして、政府のこれまでの見解は、占領憲法第九條第二項後段の「交戰權」は狹義の意味であるとする見解(狹義説)に立つてゐる。たとへば、昭和五十五年五月十五日の稻葉誠一衆議院議員の質問趣意書に對する答辯書における政府見解は、第九條第二項の交戰權とは、「戰いを交える權利という意味ではなく、交戰國が國際法上有する種々の權利の總稱」を言ふとされ、相手國領土の占領及び占領行政などを例示したのである。しかし、同條第一項の「戰爭放棄」は戰爭の事實及び權利の放棄(事實上の禁止と法律上の禁止)であつて、廣義の交戰權を放棄してゐると解釋されてきた。つまり、占領憲法第九條第二項の「交戰權」を廣義に解釋する見解(廣義説)はもちろんのこと、これを狹義に解釋する見解(狹義説)であつても同條第一項により廣義の交戰權も放棄したとされるのであるから、いづれの見解によつても、占領憲法は、廣義の交戰權を放棄してゐることには變はりはないのである。

ところで、これらの解釋論爭に關する本質的な問題を檢討するとすれば、この「交戰權」といふ用語は、後述するとほり、本來は政治用語であつて法律用語ではないことに留意せねばならないのである。廣義説とか狹義説といふ區分も、占領憲法の制定後に、憲法業者らが後付けで解釋論を展開した屁理屈である。といふのも、これまでの戰時國際法において、「交戰權」なる法律用語は存在してゐない。『戰爭抛棄ニ關スル條約』(不戰條約)にも、『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約』(ヘーグ條約)とその條約附屬書にも、「交戰權」(rights of belligerency)の用語はなく、ここにあるのは、「交戰者」、「交戰當事者」、「交戰國」、「交戰軍」の用語例だけである。「交戰權」の用語は一切なかつたのである。嚴密に言へば、「交戰權」(rights of belligerency)と「交戰國の權利」(belligerent rights)とは異なる。後者は、まさに「交戰國が國際法上有する種々の權利の總稱」(前掲政府答辯)であるが、これを前者の交戰權と同じであるとすることはできない。交戰權とは、「交戰國」となりうる權利(能力)であつて、その交戰權があることを前提として交戰國の權利が認められるといふ關係にある。つまり、交戰權がないといふことは、國際法上、戰爭行爲の主體としての國家としては認められないことを意味する。事實上の戰闘行爲がなされたとしても、それは國家の戰爭行爲(交戰)としては國際法上認められず、私人または私團體の「私戰」とみなされるといふことである。これに對して、交戰權があるが交戰國の權利がないといふことは、その戰爭は「私戰」ではなく「交戰」と認められるが、國際法上において、交戰國としての個々の權利行使として否定されることがあるといふことである。この相違は、いはゆる集團的自衞權で議論されてゐるやうに、自衞權としての權利があるか否かといふことと、自衞權としての權利はあるがその行使を認められるか否かといふ議論の立て方と同じことである。

それゆゑ、「交戰權」(rights of belligerency)の解釋をするについては、「交戰國の權利」に關する廣義説と狹義説の區分を用ゐることはできず、また、そのいづれかに限定されることもないのである。そもそも「交戰權」の概念は、その定義も内容も不明確なものであり、國際法上の概念としても確定してゐない。これを國際法上において、廣義説と狹義説とがあり、そのいづれかに限定されるといふのは、法匪の唱へる真赤なウソの主張である。「交戰權」といふのは、占領憲法に於いて初めて登場した「用語」であり、これについては素直な國語的解釋をすればよい。まさに「宣戰を告知して交戰を開始し、個々の戰闘を繼續または停止して交戰を終結させ、講和の締結に至るまでの一連の國家的行爲(戰爭を用ゐた廣義の外交行為)をなしうる一切の權利」のことであると率直に理解すればよいのである。そもそも、憲法の用語解釋は、憲法学者(憲法解釋業者)に獨占された專權事項ではない。憲法の權威者であると自惚れてゐる者たちのみで構成された「閉鎖社會」にだけ憲法解釋の特權が與へられ、その特殊で難解な用語解釋に一般の人々がすべて拘束され、國家の意志もこれに從はなければならないとすれば、そのやうなこと自體が「憲法違反」の解釋に他ならないことは多言を要しない。

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