國體護持總論
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時效有效説

「時效」といふ法理を以て、無效な占領憲法が事後に有效となるとする見解(時效有效説)を唱へる者も多い。その中の代表的な見解として八木秀次の「時效有效説」がある。

「自由主義史觀研究會」のホームページに、平成十四年度「特別出張ゼミナールの記録」として、藤岡信勝代表の司會進行により、『明治憲法の思想』といふ演題で八木秀次(當時・高崎經濟大學助教授)が語つた内容が掲載されてをり、時效有效説が端的に語られてゐるので、その部分を以下に引用する。

(藤岡) 公民の教科書でも巻末で日本国憲法全文が載っていますが、重要なことが省かれています。明治憲法を改正するために大臣が連署して、最後に御名御璽が入った前書きがあるのですけれど、これを絶対に載せない。前書きを載せると、手続き的には大日本帝国憲法の改正として今の憲法がつくられたことがハッキリして、八月革命説が破綻してしまう。ポツダム宣言の受諾が革命だというフィクションが崩れないようにしているのだと思います。
 今の憲法改正論議の一つの考え方として、渡部昇一さんが「占領下につくられた憲法、教育基本法は主権がない時につくったものだから全て無効だ。無効宣言をして新たにつくり直すべきだ」という議論をしています。
 確かに占領軍がやったという点ではもっともだが、手続き的には成り立たない。そういう方法と、やはり憲法改正の手続きに従うのと、二つ路線があると思います。このあたりは八木先生は実践的にはどのようにお考えですか。
(八木) 極めて難しい問題ですが、無効論という考え方はかねてからあります。主権回復直後であれば極めて有効な論理でしたが、法律には時効という考え方があり、そこからもう五十年経っています。
 普通、時効というのは二十年です。五十年の間に日本国民が現行憲法に一度も「ノー」と言わなかったということにおいて、これを承諾したという理屈が成り立つわけです。ですから、渡部先生の意見には溜飲が下がる思いですが、理屈から言うと難しい気がします。

これは、つまるところ、民法に規定する所有權の取得時效である二十年を經過したので、占領憲法は所有權(憲法としての地位)を取得するといふことであらう。しかし、第一章で述べたとほり、規範國體の護持のために時效理論は存在するものであつて、占領下における奇胎の占領憲法が施行された六十年程度の時間と、我が國の悠久の歴史と傳統とを比較して、奇胎の六十年の方に重きを置くといふ時效有效説は、恐ろしく無知な本末轉倒の謬説であり、「似非時效論」である。時效の意味が解つてをらず、民法レベルの時效期間を國法學のレベルにそのまま持ち込む暴論でもある。このやうな論者は、ハーメルンの笛吹き男であり、國體破壞者に他ならない。

いづれにせよ、この時效有效説に對する反論は、「事實の規範力」と「原状回復論」のところで述べたとほりである。時效の法理により悠久の歴史と傳統によつて育まれた規範國體が既に確立してゐるにもかかはらず、これと相反する事實がほんの一時期に反復累積されたことを根據として、これに規範國體としての妥当性と実效性を肯定し、規範國體を改變させる效力を認めることなどは到底できない。占領憲法には憲法としての妥當性を缺き、暴力的に構築された法制度のままで原状回復がなされない状態での時間の經過に、憲法としての規範創造の效力はないのである。

さらに附言すれば、そもそも、私人の所有權の時效といふ議論と、國家の根幹である憲法の時效といふ議論を同列かつ一律に論ずることのできる論理は、何を根據とするものか。また、その時效期間は二十年なのか、それとも五十年なのか、どのやうな根據で定められるのか。等々、議論することも幼稚すぎて憚るものがある。ところが、では時效中斷とか、時效完成後の時效利益の放棄といふことについてはどうなのか、といふやうな突込みを入れたくなる衝動も出てくるが、それを尋ねてもおそらくまともな答へは出てこないだらう。

また、假に、「憲法の時效」を議論するとしても、あくまでも「憲法」としての「妥當性」のあるものが「實效性」を具備するに足りる事實の集積とその時間的經過に着目するのであつて、そもそも憲法としての「妥當性」を有しない規範が時效による「實效性」を具備したとしても「妥當性」まで具備するものではない。これは、所有權の取得時效で例へれば、所有の意思を有する占有(自主占有)ではなく、所有の意思を有しない占有(他主占有。たとへば賃借の意思による占有)の繼續では永遠に所有權を時效取得することはない。自主占有(憲法適格性)でない他主占有(講和條約適格性)の繼續は、賃借權その他主占有に對應する權利(講和條約)の時效取得が可能となるにすぎないのである。

完全獨立時において自發的かつ自主的に帝國憲法を改正したが、その手續に輕微な違背があつた場合、この程度の輕微な瑕疵だけでは妥當性を缺くことはないので、時間的經過によつてその瑕疵が治癒されて實效性が付與されるとするのが本來の時效の論理である。しかし、占領下で非獨立時代に、GHQの強制で制定されたものは、自發的かつ自主的なものではない。それゆゑ、占領憲法は、「他主占有」に匹敵する講和條約の性質であり、講和條約(東京條約、占領憲法條約)として時效の論理によつて認められるといふのであればまだしも、これを「自主占有」に匹敵する「憲法」としての適格を有するものとして認められるといふのは、時效の論理による立論ではなく、似非時效の詭辯である。贋作はいつまで經つても贋作であり、僞札はいつまで經つても僞札である。また、同じ嘘を百回言つたとしてもそれが本當になることはない。これは根本的に妥當性を缺くためであり、時效の論理の射程範圍外のことである。

そして、このやうな似非時效の言説を聞いて、妙に納得してしまふ風潮が誠におぞましい限りである。やはり「蚤の曲藝」に馴らされてゐるからである。我々は、「ハーメルンの笛吹き男」のやうな似非保守によつて驅除される「ネズミ」になつてはならない。この男は、町の人が謝禮の金品を呉れないので、國體護持の擔ひ手となる臣民の子供達を誘拐してしまつた身代金誘拐犯であつて、我々は、こんな「ほら吹き男」による似非時效説を唱へる似非保守を斷固として糾彈し排除しなければならないのである。

なほ、ここには、「五十年の間に日本国民が現行憲法に一度も『ノー』と言わなかったということにおいて、これを承諾したという理屈が成り立つわけです。」といふ發言もある。これは、時效有效説の外に、法定追認有效説なども主張してゐるかのやうであるが、一體、現行の法制度において、占領憲法に「ノー」と言ふことができる時效中断に關する正規の法的手續があるといふのか。是非ともご教授願ひたいものである。もし、それがなければ、時效中斷の手續と方法もない時效制度はありえないので、時效は永遠に完成しないことになり、時效有效説は成り立ちえないことになる。

つまり、第一章でも述べたが、時效によつて不利益を受ける者が、時效を中斷してその權利の回復を求めることを不可能ならしめるやうな天災その他避けることのできない事變などの障害があるときは、その障害が消滅した後から相當期間が經過するまでは時效は停止したままで完成しないのである(時效の停止。民法第百五十八条ないし第百六十一條參照)。そのことからすれば、占領憲法が憲法としての合法性と正統性があるか否かについて、占領憲法によつて成立した政府自身が、これまでの帝國憲法改正の審議經過の全容を官報などにより全國民に明らかにし、教育機關においてもその事實を踏まへての教育を徹底するなど、その詳細な説明を盡くしてゐない状態が現在まで續いてゐることからして、未だに時效の停止状態にあり、時效が完成してゐるはずはない。これらについての詳細な説明もせず、詭辨を弄して安易に時效が完成したなどとして占領憲法を有效であるとする見解は、やはり第一級國賊の言説である。

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