國體護持總論
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尖閣諸島

尖閣諸島は、魚釣島、久場島(黄尾嶼)、大正島(久米赤島、赤尾嶼)、北小島、南小島、飛瀬、沖の北岩、沖の南岩でなる島嶼群であるが、この尖閣諸島の領有權問題とは、我が國が「繼續的かつ平和的」に實效支配してゐる尖閣諸島について、昭和四十六年に天然資源が發見されるや、中華民國(臺灣)と中共が突如、自國に領有權があると主張してきた問題のことである。これに對して、政府は、「領有權問題は存在しない」との態度を示してゐることは當然のことではあるが、それは建前だけで、臺灣及び中共に對する毅然とした外交姿勢がとられずに、尖閣諸島に不法上陸する外國人犯罪などに對しても尻込みと腰碎けの對應がなされてゐることから、この問題をより複雜にしてゐる。

しかし、尖閣諸島の領有權が我が國に歸屬してゐることは、前掲パルマス島事件の判決要旨の基準からして明らかであり、それは次の根據に基づく。

それは、まづ、「發見」とそれに引き續く平穩なる「先占」があり、その後も、「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」がなされてゐることから、明確な領有權原があることに盡きるのである。

明治政府は、明治五年に琉球王國を廢止して琉球藩を設置し、明治七年の臺灣出兵を經て、明治十二年に、軍隊と警官を派遣して琉球藩の廢止を宣言し、鹿兒島縣に編入して實效支配を確立した。これを「琉球處分」といふが、我が政府は、このころから尖閣諸島に對する領有の意志を持ちはじめた。そして、明治十八年から尖閣諸島の支配状況を再三に亘つて調査し、この島嶼がいづれの國の支配にも屬していないこと、特に清國の支配する痕跡がないことを確認した上で、明治二十八年一月十四日、國標杭を建設して明認することを閣議決定し、それを實施して沖繩縣に編入した。そして、入植が始まり、明治二十九年九月に、島嶼を民間へ三十年間無料貸與をなし、その後は一年契約の有料貸與とし、昭和七年には民間に拂下げをなした。島嶼では、アホウドリの羽毛やグァノ(海鳥糞)を採取したり、海鳥の剥製を製作し、さらに、鰹節の製造などの産業活動が行はれた。特に鰹節の製造は基幹産業となつた。ところが、その後鰹節製造は海外との價格競爭のために經營が惡化し、鰹節工場は閉鎖されて昭和十五年に無人化したが、その後も實效支配は繼續した。

そして、明治二十八年四月十七日、日清戰爭の講和條約である『日清兩國講和條約(下關條約)』(明治二十八年五月十三日敕令)により、「臺灣全島及其ノ附屬島嶼」を「永遠日本國ニ割與ス」として、臺灣と澎湖諸島の割讓を受けたが、この割讓を受けた「附屬島嶼」の中には、我が國が既に領有してゐた尖閣諸島を含まないことは日清雙方の當然の認識であつた。

現在、石垣市役所に保管されてゐる資料には、大正八年の冬、魚釣島に遭難漂着した中華民國の福建省惠安縣の漁民三十一人を石垣村の職員が救出して本國に歸還させたことに對して中華民國駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)が贈つた大正九年(中華民國九年)五月二十日付の『感謝状』がある。これによれば、魚釣島のことを「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島内和洋島」と表記して、中華民國政府としても尖閣諸島が我が國の領有であることを認めてゐた。

その後、大東亞戰爭後において、一時的に、沖繩縣が、本土とは異なつて連合國(アメリカ)の直接的占領統治(直接管理)下に置かれたが、アメリカは、その當初から一貫して尖閣諸島は沖繩縣の一部として直接占領をなした。カイロ宣言(米英中共同聲明)には、「同盟國の目的は、千九百十四年の第一次世界戰爭の開始以後に日本國が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本國から剥奪すること、竝びに滿洲、臺灣及び澎湖島のような日本國が清國人から盜取したすべての地域を中華民國に返還することにある。」とあつたが、これはカイロ宣言自體が不成立のため無效であり、これを引用したポツダム宣言においてもその效力は認められない。しかも、これを前提としても尖閣諸島は返還される領域に含まれてゐない。また、最終講和である桑港條約第二條には、臺灣と澎湖諸島を放棄することとなつてをり、これにも尖閣諸島は含まれてゐない。

大東亞戰爭の末期である昭和二十年三月末から、アメリカ軍は沖繩諸島の各地に上陸を開始し、同年四月一日には沖繩本島に上陸して、皇軍部隊との地上戰を繰り廣げた(沖繩戰)。そして、アメリカ軍は上陸時において、沖繩の占領地軍政機關として琉球列島米國軍政府を設立した。これは、本土に對する原則的な間接占領統治に先立つたもので、アメリカによる沖繩縣に對する直接占領統治の始まりである。これは、まさに「征服」である。アメリカの建國は、インディアンの現住性を否定して「征服」することにあつた。つまり、アメリカは、「征服」を領有權原として建國された國家であり、「征服」の領有權原を否定すると建國自體が否定されることになる。しかし、アメリカは沖繩について、「征服」を領有權原として主張することもできたが、その主張をしなかつた。

そして、我が國が降伏停戰後の昭和二十一年六月二十九日に、GHQは、尖閣諸島を含む沖繩縣その他の領域について、我が國がこれらを領有してゐることを前提として、間接占領統治とは分離される直接占領統治の領域を明確に區分して分離するために『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』(SCAPIN677)により指令したことに對し、我が政府は、「南西諸島觀」を提出し、その南西諸島一覽表には、赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣島の島名を表示して尖閣諸島を沖繩縣に含めて回答し、GHQはこれを承認した。このことにより、GHQは、我が國の實效支配を承繼したことになる。そして、『群島政府組織法』(米國軍政府布令第二十二條)と、琉球政府樹立の根據法である『琉球政府章典』(米國民政府布令第六十八號)、それに、奄美諸島の返還に伴ひ米國の直接占領統治下の琉球列島の地理的境界を再指定する『琉球列島の地理的境界』(米國民政府布告第二十七號)のいづれにおいても、一貫して尖閣諸島を含む沖繩縣を統治區域内に含めて實效支配を繼續してきた。

尖閣諸島の具體的な直接占領統治の態樣としては、昭和二十六年に、久場島と大正島に米海軍の爆撃演習海域が設定され、同時に久場島は特別演習地域に指定された。また、大正島も昭和三十一年四月に演習地域に指定された。久場島は、私人の所有地であつたことから、米國民政府は、昭和三十三年七月、琉球政府を代理人として、該所有者との間で賃貸借契約を結び、賃借料を支拂つた。また、それ以前から、魚釣島他四島についても同私人の所有地であつたことから、賃貸借契約を締結した。

そして、昭和四十七年の『琉球諸島及び大東諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定(沖繩返還協定)』(昭和四十七年條約第二號)でも、返還領域に尖閣諸島は當然に含まれてをり、同協定が合意された際の議事録は、「同協定によつて日本に返還される領域とは、對日平和條約第三條に基づき米國施政下にある領土であつて、米國民政府布告第二十七號に指定される地域である」とされてゐた。これによつて、我が國は、尖閣諸島を含む沖繩縣の實效支配をアメリカから再承繼したのである。

前にも述べたとほり、尖閣諸島を含む沖繩縣は、本土よりも早く連合國(アメリカ)の直接占領統治下に置かれ、最終的には沖繩返還協定によつて返還を受けたのであるから、これは一種の「割讓」であり、これもまた我が國が援用しうる領有權原となる。百歩讓歩したとしても、尖閣諸島は「歸屬係爭地(領有競合地)」といふことになる。これは、明治八年の『樺太・千島交換條約』締結前の樺太が我が國と帝政ロシアとの境界不確定といふ「歸屬係爭地(領有競合地)」であつたのを帝政ロシアの單獨領有として確定させたことと同趣旨の事例である。しかも、尖閣諸島の場合は、樺太の場合のやうに當事國の「合意(條約)による割讓」ではなく、第三國(戰勝國たる連合國)が講和に際して敗戰國の領有地の範圍を「裁定」したことに基づいて確定させたのであるから、當事國間の條約と同等以上の效力を認めなければならない。いはば、「合意による割讓」と連合國の「裁定による割讓」とは、國際法上同等の效力が認められることになる。それゆゑ、この「裁定」に對し、連合國の一員である中華民國(臺灣)とその國家承繼として國連安保理常任理事國の地位を承繼して連合國の一員となつたとする中共は、連合國のなした處分に異議を唱へることはできない。從つて、これによつて連合國による「尖閣諸島處分」は確定したのである。

また、桑港條約の發效日と同日である昭和二十七年四月二十八日の『日華平和條約』を調印した際も、中華民國(臺灣)は、尖閣諸島の領有權に關する異議を出さなかつたし、中共もまた、翌二十八年一月八日の『人民日報』において、尖閣諸島が琉球群島を構成する一部であるとして我が國の領有を認め、その後の中華民國(臺灣)及び中共が發行する地圖にも尖閣諸島は日本領であると明記してゐた。

ところが、尖閣諸島の領域に海底の莫大な埋蔵資源があることが判明するや、昭和四十六年六月十七日の沖繩返還協定の署名を間近に控へた同月十一日に、中華民國(臺灣)は、外交部聲明といふ形式で初めて尖閣諸島の領有權を主張し始め、同年十二月三十日には、中共も同樣に外交部聲明といふ形式で尖閣諸島の領有權を主張し始めた。しかし、このことは、我が國の領有權原に些かの影響ももたらさない。それは、歴史と沿革を根據とするものであるが、我が國としては、これらは時效の抗辯で對抗しうる性質のものであり、前掲パルマス島事件の判決要旨の③④⑤⑥に照らしても何らの根據もないのである。

なほ、このことは、沖繩(琉球)の領有についても同じことが云へる。假に、「琉球處分」は一方的な領有の宣言であり、それ以前の琉球は、我が國と清國との「領有競合地」であるとしても、『下關條約』では、沖繩が我が國の領有であることを前提としてなされたものであり、無效なカイロ宣言においても、「同盟國の目的は、千九百十四年の第一次世界戰爭の開始以後に日本國が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本國から剥奪すること、竝びに滿洲、臺灣及び澎湖島のような日本國が清國人から盜取したすべての地域を中華民國に返還することにある。」とするだけで、琉球處分はその對象とはならず、桑港條約でも問題にはならなかつた。ましてや、沖繩返還協定の前後において、中華民國(臺灣)と中共が尖閣諸島のみの領有問題を提起したことは、「琉球處分」の效力を認めることを前提としてゐるからである。

昭和四十七年五月に外務省情報文化局が作成した『尖閣諸島について』の中に、「中國側が尖閣諸島を自國の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和條約第三條に基づいて米國の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事實(昭和二十八年十二月二十五日の米國民政府布告第二十七號により緯度、經度で示されています)に對して、從來なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみならず、先に述べましたように、中國側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和四十五年(一九七〇年)以後はじめて、同諸島の領有權を問題にし始めたにすぎないのです。現に、臺灣の國防研究院と中國地學研究所が出版した『世界地圖集第一冊東亞諸國』(一九六五年十月初版)、および中華民國の國定教科書『國民中學地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)においては、尖閣諸島は明らかにわが國の領土として扱われています(これらの地圖集および教科書は、昨年に入ってから中華民國政府により回收され、尖閣諸島を中華民國の領土とした改正版が出版されています)(別添2)。また、北京の地圖出版社が出版した『世界地圖集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。」と明記してゐる。

從つて、「琉球處分」は勿論のこと、「尖閣諸島處分」もまた有效であり、領土權問題は存在しないとする我が政府の見解は正當である。

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