國體護持總論
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著書紹介

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國家神道について

國家神道は、バチカンが聖書の解釋權を獨占した如く、國家が古事記の解釋を行ふ權限を獨占し、これ以外の解釋を邪教、國家反逆、不敬罪として彈壓した。

しかし、バチカンのやうに、ニカエア、クレルモン、コンスタンツ、トリエント、ラテラノなどの數多くの「公會議」で、聖書解釋上の異端を頻繁に排除し續けなければ、宗教的權威を維持しえなかつたといふ歴史を踏まへ、國家神道を推進する明治政府は、古事記の解釋すら許さないとする極度の教條主義を徹底させ、宗教會議自體を否定し、それを國家神道の走狗となつた多くの神官に命じた。これらの走狗神官もまた、これに從ふことで自己の地位を安泰にすることができた。

そして、この古事記解釋の禁止を犯し、大東亞戰爭の世界性と普遍性を古事記の世界性と普遍性の中から導かうとの壮大な試みの一つであつた「大本」が、當時の國家神道にとつては最大・最強の敵であつたため、政府は、信長による比叡山の燒き討ちや一向宗門徒の根絶やし殺戮と比肩されうる「大本」の壞滅的彈壓を二度に亘つて斷行したことは周知の事實である。

また、このやうな古事記解釋の禁止といふ政策に加へて、明治末期から大正初期にかけて推進された、いはゆる「神社合祀」と稱される政府・地方官主導の神社合併政策は、結果的には國家の神社神道に對する不當な干渉を許し、國家神道といふ「神社神道彈壓」の道を切り開く結果となつた。一般には、國家神道への道は、他の宗教に對する彈壓であるかのやうに安易な説明がなされてはゐるが、實際には、「神道は宗教にあらず」として國家神道との併存を肯定する限りにおいて信教の自由が認められてゐた他宗教とは異なり、神社神道は、「神道は宗教にあらず」としてその宗教性自體が否定され、神社そのものが國家や地方官の管理下となつた點において、完全なる存立否定がなされたのであつて、最大の彈壓對象が「神社」であつたことは紛れもない事實なのである。そして、この強制的な神社合祀政策は、境内地等が所定の規模に達しない小さな神社を全て廢し、その御神體を近隣にある相當程度の規模の神社へと合祀するといふものであつて、全國で約二十萬社あつた神社を半減させたといふすさまじいものであり、南方熊楠や柳田國男などはこれに強硬に反對したのであつた。

ともあれ、國家神道は、このやうに、「古事記解釋の禁止」と「神社合祀の強制」といふ二つの政策によつて推進されてきた「國家による神道彈壓」のことであつて、決して「國家による神道擁護」ではない。そして、明治十五年一月には、官國幣社の神職が教導職を兼補することとなり、葬儀に關與してはならないことになつて、神社固有有の布教、婚禮、葬儀、祈祷などの宗教行爲が禁止され、神社神道の非宗教化を推進させる。宗教から宗教性を剥奪する。しかも、宗教化してきた神道が、本來あるべき姿としての「祭祀」へと本格的に復活することも許されない。これ以上の彈壓は世界にも類例がない。

しかし、國家神道は、正確に云へば、決して明治から始まつたものではない。平安中期の延喜式からと云つても過言ではない。神道からその中心的な祖先祭祀を拔き取つて宗教化し、古事記、日本書紀にはない神格、社格を時の權力が決定すること、人が神(かみ)と社(やしろ)を格付けすること自體の傲慢さがある。その傲慢さが明治政府に受け繼がれ、祭祀を疎かにしながらも「神道は宗教にあらず」との神道非宗教論による公權的解釋によつて、教派神道以外の神社神道を他の宗教の上位に位置づけことを國家神道と云ふのである。非宗教とするために國家神道には宗教的教義が希薄であり、その活動態樣は、參拜儀禮と祭禮などの實踐が中心となつた。神祇官、神祇省、式部寮、教部省、文部省、大教院、内務省神社局、神祇院と、神道を含む宗教の所管は目まぐるしく變遷したが、官國弊社を所管して、新たな造營には公金を投入し、村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行はれるなどの國家管理がなされてきたのである。これは、神道が國教となつたのではなく、その實態は、國家による神社神道と統制と彈壓に他ならないのである。

その意味では、GHQがいはゆる神道指令(國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督竝ニ弘布ノ廢止ニ關スル件)において、國家神道を「非宗教的ナル國家的祭祀」であると定義したことは國家神道の性格を把握するものとして正しく理解してゐたものと云へる。それは、神道指令(資料二十九)の一(ハ)には、「神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ禮式ニ於テ軍國主義的乃至過激ナル國家主義的『イデオロギー』ノ如何ナル宣傳、弘布モ之ヲ禁止スル而シテカカル行爲ノ即刻ノ停止ヲ命ズル神道ニ限ラズ他ノ如何ナル宗教、信仰、宗派、信條或ハ哲學ニ於テモ叙上ノ『イデオロギー』ノ宣傳、弘布ハ勿論之ヲ禁止シカカル行爲ノ即刻ノ停止ヲ命ズル」とし、同二(ハ)には、「本指令ノ中ニテ意味スル國家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト區別セラレタル神道ノ一派即チ國家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル國家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(國家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」としてゐたからである。

つまり、祭禮、儀禮的參拜などを「非宗教的ナル國家的祭祀」と認識し、その祭禮や儀禮的參拜などの實踐行爲を排除することに主眼があつたのである。これは、「非宗教的ナル・・神道ノ一派」、つまり「非宗教的宗教」といふ矛盾した概念なのであるが、「(國家)神道は宗教にあらず」とする見解の矛盾と同じであり、我が國がこれを矛盾であると非難することはできないはずである。GHQは、キリスト教的信仰と比較して、信仰といふ内面が形骸化し、祭禮、儀禮的參拜などの形式的實踐を重んじるものを「宗教」と認識できなかつたのである。しかし、「非宗教的ナル國家的祭祀」が「祭祀」でないことについては第一章で述べたとほりであるが、神道指令は、神道の否定だけではなく、人類にとつて必要不可缺なものである祭祀自體をも否定するに至つたことが最大の問題であつた。つまり、國家神道の否定ではなく、神道國家、祭祀國家それ自體を否定したのである。

ところで、戰前において、この「神道は宗教にあらず」とする國家神道の「理念」を逆手に取り、この傾向に拍車をかけたのが、この方向によつて莫大な「宗教利權」を見出した眞宗教團(特に西本願寺)やキリスト教教團などの宗教團體による迎合運動である。神社神道から宗教性を奪ひ、神社の維持運營を財政的に支へてきた婚禮、葬儀などの宗教行爲を奪つて、これを自らの「獨占事業」とするために神道彈壓に加擔した。今もなほ、「死人を餌にして飯を食らふ」などとして揶揄される「葬式宗教」、「婚禮宗教」の源流がここにある。「神祇不拜」と稱して祭祀を蔑ろにし、「進者往生極樂、退者無間地獄」と唱へさせた一向一揆によつて門徒を死に追ひ遣り公然と殺生をなした歴史を持ち、被差別部落の人に、文盲であつたことを逆手にとつて、「畜生」の文字を分解して「玄田牛一」といふ露骨な差別戒名を平然と付けて戒名代を支拂はせ、供養料をも徴收してきた素性を持つ眞宗教團などを含め、このやうに宗教利權を漁り續けて神道彈壓に加擔した多くの教團には、現在に至るも眞摯な自己批判はない。これは、マスメディアがGHQに迎合した歴史について自己批判をしないのと同じである。そして、「神道指令」は、國家神道政策(神社神道彈壓政策)によつて宗教利權を獲得した「加害者」の教團が、あたかも「被害者」であるかの如く取り扱はれ、それを奇貨として平然と二重の利得を得た敗戰利得者なのである。國家神道思想によつて侵略戰爭を行つたとするGHQの「幻想」(新田均)を生み出す原因を作つた張本人である最大の加害者である教團がGHQから保護され、最大の被害者である神社を攻撃し續けてゐるのである。

それゆゑ、眞の意味での國家神道からの解放は、これらの加害者教團の假面を剥ぎ取り、たどりきた道を戻り、古事記の解釋解禁と神社の祭神分靈の實現にあると斷言できる。

ともあれ、前にも述べたが、靖國神社の根源には、禁門の變で朝敵となつた長州が鳥羽・伏見の戰ひ以降は官軍へと轉じ、これとは逆に、會津が禁門の變では官軍であつたのが鳥羽伏見の戰ひ以降は賊軍へと陷れられた捻れ現象がある。會津藩主松平容保は、孝明天皇の信任篤く錦旗を拜領した尊皇の士でありながら、薩長らの權謀術數により朝敵の恥辱にまみれた。戊辰戰爭で斃れた奥羽越列藩同盟諸藩の志士も然りである。

靖國に祀られる英靈は、嘉永六年以降の殉難者であつて、それ以前の悠久の歴史における皇國の英靈は祭神とはされてゐない。我が祖國の行く末を憂ひ、尊皇と國體護持に身命を捧げた殉難者は、嘉永六年以降においても、靖國に祀られる英靈はそのごく一部にすぎない。賊軍の汚名を着せられた多くの英靈がある。

それは、鳥羽・伏見の戰ひで錦旗に恭順して斃れた會津藩らの幕軍、上野戰爭で斃れた彰義隊、長岡藩、會津藩ら奥羽越列藩同盟の戰ひ、さらに函館戰爭に至る戊辰戰爭で薩長の不條理に抗して尊皇の大義に殉じた多くの人々、それに、西郷隆盛をはじめとする西南戰爭の薩軍將兵などである。

つまり、靖國神社は、歴史的に見ても、嘉永六年から大東亞戰爭敗戰までの約百年間といふ極めて短い時期におけるほんの一部の英靈を祀るものであつて、白村江や元寇など、肇國以來の悠久の歴史における全ての「防人」を祀る神社ではない。

戰後の靖國神社は、昭和二十七年四月の戰傷病者戰没者遺族等援護法と恩給法によつて政府から送付される祭神名票と、靈璽簿奉安殿にある靈璽簿とは不可分なものとして運營され、同年九月に宗教法人化された。いはば、「國家神道の民營化」である。

將來において、我が國の戰爭は、大東亞戰爭が最後であるとは言ひ切れない。すでに前項で述べたとほり、少なくとも占領憲法を有效とする限り、將來の戰爭における英靈を占領憲法下の國家は唾棄し續けることになる。否、占領憲法下では英靈は存在しえないといふことである。

そして、これまでの祭神は、恩給等の受給資格との連動性があつたが、將來の戰爭における殉難者が靖國神社の祭神となるか否かは別問題であつて、占領憲法下の祭神と過去の祭神とは全く異質なものとなつて斷絶してしまふ。


今、いはゆるA級戰犯の分祀問題についても、靖國神社が分祀を拒絶した結論は評價できるとしても、その理由には疑問がある。靖國神社の見解は、假に「分祀」したとしても「分靈」はできないとしてゐる。しかし、この問題の政治的な觀點はさて置き、神道の教學における「分靈分祀不能」の説明には納得ができない。これは、國家神道政策によつて神社合祀を強制した政府が、合祀により廢社された神社の復元運動を阻止するために編み出した論理そのものである。「物」の世界ならば、添附(民法第二百四十七條)によつて物の獨立性が消滅することはありえるが、「神」の世界では神格は合祀がなされても常に獨立してをり、合祀したことにより神格が消滅して「久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよへる)」といふやうなカオスの状態になるはずはない。合祀された祭神を蝋燭の燈明に喩へて分靈分祀を否定するのは、唯物論者の戲言に過ぎず、このやうな見解は、「神」を「物」と同視する暴論であつて、ここにも國家神道の歪みが殘つてゐる。このやうに、國家神道による古事記の教條主義と薩長史觀による靖國神社の教條主義とは同根であると言へる。

明治政府は、王政復古と祭政一致を實現するため、神祇官を再興させ、これまで神佛習合を否定して神道を佛教から獨立させる慶應四年三月の神佛判然令などによる一連の神佛分離政策を推進した。「神佛分離」は可能で、「神神分離」(分靈分祀)が不可能であるとする理由はあり得ないので、この意味からしても分靈分祀不能の教學は破綻してゐることになる。

ともあれ、神佛分離政策が國家神道への第一歩となつた。しかし、明治國家建設のためには、神道の國教化を圖るために神社神道を體系統一化するといふ制度の構築よりも、尊皇教育の徹底こそが要諦であつた。幕末における尊皇思想の確立は、決して神社神道の影響ではなく、幼少から培つた樣々な教育にあることの自覺があれば、經綸の要諦は、制度構築といふハード面もさることながら、尊皇教育といふソフト面が最も重要であることを當然に氣付いたはずである。

そのことを最も自覺してゐたのが南洲西郷吉之助隆盛(本名・隆永)であつたが、この維新回天の創業は、明治六年政變で挫折した。隆盛は、武力による征韓論に決して與せず、道義國家の再生を目指し、江藤新平、板垣退助、副島種臣らの征韓論者の暴走を抑制して、朝鮮使節として自らを派遣させるといふ見解(遣韓論)で廟議を決し、その内敕を得て執奏されることになつてゐた。ところが、それまでに征韓論を唱へる江藤らが、數々の汚職事件、職權濫用事件などを犯した井上馨、山縣有朋らの惡事を暴き、それを容認し續けてきた長州閥(汚官派)を追放寸前にまで追ひ込んでゐたことから、これに危機感を抱いた汚官派と、何の成果も得られずに維新創業の最も重要な時期に職務放棄して單なる物見遊山だけをして歸朝した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら歐米使節團(外遊派)とが結託し、權謀術數の限りを盡くして先の裁可を覆して隆盛を追ひ落し、汚職事件等を隱蔽して有司專制を實現するために仕組んだのがこの政變である。

隆盛は、「もう一度、維新をやり直さなければならない」と言つて汚官派の放逐を決意し、「萬民の上に位する者、己を謹み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し」、「然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戰もひとへに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目なきぞ」(文獻77)と述べてゐた。

そして、戊辰戰爭における會津藩や奥羽越列藩同盟の各藩の義擧を凌駕するだけの國家道義の確立による維新回天を達成できなかつたことを胸に刻み、その非力を詫びながら、隆盛は、城山において、嚴然と端座し禁闕を遙拜して瞑没したのである。

その後の薩長政府は、戊辰戰爭の佐幕軍も西南戰爭の薩軍も、さらには、明治六年政變から西南戰爭に至るまでの佐賀の亂、神風連の亂、萩の亂などの叛亂軍も、すべて盡忠報國の尊皇の志士であつたにもかかはらず、これらを賊軍としなければ自己の正當性が維持できないといふ歪んだ尊皇思想に支配された。尊皇思想は薩長政府のみが獨占し、それ以外のものは賊軍であるといふ二元圖式にし、戊辰戰爭と西南戰爭などの眞相も、さらに、後ろめたさの餘り吉田松陰の思想も危險視して公教育から遠ざけたため、道義教育を基礎とする眞の尊皇教育の推進は大幅に遲れ、明治二十三年になつてやうやくその根幹となる教育敕語が發布されたに過ぎない。

ともあれ、明治五年に楠木正成を祀る湊川神社が別格官幣社として創立され、明治七年には和氣清麻呂を祀る護王神社が別格官幣社となつて、尊皇教育の基軸となるべき神社ができた。しかし、あくまでも別格官幣社といふのは、功臣を祀ることに主眼が置かれ、尊皇教育の基軸といふ明確な目的で決められたものではない。そして、西南戰爭が終はり、明治十二年になつてから、東京招魂社が別格官幣社の靖國神社となつたが、その後の實質的な機能は、戰死した軍人軍屬、特に恩給受給者として認定された殉難者をご祭神とする神社へと變容した。

講和條約が發效した日の二日後である昭和二十七年四月三十日に、『戰傷病者戰没者遺族等援護法』、『恩給法(軍人恩給法)』が成立し、準軍屬の概念を廣げ、沖繩戰での戰闘參加者、戰闘協力者らを「公務死」として認定することになつた。そして、同年九月に靖國神社が宗教法人となつた後も、厚生省引揚援護局は、『舊陸軍關係靖國神社合祀事務協力要綱』(昭和三十一年一月)や『靖國神社合祀事務に對する協力について』(同年四月)を發令し、厚生省と都道府縣が御祭神選考を行つて靖國神社に「祭神名票」を送付し、靖國神社がこれに基づき靈璽簿に記載されるといふ關係が昭和六十一年まで續く。

もし、占領憲法が有效であるとの見解に立てば、これら一連の行爲は全て占領憲法第二十條及び同第八十九條に違反すると斷ずるのは論理の必然であつて、このやうな違憲行爲を反復繼續した靖國神社は、オウム眞理教に勝とも劣らない存在として、宗教法人法に基づき、その設立が取消されるべきであると主張することができるであらう。しかし、實際は、その論理を貫く意志も勇氣もなく、さりとて占領憲法を無效であると主張する氣概もなく、全く優柔不斷の態度である。そして、そのことを棚に上げ、しかも、保身のために詭辯を弄して眞正護憲論(新無效論)の見解を逆に批判し續けるのである。ところが、このやうな事實の反復は、見方を變へれば、占領憲法第二十條及び同第八十九條の實效性が否定され續けてきたことを意味し、占領憲法の無效性を根據付けることになる。それほど、占領憲法の運用は、實效性のない優柔不斷なものであつたことが解る。

この優柔不斷さは、靖國神社自體にもある。その一例としては、本殿の左側にある鎭靈社の存在である。これは、嘉永六年以後の國内において朝敵として斃れた者と、日清戰爭以後の戰爭で斃れた敵國人を祀るものとして、昭和四十年七月に建立された。

靖國神社のご祭神は、嘉永六年以降の殉難者であり、皇運の挽回に盡力した志士や王事に身を捧げて斃れた者とされるのであれば、朝敵の汚名を雪がれることなく非命の死を遂げた者の名譽回復措置をして靈璽簿に記載し、ご祭神とすべきであつて、これを鎭靈社に祀るといふことは、未來永遠に靖國神社の御祭神とはせずに名譽回復をしないことを宣言し、薩長史觀をさらに固定化したことと同じである。しかも、これを敵國人と同じ扱ひにして祀るといふのは、餘りにも理不盡なことではないか。靖國神社としては、八方美人的にすべての殉難者を祀る鎭靈社があるとすることで世間の批判を免れ、未だに薩長史觀に固執してゐることをカモフラージュしてゐるつもりであらうが、こんな非道な措置をとり續けることは斷じて許されるものではない。

準軍屬の概念を廣げて公務死なる概念を認め、昭和三十四年には、B、C級戰犯を合祀し、さらに昭和五十三年にはA級戰犯の合祀するに至つて、靖國神社のご祭神である殉難者、すなはち英靈の概念定義は極めて不明確となり、その認定が著しく恣意的になつてきた。その優柔不斷さが原因となつて、今では内外に問題を抱へて益々混迷するばかりである。

これの混迷を解決し、靖國を護持しつつ、靖國の新たな使命により再生するための方策として、たとへば、戰犯とされてきたすべてのご祭神を分靈分祀して新たに「大東亞神社」なるものを創建することも選擇肢としてあり得るが、やはり、これらを分靈分祀せずに、一旦は靖國神社を發展的に廢社解體し、改めて、歴史を通じて全ての殉難者を合祀した尊皇報國の「防人神社」として再創建する道を選擇することこそ、西郷隆盛の果たせなかつた道義國家の再生といふ維新回天を完成させる第一歩であると考へてゐる。

なほ、靖國神社に祀られてゐる英靈の範圍を時系列的に圖解するとすれば、章末の別紙五『靖國神社關係圖』のとほりとなる。これによつて、靖國神社と鎭靈社がそれぞれ司る時代的範圍と人的範圍が極めて歪んだ限定的なものであることが解るはずである。

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