國體護持總論
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家族制度について

GHQによる反國體的な重大變革が行はれたのは、法律的觀點からすれば、身分法(民法の親族・相續法)の領域である。我が國には從來からの傳統的な家父長制度があり、これが教育敕語の精神文化と國體を維持してきた。そのむかし、フランス民法を基礎としたボアソナード草案による『(舊)民法』を、明治二十三年に公布、同二十六年から施行しようとしたが、「民法出でて忠孝滅ぶ」との大論爭の結果、その施行が無期延期(實質的な廢案)となつた。そこで、今度はドイツ民法を基礎とした『(明治)民法』が明治三十一年に公布・施行された。これには「家」の制度が取り入れられたのであるが、それでも傳統に適さないとの批判があり、大正時代に改正が企てられたものの成功しなかつた。「家」の概念は、「先祖(ancestor)」といふ縦軸と「家族(family)」といふ橫軸とで成り立つものであり、その各々の祖先の宗家が萬世一系の皇統に連なるものであつて、皇祖皇宗の末裔であらせられる當今を「總命(すめらみこと)」として尊崇いたすのである。教育敕語に「恭儉己レヲ持シ・・」などとあるやうに、本來、我が國は階級分化の利益社會(Gesellschaft)ではなく「一視同仁」の共同社會(Gemeinschaft)であるため、GHQが我が國を解體するためには、利益社會化する必要があつたのである。そのため、この日本弱體化政策にとつて最も障害となる「家」の制度を解體し、個人個人に分解して對立抗爭を促進させた。家族制度が崩壞すれば、これに近似した同族會社など事業體の調和も崩壞し、その結果、我が國の解體が完成するからである。

さらに、世襲、相續の法理についても、現行法制は、これを根底から否定するに等しい制度となつてゐる。そもそも、財産相續は、家の制度(家族制度)の根幹となるものであつて、安定した家産(身代)の承繼が家と制度の安定とそれによる文化傳統の維持發展をもたらすものである。「恆産なければ恆心なし」とか、「衣食足りて禮節を知る」といふ諺があるが、安定した遺産の繼承が安定した人心を保たせ、それによつて文化が繼承される。ところが、たとへば農地の相續のやうに、農業生活者、農業從事者であるか否かとは無關係に均分相續となる制度であるため、農地は、農業とは無縁の者にも細分化されて相續され、「田分け」されて農業が疲弊する。まさに「戲け者」となる。

これらは、前述のとほり、すべて合理主義、個人主義に由來するものであり、家族主義の復活によつて淘汰されなければならない。そのためには、近代合理主義から脱却し、個人主義から家族主義へと移行するための措置が必要となる。それは、具體的には、まづは財産制度において、私産制度(個人所有)から家産制度(家族所有)へと轉換させることであり、個人主義の影響を受けた帝國憲法第二十七條の改正が必要となつてくるのである。


ところで、相續自體に關しては、さらに大きな問題がある。遺産に課せられる税制(相續税制)は、これまでは最高税率が七十パーセントといふ極度の累進課税であり、平成十五年の税制改正で五十パーセントに引き下げられてものの、それでも極度の高率であることに變はりはない。ある程度多い土地が遺産であれば、それが二回の相續を經ると、それまでの遺産の土地はなくなるやうな制度となつてゐる。なぜならば、本來なら承繼した遺産價格の範圍内で相續税額が賄へるはずが、多くの場合が逆轉してゐるからである。「山より大きい猪が出る」制度が現行の相續税制である。このやうな制度は、占領期に作られたものである。

これは、GHQが、マルクス、エンゲルスの『共産黨宣言』にいふ革命のための十の方策の中にある「強度の累進税」と「相續權の廢止」に基づいて、私有財産制度を實質的かつ最終的に否定する施策を採用したためであり、これは、實質的に相續自體を否定する目的の制度である。祖先が財産を子孫のために恆産として殘すことを「罪惡」とするものである。「高い相續税が課せられて、ほとんど取られてしまつて子孫に遺産を殘せないのであれば、今のうちに全部散在しよう。」といふ心理に追ひ込むことであり、結果的には浪費を奬勵することになる。これほど不條理なことがあるであらうか。これは規範國體に明らかに違反するものであり、具體的には、帝國憲法第二十七條の所有權保障の規定に反し、占領憲法第二十九條の財産權保障の規定にも反するものである。

「相續税の廢止」といふ方向こそが、規範國體への復元のために必要なことであり、これによつて家産の復活、家族の再生へと向かふ。自助と共助の努力によつて家族を維持する制度が確立することになれば、公的年金制度は原則として不要となる。


また、これと同時に必要なことは、家族の次代を担ふ子供たちのことである。教育問題は後述するとして、その前に少子化が問題であると叫ばれてゐるが、少子化の基礎にあるのは、精子の劣化などに起因する劣子化、民族の劣化こそが問題である。今昔の感があるが、敗戰直後のベビーブームは空前の食糧難から起こつた。それは、食糧難によつて個體の生命維持が危ぶまれると、種族保存本能が強く働いたことの結果である。しかし、それによつてさらに食糧難が加速し、反米意識の高揚と報復戰爭への人員增強をおそれたGHQは、産兒制限の立法を目論んだ。アメリカでは堕胎を禁じてゐることから、そのやうな立法をGHQが指示すると、自國においても批判の矢面に立つことになるので、さうならないために議員立法の形式で『優生保護法』(昭和二十三年法律第百五十六號)を成立させた。これは、明らかに「胎兒虐殺法」である。これが平成八年に『母體保護法』と法律名が改稱されたものの、その本質は全く變つてゐない。それは、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」(第十四條第一項第一號)の場合は堕胎(人工妊娠中絶)を認めるとすることから、食糧難の片鱗すら全くない現今においても、これを擴大解釋して事實上無條件で中絶手術が行はれてゐる。性風俗が亂れ、無責任に妊娠しても、出産や育兒が面倒であり、これまでの奢侈で奔放な生活を維持できないからとして、それを經濟的理由であるかの如くすり替へて安易に堕胎するのである。医師もそれを自己の営業利益になるとして受け入れる。占領憲法ですら、第十一條後段に、「この憲法が國民に保障する基本的人權は、侵すことできない永久の權利として、現在及び將來の國民に與へられる。」と謳つてをり、この「將來の國民」とは紛れもなく「胎兒」のことであるが、この法律によつて占領下から今日まで胎兒を虐殺し續けてきたのである。もし、この條項を廢止して、胎兒虐殺を禁止すれば、自堕落な性風俗を是正し、親の責任を自覺させて家族を再構築させ、少子化の解消へと向かふ一石三鳥の實現に資する一助となるはずである。


さらに、家族制度の根幹に關はる問題としては、破産制度における免責制度がある。人が債務超過状態や支払不能状態になつたときの法的整理手段として破産制度があるが、破産における免責制度とは、その破産者の法律上の債務を裁判所が債務者の申立てにより債権者の同意なくして免除させる制度のことである。我が國は、商業活動が活發化した江戸期において、御定書百箇條で身代限と分散の手續を定められ、明治五年には、太政官布告として華士族平民身代限規則が出されたが、その後、近代化に向けて統一的な破産制度の確立が模索され、大正十一年にドイツ法系などを参考にした(舊)破産法と(舊)和議法が制定された。これには免責制度はなかつた。ところが、GHQの占領下でアメリカ法系の強い影響を受け法體系の改變がなされ、桑港条約による獨立回復前に立法準備がなされてゐた破産法改正案を獨立回復直後の昭和二十七年六月七日に成立させ、ここで初めて免責制度を取り入れた。そして、現在では、平成十六年に(新)破産法が制定され、(舊)破産法と同樣に免責制度を維持してゐる。

ところで、およそ、一般に立法化がなされる前提として、「立法事實」が存在することが求められてゐる。この立法事実とは、立法化を支へる事實として、實際の社會に存在する事實のことを云ふ。實際の社會に存在し生起してゐる事實が法秩序を維持するための支障となつてゐる場合、その事實の發生を將來において減少あるいは消滅させ、既發生の事實をも解消しうるための規制又は救濟をする目的で立法化する必要性があり、その規制又は救濟の目的を達成するための立法手段(規制方法など)がその目的に適合してゐる必要がある。そして、もし、さうでなければ、その立法化は憲法に違反して無效であるとする憲法審査のルールを前提とする考へ方なのである。

ところが、昭和二十七年の改正(舊)破産法による免責制度を取り入れなければならないやうな「立法事實」は全くなかつたのである。すなはち、司法統計年報(最高裁判所事務総局)によれば、改正年の昭和二十七年の免責申立は一件もない。昭和二十八年では三件、昭和二十九年でも三件に過ぎない。現在は年間約二十萬件の免責申立があることからすると、この免責制度を導入したことによつて、破産申立を奬勵してきたのであつて、免責制度のある破産法は、明らかに「破産促進法」であり、破産を回避し經濟秩序を維持するためのものではない。免責を必要とする立法事實は、事後に捏造されたといふことである。

これによつて何が起こつたか。それは、道德と經濟秩序の崩壞である。貸主側が無秩序で過大な融資をなし高利を得るといふ、金融制度、クレジット制度、保証人制度など、無計畫で衝動的な借入・保証を誘發させる法制度を維持してゐること自體の問題と、無計畫で安易な借入と保証をなし、返濟ができなければ破産して免責を受ければよいとする風潮を蔓延させた免責制度を含む破産法などの法制度の問題とが、車の兩輪となつて健全な道德と經濟秩序を崩壞させてきたのである。この問題を解決するには、根本的には、個人主義から家族主義への轉換が必要となるが、當面は金融法制の規制的な見直しと免責要件の嚴格化などて対處する必要がある。現行の免責制度は、その運用において餘りにも緩和され過ぎてゐることが、道德の退廢を促進してゐるからである。

そもそも、破産制度は、個人主義に立脚してゐる。家族で生活してゐるのに、その家族の一員が破産しても、その他の家族が法的には何の影響も受けないことでよいのであらうか。借金をしてまで家族が生活をしてきたのであれば、破産になるときは、家族の連帶責任として、家族全體が破産することでなければならないはずである。さうであれば、家族の絆と責任感が回復する。また、家族の一人が他人を殺しても、他の家族は、「道義的責任」といふ見せかけの責任を負ふだけで、民事的な法的責任を全く負はないことでよいのであらうか。

法の目的は、國家・社會の「本能」に適合することにある。家族を守り、家族の苦難を共有すること家族の本能であり、これと同樣に、國家・社會を守り、國家・社會の苦難を共に耐え拔くことも國家・社會の本能である。法制度は、その本能適合性のために整備させるものであつて、いまこそ個人主義法制から家族主義法制への大轉換が必要となつてゐるのである。金融法制の改善と免責制度の廢止とを共に實現させ、秩序ある經濟社會を再構築しなければならない。


次に、家族秩序の復活として、尊屬殺人罪の復活が必要となる。昭和四十八年四月四日の最高裁大法廷判決は、「法定刑が死刑および無期懲役刑に限られている点において不合理な差別を設けるものであり、憲法十四条一項に違反する。」と判斷し、それ以來、尊屬殺人については普通殺人として起訴されるなどの運用がなされ、平成七年には尊屬殺人罪を規定した刑法第二百條は削除改正された。この改正は、刑法第二百條には「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」とし、同法第百九十九條(改正前)には「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」と規定してゐたものを、この第二百條を削除し、百九十九條(改正後)を「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と改正したのである。これは、「人」の中に「尊屬」を含めて他人も尊屬も一律に扱ひ、有期の法定刑を三年以上から五年以上に引き上げたといふことである。

尊屬殺人罪を占領憲法違反であるとした前掲判例は、尊屬殺人の法定刑が死刑又は無期懲役であることから、未遂や自首などによる法律上の減輕と酌量減輕の二回の減輕をしても、執行猶予が付かない(實刑)となるといふ現實的な事情を斟酌したことによるものである。つまり死刑と無期懲役のうち、無期懲役を選択して法律上の減輕をしても、七年以上の有期懲役となり、さらに、これを酌量減輕しても、三年六月以上の有期懲役となるだけで、三年以下の有期懲役にしか執行猶予は付かないので、どうしても實刑になるといふ事情である。

尊屬殺人において執行猶予相當の事案があるとするのであれば、そのやうに法定刑について、「死刑又ハ無期若クハ十二年以上の有期懲役ニ処ス」と改正して法定刑の下限を下げれば足りることであつた。最高裁は、尊屬殺人罪の規定自體が違憲であるとはしてゐなかつたのに、國會はこれを削除改正までしてしまつたのである。

尊属と他人の命に輕重があると云つてゐるのではない。それを犯す者の罪に輕重があるのである。尊屬殺人を普通殺人と同じとすることは、家族と他人との區別を否定することであり、家族秩序と社會秩序とが同じとなつて家族制度を否定することになる。家族が溶け出し、祭祀と忠孝の基礎が否定され、そしてこれによつて社會が溶け出して國家の崩壞へと突き進む象徴的な第一歩がこの尊屬殺人罪の削除改正であつた。

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