國體護持總論
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著書紹介

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暦について

ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの數靈の全てを兼ね備へたのが人(ひと)とされてきた。「一から十まで」といふ表現は、今でも、始めから終はりまでといふ意味のやうに全事象を指し示す言葉として通用してゐる。我が國は、萬葉集で山上憶良が詠つやうに、「言靈の幸はふ國」であるとともに、このやうに「數靈の幸はふ國」でもある。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや營みを支へるものを大切にしてきた。森羅萬象は全て巡り巡つて循環し、始めと終はりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終はりを神聖なものと認識して祭禮を執り行つてきた。萬世一系、循環無端である。そして、年、月、日、年號でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳といふやうに、人の暮らしと營みは農事と儀式の暦に從ひ、四季の移り變はりとともに月日を重ねてきたのである。

ところが、權力的干渉によつてこの傳統文化が破壞され、人の年齡だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至つてゐる。それは、『年齡計算ニ關スル法律』(明治三十五年)と『年齡のとなえ方に關する法律』(昭和二十四年)の二つの法律によるものである。

しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではない。もし、年齡といふものを「生命の年齡」、「生命年數」といふ意味に理解すれば、法律で強要された、いはゆる「滿年齡」といふ數へ方は、單に「出生後の生存年數」に過ぎず、「生命年數」とは全く異なる。現に、現代醫學といふ名の施術を用ゐると、分娩を遲らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持裝置を用ゐて限りなく延命することも、安樂死とか尊嚴死といふ名でいのちの終はりを早めることもできるので、年齡を考へるにあたつて、その始めも終はりも人爲的に左右される滿年齡といふ「出生後の生存年數」も決して正確なものではなく、殊更にこの年數に固執して年齡を表示する意味も薄らいでゐるのである。

その點、傳統的な「數へ年」は、もののはじめが一であるといふ數靈に適ふものであると同時に、この「生命年數」の理念に最も近いものである。受精から出生までの「とつきとをか」を出生時に一歳と認識して、その後の齡は暦計算に基づいて重ねていくものと捉へれば、生命年數の捉へ方の理念としては最も論理性があると認められる。確かに、數へ年といふ年齡計算は、科學的に正確な生命年數ではないが、太陽暦によつても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齡計算を暦計算で行ふことはやはり科學的には不正確と言はざるを得ない。

ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳といふことになる。何とも奇妙であり、その「零歳」といふ響きには、いかがわしさすら感じられる。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではない。また、胎兒はそれ以前であることから、理屈からすればマイナス年齡で表示されることになり、人としては認識されなくなつた。胎兒の命は輕んじられ、堕胎に齒止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではなからうか。

ところで、GHQの占領下では數多くの傳統破壞が行はれたが、傳統的な年齡計算が法律によつて強引に否定されたのは戰前のことであり、いはば明治維新やその後の明治政府の施策によつて、GHQによるものに勝るとも劣らないやうな傳統破壞や文化干渉がなされてゐることを忘れてはならない。

この數へ年の廢止も暦に關連した大事件であるが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、大隈重信の發案による明治五年の太陽暦改暦がある。明治政府は、歐米諸國と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、從來までの太陰太陽暦(舊暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、舊暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に發表して改暦を行つた。改暦を行ふことが假に時代の趨勢としてこれに抗することができなかつたとしても、何故この時期に行つたかといふことが問はれなければならない。

その理由は、一言で言へば、當時の政府が著しい財政難であつたことが原因してゐる。つまり、舊暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三箇月、三百八十四日となつてゐた。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三箇月分支拂ふことになる。そこで、舊暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支拂はずに濟み、しかも、明治六年は十三箇月分の給料を支拂ふところを十二箇月分で濟ませられるので、向かふ一年で二箇月分の給料が節約できるとの計算から、そのやうに計畫して實行したのである。財政のために傳統文化を否定した。金で傳統文化を賣り飛ばしたといふ現象である。

そもそも暦を決定する權限は、古今東西において「王權(皇權)」に屬するものであるにもかかはらず、財政的な理由や諸外國に迎合することを善とした文明開化といふ名の傳統破壞思想によつて、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社會的な惡影響を全く考慮せずに、暦といふ重要な國體的素因を無造作に變更してしまつたといふ過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚點と言はざるをえない。

近現代史の捉へ方において、我が國はいつでも惡いことをやつてきた犯罪國家であるとするコミンテルン史觀や東京裁判史觀などは論外であるが、戰爭に勝つてゐるころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入つて負けてきたころ以降の日本は惡かつたとする司馬遼太郎の歴史觀にもほとほと呆れ果てる。これは、昭和初期から敗戰までの日本は日本でありながら日本ではない奇胎であつたとする斷絶史觀である。戰前は惡で、戰後は善とする戰後保守思想もこれと同列のものである。歴史は連續してをり、金太郎飴のやうに、どこを切つてみても「日本」は「日本」である。こんな單細胞的な司馬史觀などが最近もてはやされてゐるが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戰爭は、大嫌ひな暗くて苦しい昭和史を作つた最大の原因であつたことを自覺すれば、歴史の評價においては、一時代に限つて全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解る。光と影の雙方を見つめなければ、歴史の立體構造を知ることができない。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできない。この改暦も、數へ年の廢止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が國の傳統を破壞して歴史に禍根を殘してゐる一例なのである。しかし、この改暦や數へ年の廢止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じてゐなかつたことが不思議でならない。

我が國の歴史は、修理固成の御神敕のとほり歩んで行くと信ずるがゆゑに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信する。太陰太陽暦には、確かに難點はあつたが、決して致命的な缺陷はなく、今でも實生活と農業、漁業などの面において多くの利點と效用がある。否、地球の暦としては、もつと積極的な意味がある。地球は、太陽と月の双方の影響を受けることからして、その双方の動的平衡の調和が果たせる暦としては、太陰太陽暦が最も相應しいと云へるからである。現代において、これを單純に復活させ、新暦を廢止せよといふものではないとしても、せめて韓國のやうに、新暦と舊暦の併記併用を公式に認めさせるべきである。

また、アジアでも新暦のみで元旦を祝ふ國は我が國だけで、多くの國では舊暦の元旦の方を盛大に祝つてゐるが、正常な季節感からすれば、舊暦元旦、もつと正確には立春を新春として祝ふ方が自然である。

つまり、舊暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければならないのである。それは、新暦を從來どほり主たる暦として使用繼續する場合であつても、元旦を立春とする古式傳統を復活させるべきではないか、といふことである。そもそも、ユダヤ暦のやうな純粹な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるやうに定められてをり、太陽暦とするのであれば、理想としては、立春を元旦とすることであつた。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と滿月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じるが、我が國の古式傳統では、立春を元旦として新年新春を祝ふ。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が殘つてをり、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由來してゐると思はれる。

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で踐祚された神武肇國に關する日本書紀の記述部分である。「辛酉年春正月庚辰朔」といふ表記のうち、この「辛酉年」の「庚辰」の日が太陰太陽暦の「元旦」に該當することから、その日を太陽暦に換算して「二月十一日」とすることに説得力はある。しかし、これは支那暦(陰暦)の影響を強く受けた記述であつて、「春正月」(はるむつき)といふ表記からすると、これが立春を元旦(朔)としてゐる意味と解釋しても不自然ではない。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で觀測した春の始まりであり、これが我が國の季節の始まり、年の始まり、暮らしと營みの始まりとして、二十四節氣の内で最も重要なものである。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが眞の太陽暦なのである。戰前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戰前から二月十一日となつてゐるが、立春とするのが自然な解釋のはずである。太陽の運行や節氣とは無關係で何ら意味のない日に即位されたとする解釋の方が不自然であらう。

正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなつてゐる。しかし、今の新暦では立春が二月四日(ころ)であり、元旦は眞冬であり、「春」ではない。一年は、「春夏秋冬」ではなく、「冬春夏秋冬」であり、冬が始めと終はりに跨つた變則的なものとなつてゐる。そして、冬なのに「初春」といふ季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言靈」と「數靈」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失つてしまつてゐるのである。

一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としてゐる新暦よりも、農事暦でもある舊暦の方が季節感と合致する。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などといふ生活に密着したものも、立春から日數を數へるので、例へ現在の太陽暦をそのまま繼續採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと變更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと營みに傳統の智惠が蘇ることになるはずである。これは日本暦(眞正太陽暦)の創設である。これは、戰前の國際連盟において、伊勢の皇太神宮を基點として、その眞上の天空を通る子午線を基準とした眞正太陽暦を採用したうへで立春を元旦とすることが檢討されてゐたが、殘念なことに、我が國が昭和八年三月に國際連盟を脱退したことによつてその採用が見送りとなつたといふ經緯があつた。

ともあれ、明治政府は、明治五年十一月十五日、神武天皇の即位をもつて「紀元」(明治五年太政官布告第三百四十二號)と定め、同日には「第一月廿九日」(一月二十九日)を神武天皇踐祚(即位)相當日として祝日にすることを定めた(明治五年太政官布告第三百四十三號)。この一月二十九日とは、明治六年の太陰太陽暦の元旦をそのままグレゴリオ暦(太陽暦)に置き換へた日付である。ところが、明治五年の太陽暦改暦以後も太陰太陽暦の元旦を祝ふ風習(舊正月)が根強く、紀元節を祝賀する意義が希薄になるとの政府の懸念から、明治六年十月十四日、新たに神武天皇即位日(紀元節)を二月十一日とした(明治六年太政官布告第三百四十四號)。これは、確かに、前述の日本書紀における「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」に基づき、立春に最も近い「庚辰」の日を「朔」とする暦法計算と一致する。しかし、神武天皇踐祚が「立春」ではなく「朔」(月立ちの日、ついたち)であつたとしても、むしろ尚更のこと、太陰太陽暦の元旦を紀元節と定めて奉祝すべきである。舊正月の元旦が紀元節であることは、むしろ舊正月を祝ふ風習を復活させる契機となり、その前提として、太陰太陽暦の併用的復活の根據となるはずである。

そして、この眞正太陽暦の採用、太陰太陽暦の併用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければならない。皇紀紀元は日本暦(眞正太陽暦)の創設と一體とならなければ歴史的意義が損なはれるからである。

ところで、現在一般に廣く用ゐられてゐる西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨してゐる年數といふ意味のキリスト教紀元(基紀)である。我が國には、「元號法」はあつても、西暦法(キリスト教暦法)はない。しかし、マスメディアなどの喧傳と洗腦により、キリスト教國でない我が國がこの宗教暦を無批判に受け入れ、臣民にその使用を實質的に強制してゐることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用してゐる世界の國々などから顰蹙をかつてゐる。キリスト教暦を受け入れてゐることは、キリスト教を國教として受容したものとみなされてしまふのである。たとへば、刑務所において、邦人受刑者に對しては勿論のこと、キリスト教徒でないイスラム教徒の受刑者に對し、キリスト教暦しか表示せず、イスラム暦を併記しないカレンダーを掲示して見せることは、信教の自由の侵害となるとされても反論の仕樣がないので、官廳公署が使用するカレンダーには、元號表記のみに留めるべきである。

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