國體護持總論
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著書紹介

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自立再生社會の概要

人に志がなければならないのと同じやうに、國家にも志がなければならない。國家にとつて、國家の私利私欲に基づく國益よりも、國家の命運を賭した國家としての志がなければならない。人にとつて志といふのは、生きる目的と希望であり、人に備はつた本性である。他の動物と異なり、これがなければ、人は精神の安定が得られず、生活が安定しない。人は、即物的な生活だけで滿足する生き物ではない。祖先祭祀と自然祭祀などの祭祀生活ないしはその擬似生活としての宗教生活を營むことでなければ、魂の安靜は得られないのである。

第一章で觸れたが、祖先祭祀の根源とは、親が子を慈しみ、子が親を慕ふ心にある。我々の素朴で根源的な心には、たとへ死んで「から」(體、幹、柄、殻)を失つても、その「たま」(靈、魂)は生前と同樣に子孫を慈しんで守り續けたいとするものである。たとへ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいはそれと引き替へてでも、家族が全ふな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願ふ。そして、子孫もこのやうな祖先(おや)の獻身的で見返りを望まない心を慕ふのである。死んでも家族と共にある。それが搖るぎない祭祀の原點である。子孫が憂き目に逢ふのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天國に召され、極樂・淨土で暮らすことを願ふのは「自利」である。「おや」は、自分さへ救はれればよいとする自利を願はない。これは「七生報國」の雛形である。一神教的宗教の説く救濟思想への違和感はまさにここにある。「利他」の「他」は、まづは家族である。あへて家族から離れさせ、その絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞する。家族主義といふ「利他」を全ての人がそれぞれの立場で實現すれば、世界に平和が訪れることになるのである。

つまり、祭祀の機能は「人類の融和」である。これに對し、世界宗教といふのは、特定の宗教勢力が「絶對神」を定め、それを「唯一神」とすることによつて、これと異なる「唯一神」を主張する宗教勢力とは、不倶戴天の敵となる。つまり、このやうな宗教の機能は「人類の對立」である。現に、これまで「祭祀戰爭」は一度もなく「宗教戰爭」は數限りなく存在したことは嚴肅な歴史的事實である。人々の救濟のためにあるとする宗教が、まつろはぬ人々を脅し傷付け殺戮する。それゆゑ、世界平和を眞に實現するためには、人類は宗教進化論の誤謬に一刻も早く気づいた上で、祭祀から退化・劣化した「宗教」を捨てて始源的で清明なる「祭祀」に回歸することしかない。つまり、自立再生社會といふ人類の理想に到達するためには、祭祀による祖先と萬物に對する感謝をしながら自己の德目を磨き上げることを各人が人生の目標として實踐することであり、そのことが人類共通の志となる必要がある。

そして、これが、家族、社會、國家、そして世界の志となれば、自づと動的平衡を保つた堅固な雛形の經濟社會構造が出現する。それが後に述べる自立再生社會である。

眞理と理想に近づく經濟社會構造は、決して複雜なものであつてはならない。單純明快であることが必要である。煩を去つて朴に復る。これは、「良い考へは常にシンプル」(クリフォード・ハーパー)とか、「小さいことは美しい(スモール イズ ビューティフル)」(E.F.シューマッハー)、あるいは「單純なことは美しい(シンプル イズ ビューティフル)」といふ言葉で表現してもよい。

複雜で大規模な統制を必要とする經濟社會構造では、假にそれが適正と思はれるものであつたとしても、その理論を理解して管理統制しうる能力を有する者の中から選ばれた特定の者だけが社會と經濟を寡頭支配することになる。そして、その大規模な統制構造を管理するについては、必然的にこれに對應する大規模な政治制度を必要とする。さうすると、大きな政府の權限が增大し、生殺與奪の權限を掌握した者の寡頭政治となり、必ず腐敗が生まれる。絶對的權力は絶對的に腐敗するのである。これは、少数支配の原則から生まれる腐敗である。そして、その少数支配者が故意又は過誤によつて本來の構造と制度の運用を誤れば、全體としての社會と經濟の構造が脆くも崩壞する。それゆゑ、大規模な統制構造の社會と經濟は、これを支へるための複雜で強力な政治によらなければ維持できないこととなり、その社會構造は脆弱で不安定なものとなる。そのことからすると、複雜な計畫經濟と硬直化した獨裁政治を行つた共産主義國家が崩壞するに至つたのは必然的な現象と云へる。そして、これに勝るとも劣らない複雜で硬直化した現在の國際金融資本主義社會の混迷と、この制度を維持しようと藻掻き苦しむ國際政治がダッチ・ロール的迷走に突入したことからすると、これは構造的崩壞に至る前相であると評價されることになる。

そのために、社會の理想を實現する志は、一部の特定の者に獨占されるものではなく、萬民が素朴に繼續して抱くものでなければならず、それが收束して家族、各地域、國家、さらには世界の志として共通するものとなり、それが自立再生を實現する志に收斂される。國家單位で捉へると、方向貿易理論が必然的な歸結となり、これによつて「自立再生論」を實現するといふ國家の志が形成されることになる。

では、以上の前置きを踏まへて、以下において「自立再生論」の解説をする。まづ、結論を言へば、ここで、方向貿易理論の必然的な歸結となる自立再生論といふのは、「再生經濟理論」に基づくものである。この再生經濟理論とは、財貨・情報・サービスなどを提供する生活産業構造を、「生産」、「流通」、「消費」、「再生」の四部門に分類し、生産・流通・消費の各部門は、再生部門に奉仕するものと位置づけることから始まる。再生のための生産であり、流通であり、そして消費である。

これまでも、循環型社會の構築を主張する見解は多いが、これは「動脈思考」によるものが殆どである。「生産」を原點として、過剰生産をやめませう、といふ道義的願望はあつたが、過剰生産が過剰消費を引き起こしてゐることや、消費は美德であるとする極めて不條理な考へに毒されてきたことの反省が足りなかつた。生産し、その後に消費された後の廢棄物を再生して再び生産の資材として用ゐるといふ發想に過ぎず、廢棄物が資源として再生されずに廢棄物となるのが「勿體ない」とするだけである。

ところが、再生經濟理論とは、廢棄物となつて廢棄されてしまふ大量生産の製品を作ること自體が「勿體ない」とするのである。需要と供給の均衡において、「需要(消費)があるので供給(生産)が發生する」といふ原理は、生産の動機を受動的に見てゐる點において、資本主義の大量生産を説明するには正確なものではない。そもそも、自由市場では需要と供給の均衡によつて商品價格が決定されるといふ「需要供給の法則」は、證券、為替取引の賭博經濟のみに適用される法則であつて、實體經濟における「商品」には適用がない。なぜなら、實體經濟には、「自由市場」自體がないからである。自由市場として成り立つには、全需要者(全消費者)と全供給者(全生産者、全販賣者)とが一齊かつ全域において、第三者の作爲を介在させることなく取引しうる關係が確保されてゐることが必要である。そこには新規參入することの障碍や商品の流通と商品への接近(アクセス)における地域格差や障碍が全くないことが條件となる。しかし、そのやうな環境はいままで存在したことがないし、これからもそれが實現することはありえない。特定の地域や特定の參入者だけの取引を以て自由市場といふ「幻想」を抱いてゐるだけである。そもそも、商品價格は、原則として生産原價及び流通原價などに適正利益を付加したものを基礎に、供給者側が消費者に對する情報操作を驅使して、さらに付加價値分を上乘せするなどして決定するのであつて、需給均衡で決定するのではない。特定商品の需要超過によつて生産者の設定した販賣価格よりも高騰して取引がなされるときや、その逆に、供給過剰によつて製造原價割れで取引がなされるときのやうな需給ギャップが生じるのは、供給者がその商品についての需要情報や流通情報などを事前に把握してゐなかつたか、あるいは、販賣促進のための情報操作の失敗や、その後の事情の變化によるもので、おしなべて經營の問題に還元されるだけである。需要情報が乏しく需給バランスが全く手探りの状態で、供給者が製造・販賣したりすることは本來ありえないが、そこに賭博的手法を取り入れ、テレビその他の媒體を驅使するなどして過剰消費を創出させようとする商業主義(commercialism)が出現する。これは、本來の實質的需要を發掘するといふのではない。消費者の奢侈傾向、衝動と虚榮による購入性向などを掻き立てて過剰消費を創出する。

このやうにして實體經濟における商品の價格は決定されるのであつて、購買意欲を過度な情報操作によつて掻き立て、商品原價に適正利益を付加したものを遙かに超えた商品價格を決定することによつて暴利行爲となるやうな價格設定も可能となる。暴利行爲とは、法外な利益を獲得するための違法な個別的商業活動であり、一般には詐欺的手法を用ゐた公序良俗違反の形態であるとして禁止されるものであるが、これは何も個別的にだけに起こるものではない。このやうに、構造的に一般的にも起こりうるのである。つまり、自然的又は人爲的な理由によつて大量の需要が生まれた場合、しかも、商品の生産者及び流通者が獨占状態や寡占状態となつてゐる場合には、生産停止、出荷制限、売り惜しみ、買ひ占めなどの生産調整や流通調整によつてもその現象は起こる。このやうな暴利行爲を法規制によつて禁止しなければならないのは、そもそも市場による均衡が實現しえないことの証左でもある。

さらに、その商品價格についても現實には一律でないのが一般である。市場で價格が決定するのであれば、「一物一價の法則」が適用されるはずであるが、それが成り立たないのも、自由市場が存在しないからである。前にも觸れたが、そもそも、「需要供給の法則」が成り立つためには、全地域の全人民の需要と供給とが「一斉かつ同時」に發生しなければならないが、そのやうなことは絶對に起こりえない。需要と供給との間には必ず時差があり、地域、季節、生産状況、供給状況その他の諸條件の相違によつてそれぞれが變動して相關關係的に價格が決定するのである。また、需要と供給との間に流通者やブローカーなどの中間者が存在する經濟構造であることから、中間者の動向によつても價格が變動するのである。

それゆゑ、不特定多数の供給者と不特定多数の需要者との均衡による「見えざる手」によつて均衡点に到達するといふ價格決定原理は單なる幻想であつて、そのことは「流通・小賣りの寡占化」によつてさらに一層明確になる。大手スーパー、大手コンビニ、大手チェーンストア、大手ディスカウントストアなどの大手の流通・小賣業者が流通・小賣りを寡占して價格決定權を獲得するに至り、生産者(メーカー)の價格決定權はさらに縮小される。流通・小賣りができなければ生産できないからである。この生産者と中間者との緊張的共同關係の中に、消費者(需要者)が割り込む隙はない。消費者(需要者)は價格決定に參加することは全くないのである。消費者(需要者)は、供給者側(生産者、中間者、広告媒體など)から示された商品價格でその商品を購入するか否かを選擇することしかできない。僅かな樂しみとしては、いろいろなチラシを比較して購入する店舗と商品を選別し、その店舗でさらに價格を値切つて、ささやかな達成感を味はふことしか殘されてゐないのである。

ここに至つて、商品經濟は、生産者、中間者の利益追求の欲望と消費者の消費の欲望とを同時に満たす「欲望經濟」となつて供給が需要を主導する供給主導型が完成するのである。この欲望經濟は、際限なく擴大し、投機対象を漁り續け、欲望の坩堝である證券為替取引市場や商品取引市場といふ賭博場にも押し寄せる。「貯蓄から投資へ」といふ甘言に踊らされて、食べる物を切り詰めてでも投機に走る「一般投資家」といふ名の欲望の奴隷も誕生してくるのである。そして、米國が「年次改革要望書」を以て我が國に要求した、規制緩和と銀行と證券の業際規制の廃止(金融緩和)などを忠實に履行した「構造改革路線」によつて過剰流動性を增した通貨がさらに賭博經濟へと注入され、實體經濟を逼塞させる。これらの虚業經濟は實體經濟と混在化して峻別できない状況にあることから、バブル崩壞によつて景氣が低迷すると、政府による經濟政策は、ケインズ主義的に公共投資等による需要面から牽引する方法か、あるいは、新自由主義的な構造改革等による供給面から牽引する方法か、そのいづれを採用するのかといふ、これまで言ひ古されてきた議論を繰り返すだけである。これらの政策選擇だけでは全く根本解決にはならない。ただ、少なくとも、構造改革路線は、賭博經濟をより推進させる方向であり、對米從属がさらに深まることだけは確かである。

いづれにせよ、實體經濟を健全化させることが當面の課題ではあるが、これからの經濟政策は、消費を煽ることによつて景氣浮上させるといふ幻想から脱却しなければならない。前に述べたとほり、このやうな政策は、質素儉約を否定する不道德の奬勵であるとともに、人も國家も、成長が際限なく續くことはありえないことを忘れたものである。經濟成長も然りである。いつまでも唯物論的に經濟が成長し續けると未だに爲政者や賭博師などの經濟人が信じてゐるために、このやうな幻想を抱くのである。經濟といふのは、所詮は物質的活動である。未使用のまま廢棄するほどまでに物が豐富なのに、これ以上一體何が物質的に不足なのか。豐かになつたと云はれてゐるのに、それでも更にあくせくして疲れ切り、將來が不安なのはなぜか。それは、この際限のない成長幻想を抱いてゐるからである。世界には、飢餓に喘ぐ状態が未だに殘つてゐるが、世界の經濟活動は、その救濟には向かはない。むしろ、その乖離を深めるだけである。さうであれば、現在の經濟における需要は、原則として消費財の補充と生産財の維持の限度でしかありえず、これ以上の需要の擴大はありえない。これ以上のものを求めるとすれば、虚業經濟によるか、あるいは、實體經濟に拘るのであれば、それは戰爭とそれによる破壞からの復興といふことを繰り返す戰爭特需以外にはありえないのである。

「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(管子)の如く、見せ掛けの成長が止まつてから、人が人格の完成に磨きをかけるのと同樣に、國家もまた文化と民度の向上に努めなければならないのである。

閑話休題、再び再生經濟理論に話を戻す。まづ、資本主義の特性は、たとへ、消費(需要)がなくても、利益の獲得のために生産(供給)するところにあり、大量生産が大量消費を牽引するとして、それによつて擴大再生産が始まることになる。つまりは、過剰消費を誘導すれば消費性向には限界がないことから、物があればあるだけを消費するに至るからである。

ところが、「再生」には技術的、經濟的に限界がある。從つて、自然に再生される物や義務的に再生される物以外の「餘剰」の廢棄物が環境等を破壞することから、この消費を「再生」の觀點から限界付ける必要があつた。つまり、再生經濟理論とは、「再生できずに廢棄してしまふ製品を消費してはならない。」といふ消費の抑制原理である。そして、このことから、「消費してはならない製品を生産してはならない。」といふことに到達する。勿論、消費量とその速度については、地球の再生能力の限界點を超えられないことは前に述べたが、その限界點である消費總量を總人口で除した値が一人あたりの消費限界量であるから、消費生活の態樣は、その數値を超えてはならないといふ他律的なものとなる。總人口の問題、すなはち人口問題については個人で解決できる問題ではなく、一人あたりの消費限界量といふ限界點も、このやうに他律的に決定されるとなると、個人が自覺的に取り組めるものにも限界がある。それゆゑ、國家としては、これらを具體的に數値化して、一人あたりの消費限界量といふ限界點を示し、消費量を抑制させること、いはば「消費量の配給制」といふ總量規制を導入する必要がある。人々は、その總量規制の限界の中で、個々の事情により優先順位を定めて消費の種類を選擇し、消費の量を調整する。

そして、消費については、このやうに消費總量の限界點を算出し、また、再生についても、再生しうる再生總量の限界點を算出し、これらを比較して、いづれか少ない數値を以て「消費の配給量」として決定することになる。

このやうに、消費と再生の限界を認識した上で、これに基づき生産と流通を限界付ける理論が、「靜脈思考」ともいふべきこの再生經濟理論である。いはば、これは靜脈産業である再生産業を産業構造上の中心産業と位置づけるもので、單なる循環經濟理論のやうに、再生産のための生産部門のために廢棄物を資源として考へると云つたやうな、生産といふ動脈産業を中心に産業構造を捉へるものとは全く異なる。廢棄物をそのまま燃燒させて熱源とするやうな單純な循環ではなく、通常は「メビウスの輪」のやうに、廢棄物の再生處理によつて得られる資源を産業の起點に置く「循環無端」の再生循環經濟なのである。これは、生體における自己完結型の「代謝」が雛形となつてゐる。

ところで、「再生産業」とは、基幹物資その他全ての生活關連物資として生産されたものが流通を經て消費された結果の「産業廢棄物」を再び生産のための資源として最大效率で活用し、完全に無害處理させることを指導理念とした産業部門である。しかも、「再生」を産業全體の基軸と捉へるといふのは、物に對する感謝を以て再生することを制度化することでもある。さうすれば、「産業廢棄物」といふ用語は、「産業拜歸物」と捉へることになる。物への感謝(拜)を以て再生(歸)するといふことである。

「再生」には、産業廢棄物(拜歸物)を直接的に人爲的な再生をする場合と、生態的物質循環を經て間接的に自然的な再生をする場合とがあるが、完璧な再生は、恰も永久運動のやうな産業循環を實現することである。地球の資源は有限であるから、埋蔵燃料やウランなど、一度燃燒消費すれば二度と再生しえないやうな枯渇性資源(再生不能資源)の使用は、その再生が不能であるか、極めて困難であつたり危險であつたりする點と、廢棄物(拜歸物)の無害處理が困難な點において、再生經濟原理には本質的に馴染まない。その他の埋蔵鑛物などのうち再生可能資源は、自立再生經濟における産業循環に組み入れられることになる。また、再生可能資源(エネルギーを含む)において、最も理想的なものは、「太陽の惠み」と「宇宙の惠み」である。太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱、超傳導などを利用した發電及びエネルギーの抽出であり、無限に近い再生利用と完全無害處理が可能となる。現在、世界各國は、連合國主導で埋蔵燃料やウランなどの枯渇性資源(再生不能資源)の利用に關する研究を主力として進めてゐるが、このやうな傾向から脱却して、安全無害の再生可能資源の實用開發に全力を傾け、自立再生理論を實現するための第二次産業革命ともいふべき技術革新を行ふことが、これからの世界の課題と責務である。

世界各國が、自立再生經濟の確立に向かつて自助努力をなし、そのための技術と情報を必要とする國に對しては、新たな國際機關を設けて、その技術と情報を提供し合ふといふ共助努力を行ふ。そして、大氣や海洋などの地球的規模の問題については各國が協力して取り組み、また、緊急事態に備へた協力體制を確立し、南北格差など、國家間の格差のない世界を實現していくことになる。

そして、「貿易をなくすための貿易」といふ方向貿易理論を實施し、再生經濟理論によつて消費を限界付け、基幹物資が再生循環によつて閉鎖系かつ循環系としての自給自足體制が完成するといふことになる。そして、技術革新を遂げることにより、その閉鎖循環系の自給自足社會が、より小さないくつもの閉鎖循環系へと細分化され、その閉鎖循環系社會が極小化していくことになるのである。

繰り返し述べてきたが、これも動的平衡による雛形構造(フラクタル構造)の實現を目指すものである。分業化體制を際限なく推進することは、社會を不安定化させる。禮と樂の區別、陰と陽の區別からすれば、「分業」とは、「樂」と「陽」への不可逆的な方向であり、擴散・溶解・緩和を意味する。これに對し、「分業」から「合業(統業)」へと向かふのは、收束・凝縮・緊張を意味する「禮」と「陰」の方向で、社會をより安定化させる。そもそも、萬物は、禮と樂、陰と陽の動的平衡、振動的平衡によつて安定するものであるが、現代は、餘りにも「樂」と「陽」の方向へ振れ過ぎたことによる不安定化であるため、これを振幅の中心軸である「太極點」を起點とする小さな振幅にまでに縮小しなければ、世界全體の安定が實現しない。

すなはち、自立再生論とは、無計畫に放置すれば安易な省力化による分業が生まれ、社會經濟單位の極大化の方向へと流れる擴散傾向があることから、これと對向的な調和を實現しうる收束傾向を目指す方向貿易理論と再生經濟理論によつて、閉鎖循環系の自給自足社會を極小化させていくといふ理論であり、これに從つてこそ世界全體の動的平衡を實現し、雛形理論による世界平和と地球の安定を約束してくれるのである。

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