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國體護持:クーデター考

尊皇運動の系譜

「國體」といふ概念の萌芽は「國學」に由来する。この國學とは、江戸時代前期の國學の祖とされる契沖が、儒学、蘭学、仏教などにとらはれない「萬葉集」の学問的解釈研究に始まり、国学の四大人(しうし。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)によつてさらに展開された学問体系である。そして、ここにおける中心概念である國體とは、言語的には、「国の体質」に由来し、「国柄」と同義であつて、それは、万世一系の皇統とやまとことはの言語体系を核として構成された我が国固有の惟神の古代精神と歴史文化伝統から抽出される普遍の真理の総体(真理国体)を意味することになる。

平易に云へば、それを失へば日本が日本でなくなるもの、何があつても守り通さねばならないもの、つまり、皇室、言語、歴史、文化、伝統、伝承、慣習などである。しかし、これらの有様を学問として詳細に究明したところで、これらを護持する方途を講じなければ全く画餅に帰する。これを護持するには、平和裡に祭祀、行事や儀式などが不断に続けられることは勿論であり、それだけで実現できることが望ましいものの、歴史的に見れば決してさうではなく、様々な紆余曲折があり、ときには謀略や武力を行使してでも不断の努力を積み上げなければ実現しえないのである。

國體は学者だけでは守れない。学問に裏付けされた國體護持の志を持つた者の血と汗によつて守られるのである。特に、江戸期以降における國體護持の運動は、國學などの隆盛もさることながら、山鹿素行の「中朝事実」に始まると云つても過言ではない。山鹿素行は、儒学者であり、かつ、山鹿流軍学の創始者として有名ではあるが、古学(原典主義)の開祖として、「聖教要録」を著して朱子学批判をしたことから幕府の怒りをかつて播州赤穂藩へ配流され、その謫居中に著したのが寛文9年(1669)に完成した「中朝事実」である。これは、我が国の古代史を論じたもので、神道と皇統の正統性、普遍性及び世界性を力強く説いたものである。これは、契沖の「萬葉代匠記」が著された約20年前のことであり、これが國學発祥の契機となつたと云つても過言でない。

山鹿素行は、赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行ひ、幼少の浅野内匠頭は云ふに及ばず、後に赤穂義士の討入り参加した大石内蔵助、堀部弥兵衛、吉田忠三衛門など重立つた赤穂義士の多くは、この山鹿素行の門下生であつた。

他方、赤穂義士事件で討入られた吉良上野介の吉良家は、高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあつたが、その実は、幕府の使者として、皇室を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあつた。

幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、元和元年(1615)、禁中並公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止を断行した。つまり、世俗な表現を用ゐるならば、幕府は、天皇を、京都御所から一歩も出さず、公家以外は誰にも会はせないといふ軟禁状態に置いたといふことである。これは、たとへば、諸大名が参勤交代の途中、京都の天皇に拝謁する慣例を認めるとなれば、それがいづれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。

寛永元年(1789)に幕府(老中松平定信)がいはゆる尊号事件で皇権を侵害したことが契機となり、同6年(1794)に光格天皇によつて尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約180年の歳月を要し、文久3年(1863)に孝明天皇による攘夷祈願行幸で行幸が復活するまで、約250年の長きに亘つて幕府の皇室軽視は続いたのである。

ところで、後水尾天皇(慶長16年~寛永六年・1611~1629)は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与へたことに抗議して退位された。そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、7歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子は悉く堕胎や殺害されたと伝へられてゐる。以後は、後水尾上皇が院政を行はれて幕府と対峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、霊元天皇はいづれも後水尾上皇の皇子である。

承応3年(1654)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、国内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壊など異常気象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(万治4年・1661)などの大きな人為災害が次々と起こつた。そこで、幕府(四代将軍家綱)は、これに藉口し、これらの凶変の原因は後西天皇の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫つたのである。その手順と隠謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。

これに対し、赤穂浅野家は、豊臣秀吉の五奉行の一人であつた浅野長政の末裔で尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあつた。そもそも、山鹿素行が赤穂藩へ配流されたのは単なる偶然ではない。赤穂浅野家が幕府に山鹿素行の配流先として強く願ひ出た結果であつた。

ともあれ、幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでゐた。そこで、製塩事業で藩財政が豊かである赤穂浅野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)に浅野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穂浅野家は、その後莫大な資金投入を余儀なくされるが、これを尊皇実践の名誉と受け止め、赤穂城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭はず、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。

しかし、御所落成を機に、寛文3年(1663)、後西天皇は遂に退位され、霊元天皇が即位された。幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言はざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この禁裏御所御定八箇条の発案は、まさに吉良上野介によるものであつた。

かくして、元禄14年(1701)3月14日、勅使、院使の江戸下向の折、その饗応役の赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊下において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央に対し「天誅」の刃傷に及び、その結果、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家断絶。その後、赤穂義士は、臥薪嘗胆して吉良上野介に対し主君が果たせなかつた「天誅」を全うした。そして、これを成功に導いた吉良邸の構造と吉良の上野介の在否に関する最重要の情報を提供した協力者には、國學の四大人の一人である荷田春満がゐた。これが赤穂義士事件の秘められた尊皇運動の真相である。

この事件により山鹿素行の「中朝事実」は、國體護持の実践力が付与され、以後、これが伏流水となり、幕末へ向かつて、さらに、昭和へ向かつて流れ出る。

まづ最初に流れ出たのが、宝暦8、9年(1758~9)の宝暦事件とそれに引き続く明和3年(1766)の明和事件である。竹内式部、山県大弐、それに赤穂藩の遺臣の子であつた藤井右門らは、皇権の回復を幕府に迫つた。しかし、幕府は、この二つの事件を通じて、尊皇論者の大弾圧を行ひ、藤井右門ら三十余名を処刑したのである。これは、後に尊皇攘夷派を弾圧した安政5年(1858)の安政の大獄に勝るとも劣らない大弾圧事件であつた。そして、この安政の大獄で処刑された吉田松陰は、長州藩の山鹿流軍学師範であり、その志と思想は「中朝事実」によつて培はれたものである。

ともかく、安政の大獄では、多くの尊皇攘夷派が弾圧されたが、中でも最大の打撃を受けたのは水戸藩である。しかも、その人的損失もさることながら、最も大きな精神的痛手を受けたのは水戸学であつた。水戸学は、尊皇思想による大義名分論に基づいて、それまでは尊皇攘夷運動の指導的役割を果たしたものの、水戸藩が徳川御三家でありながら安政の大獄で処分されたことから御三家の「名分」を損ねる結果となつたため、水戸藩としてはこれまで通りの尊皇攘夷運動はできなくなつた。そこで、「大義」と「名分」とを両立させるためには、水戸藩の藩士によることなく、脱藩浪士による運動しかない。そして、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変を起こし、遂には、隠忍自重の藩士の憤懣が爆発して藩内が分裂し、天狗党の乱(筑波山事件)を起こした。しかし、もし、水戸藩が御三家といふ「名分」を捨てれば、尊皇攘夷運動は、尊皇倒幕運動へと容易に転換できたのであるが、やはり大義名分論の水戸学では限界があり、天狗党の乱は、最後の暴発であつた。しかし、結果的には、桜田門外の変と坂下門外の変といふ二つの政治テロが実質的には御三家の水戸藩が行つたことから幕府の権威は完全に失墜し、「攘夷」が「倒幕」へと結果的には時代の大転換ができたのである。なほ、余談であるが、いつの世にも同じやうな構造があるもので、現在の支那における「反日運動」は、平成元年の天安門事件が「反日」から「反政府」へと転換したのと同じやうに、近い将来において、名分としての「反日運動」が大きな「反政府運動」へと転換して、共産党一党独裁の不条理な中共政府は、抑圧された人民による新たな「支那革命」によつて打倒されるであらう。


閑話休題。「中朝事実」は、明治維新を経て明治期までは伏流水となつてゐたが、これが大正期に再び地表へ現れる。それは、乃木希典によつてである。乃木希典は、吉田松陰亡き後の松下村塾最後の塾生であり、皇道の実践者として明治天皇に殉死した。その殉死の直前、学習院長の立場として昭和天皇(当時は皇太子)に「中朝事実」を贈られたのである。乃木希典は、昭和天皇がその後に大きく欧米への憧憬へと傾斜されて行くことを予期して強く懸念し、この傾向を食ひ止めるための諫言であり、明治天皇に殉死する形で、昭和天皇に向けて諫死した。「中朝事実」は、乃木希典の諫死奏上文であつた。これが乃木希典殉死の隠された真相である。

いづれにせよ、「中朝事実」は、尊皇運動において重要な歴史的意義を有するが、これだけで尊皇運動の系譜を語ることが乱暴な議論であることは承知してゐる。しかし、尊皇思想とその実践は、國學だけから導かれるものではなく、山鹿素行のみならず古学へと傾倒した儒学者である伊藤仁斎、荻生徂徠らの思想、垂加神道を創始した山崎闇斎らの思想などからも同時多発的に出たものであつて、さながら「一口に出づるが如し」であつた。しかし、中でも山鹿素行の「中朝事実」がその象徴的な歴史的意義と思想を有してゐたことだけは確かであつた。

二・二六事件

これまで述べてきたとほり、國體と皇統の護持については、平和裡に実現できることが望ましいものの、古くは和気清麻呂や楠正成などの例にあるやうに、緊急時においては謀略や実力を行使してでも実現しなければならないことがある。

歴史的に見て、謀略又は実力の行使がなされた政治の刷新又はその企ては、必ずしも國體護持の方向でなされる場合に限らない。皇位簒奪など國體破壊の方向でなされることもあつた。

特に、政治中枢における謀略又は実力の行使による政治の刷新は、我が国において、大化の改新、壬申の乱、建武の中興、本能寺の変、明治維新といふ成功例以外は全て失敗例である。磐井の乱、承平・天慶の乱、承久の変、正中の変、元弘の乱、応永の乱、永享の乱、嘉吉の乱、慶安の変(由井正雪の乱)、大塩平八郎の乱、大和五条の変・十津川の変(天誅組)、生野の変、禁門の変(蛤御門の変)、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争、秋田事件、飯田事件、群馬事件、加波山事件、名古屋事件、静岡事件、三・一独立運動、霧社事件、三月事件、十月事件、五・一五事件、神兵隊事件、十一月事件(士官学校事件)、二・二六事件、八・一四事件など失敗例は枚挙に遑がない。

これら政治の刷新とその企てについては、クーデター、政変、事件、戦争、乱、変、革命など様々な名称や概念が用ゐられるが、中でもクーデターといふ概念は、革命の概念と対比されるものとして用ゐられることが多い。

このクーデターの概念について、支配階級の一部がすでに握つてゐるその権力をさらに強化するために、あるいは新たに政権を得るために、同一階級内の他の部分に向かつて、非合法的、武力手段によつて奇襲すること、すなはち、同一階級内の権力移動(急襲的権力把握)であると定義すると、一階級から他階級への権力移動である「革命」と区別することができるが、クーデターを広義の革命ととらへたり、クーデターを上(権力者)からの変革、革命を下(人民)からの変革ととらへたりする考へもある。奇襲とか急襲といふ概念もまた相対的なものであり、瞬時になされるものから、通常の予想される変革からして比較的短期間でなされるものをも含むことになるので、その変革の所要時間を絶対的基準で限定できるものでもない。

また、クーデターの進むべき方向についても、新たに権力を創設(奪取)するもの(創設的クーデター)と、既に奪はれた権力を復元(回復)するもの(復元的クーデター)とがあり、これは、革命の進むべき方向における「正革命」と「反革命」に対応することになる。

このやうに、クーデターの概念は、それ自体が明確に定まらない上に、急襲的に把握した権力の内容とその帰趨は、その時代と法体系などの要素などにより千差万別であるから、これをクーデターといふ一つの概念として厳密に定義付けることの実益は乏しい。ただし、江戸時代における百姓一揆と呼ばれる農民闘争、打ち壊しや幕末のええぢやないか運動などの大衆的狂乱については、その多くが政治体制の転覆などの政治目的を有してゐないことが多いと思はれるので、革命とかクーデターの分類からは除外することになる。

しかし、いづれにせよ、クーデターと聞けば、昭和11年2月26日に起こつた二・二六事件を多くの人が想起するやうに、昭和史において、その規模と現代に至る影響力において最大の事件であつた。ところが、この二・二六事件については、今まで史学の側面からの探求と考察はそれなりになされてきたが、戦前においても戦後においても、二・二六事件を鎮圧するための緊急勅令の渙発と先帝陛下の御叡慮の表明が憲法学的、国法学的に如何なる意味を有するのかといふ法律的な考察は充分になされなかつたので、以下これに言及したい。

二・二六事件の思想的支柱となつた北一輝(北輝次郎)の「国家改造案原理大綱」(大正8年8月)及び「日本改造法案大綱」(大正12年5月)によれば、「天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為メニ天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。」とあるやうに、憲法制定権力を変更せず、国家改造の根拠を帝國憲法の天皇大権に求めてゐるのである。いはば、天皇親政のためのクーデター(体制内権力的政治変革)を指向するものであつて、国法学的分類に従へば、「委任的独裁」の範疇に属する。

この委任的独裁といふ概念は、カール・シュミットの「独裁論」(大正12年)などが詳しいが、これを要約すれば、「独裁」の態様は、独裁権の由来に関する国法学的分類として、「委任的独裁」と「主権的独裁」とに区分される。「委任的独裁」とは、ドイツ・ワイマール憲法第48条のやうに、国家緊急時等において国家の本質的な現存憲法体制を擁護するため、一時的にその憲法条項を停止する独裁形態であり、現存憲法自体の委任による、いはば「現存憲法に基づく独裁」である。これに対し、「主権的独裁」とは、将来の理想的憲法を実現するために、現在の憲法秩序を制定した権力とは異なる新たな憲法制定権力を前提とする、いはば先取り的な「将来憲法に基づく独裁」である。

このことは、政治学的分類としての、「秩序独裁(反革命独裁)」と「革命独裁」との区分に概ね対応する。「秩序独裁(反革命独裁)」とは、現存国家体制秩序を擁護するために、主として革命運動の弾圧を目的とする独裁であるのに対し、「革命独裁」とは、その逆として、革命運動の目的推進のための独裁と云へる。

しかし、いづれにせよ、帝国憲法は、国家緊急時の場合にのみ天皇に委任的独裁権としての戒厳大権などを与へてゐるが、その緊急時といへども、憲法改正手続によらず、戒厳大権や非常大権により憲法事項まで改正することはできないし、また、講和大権の行使による場合以外には、憲法の停止をすることは不可能なのである。

従つて、この北一輝の国家改造思想には、帝國憲法の無理解による立憲的な根本矛盾があり、それは、立憲的に認められた天皇大権に基づいて非立憲的な改造を断行しようとした点である。形式的には委任的独裁(秩序独裁)であるが、実質的には主権的独裁(革命独裁)を断行しようとするものなのである。しかも、憲法護持と憲法破壊(憲法否定)、絶対君主と立憲君主、革命と反革命といふ、いづれも二律背反の事項を混在させようとした思想的矛盾がみられる。このやうに、北一輝の思想は、国内社会改造案に関しては、その方法論において「天皇の意志によらない天皇親政」と「憲法の規定によらない憲法改正」を指向した大いなる自家撞着に満ちたものであつた。

ともあれ、二・二六事件は、この北一輝の思想に基づき、「元老、重臣、軍閥、官僚、政党等は此の國體破壊の元凶なり」とした「蹶起趣意書」を以て断行されたクーデター未遂事件であると認識しうる。

ところで、二・二六事件の結末は、次の経過を辿る。

翌2月27日午前2時40分、皇居にて枢密院会議が戒厳令の施行を決定。同日午前3時50分、「朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮問ヲ経テ帝國憲法第八条第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム」との緊急勅令により、同日から叛乱軍将校が処刑された後の同年7月18日まで帝都(東京全市)に戒厳令が施行。同日午前8時20分、天皇は、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲシテ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属師団長ノ隷下ニ復帰セシムヘシ」との奉勅命令を親裁された。そして、同年3月4日には、同じく緊急勅令により東京陸軍軍法会議が設置されて、この事件は封印されることとなつた。

何故さうなつたのか。

このことについての手懸かりは、本庄繁侍従武官長の日記にある。この日記よれば、以下のやうな同年2月27日の陛下に拝謁の折りの陛下と本庄との会話がある。

本庄 「彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神に至りては君国を思ふに出でたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」

天皇 「朕が股肱の老臣を殺戮すかくのごとき凶暴の将校等その精神においても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」

本庄 「彼ら将校としてはかくすることが国家のためなりとの考へに発する次第なり」

天皇 「それはただ私利私欲のためにせんとするものにあらずと言ひうるのみ」

との会話がなされ、

「此の日陛下には鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮あられられ『朕自ら近衛師団を率ひ、これが鎮定に当らん』と仰せられ真に恐懼に耐へざるものあり」

とある。

そして、陛下は、「自分としては、最も信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、自分を真綿にて首を絞むるがごとく苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭にももとり、国体を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に粛軍の実を挙げ再び失態なき様にせざるべからず。」との御叡慮を示され、叛乱軍は、宸襟を悩まし、軍人勅諭に背き、國體明徴を汚す者となつたのである。

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