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トップページ > 各種論文目次 > H17.01.17 國體護持:クーデター考2(続き)

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顕教と密教

しかし、この点について、陛下自らが御叡慮を示されることは、立憲君主制度としての帝國憲法の運営上は問題であるとする指摘がある。また、これと同様の理由で、ポツダム宣言受諾に際しての「御聖断」についても同様の指摘がある。

そこで、二・二六事件においてなされた緊急勅令による戒厳令のみならず、ポツダム宣言受諾時における「御聖断」とその際における御叡慮の表明をも含めて、これらが國體と皇統の護持についていかなる意味を有してゐたか、その国法学的意義と帝國憲法上の位置づけを考察してみたい。

それは、陛下御自身が、二・二六事件における討伐命令と終戦の御聖断との「二回だけは積極的に自分の考へを実行させた」(昭和天皇独白録)とあることによるものである。

確かに、帝國憲法が立憲君主制の憲法であるならば、この「二回」がいづれも違憲の措置であつたとの批判は正鵠を射たものと云へる。ところが、帝國憲法には、一方においては、立憲君主制の根拠となるべき規定(第4条、第55条、第56条など)が存在するものの、他方において、第五条以下に数多くの天皇大権条項を有し、専制君主制の色彩の濃いものになつてゐるのであるから、帝國憲法の本質を把握しなければ、この批判の当否を判断できないことになる。

帝國憲法は、その規定から明らかなやうに、立憲君主制的要素と専制君主制的要素との双方が混合されたものであるが、実際には、天皇大権に属する事項、就中、統帥大権について、明治期までは専制君主的に、大正期以降からは、専制君主制的側面を極力制限して、立憲君主制的に運用されてきた。

つまり、明治22年2月11日に発布された大日本帝國憲法(帝國憲法)に先立つこと約7年前に軍隊に下賜された軍人勅諭(明治15年1月4日)には、天皇が大元帥として軍隊を直接統率し、臣下には責任がない旨が述べられてゐたのであつて、これにより、統帥権は、帝國憲法制定前において既に国務大臣の補弼外とされ、大元帥直属の大本営の幕僚長である陸軍参謀本部の長官である参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍、昭和8年に海軍軍令部長と改称)が補翼することになつたゐた。そして、これは帝國憲法制定後も踏襲され、統帥権の独立といふ憲法慣習が存在してゐたからである。

しかし、「補弼」と「補翼」とでは、全くその性質は異なる。国務大臣(内閣)の補弼は、まさに「君臨すれども統治せず。」の立憲君主制を意味するのに対し、補翼は、天皇大権たる統帥権を陛下自らが行使するための助言に過ぎず、あくまでも専制君主制を意味してゐたはずである。ところが、大本営は、天皇大権である統帥権を陛下から簒奪し、「大元帥であれども統帥せず」と、国務に関する国務大臣(内閣)の地位と同等にしてしまつたのである。つまり、国務に関する内閣(国務大臣)に加へて、統帥に関する大本営といふ、いはば「統帥内閣」が大正期以後に出現したのである。これは、元老会議の終焉と時期を同じくするものであつた。そして、昭和天皇も、この「国務内閣」と「統帥内閣」の二つの内閣を承認し、統帥権の機関移譲がなされることとなつた。そのため、「二回だけは積極的に自分の考へを実行させた」といふ認識になるのである。もし、明治期における帝國憲法の解釈運用のままであれば、これに加へて、「統帥権に関しては一度も自ら統帥しなかつた」と反省の告白されたことであらう。

ともあれ、このやうな解釈運用の環境下で、統帥権干犯問題(昭和5年)と天皇機関説論争(昭和10年)が起こる。

穂積、上杉の天皇主体説は、天皇即国家とし、天皇の超憲法的権威を主張したのに対し、有賀、美濃部の天皇機関説(創始者は一木喜徳郎)は、天皇を国家機関であると主張したが、美濃部もまた天皇超政論を展開し、「君臨すれども統治せず。」として、いづれも天皇が統治し或いは統治権の総攬者であるとする帝國憲法第1条と第4条を死文化することで両説は実質的に一致してゐた。つまり、両説とも、帝國憲法の立憲君主的運用に異論はなく、天皇の地位を機関と呼ぶか否か、つまり天皇を公務員(官吏)の地位と同じ意味を有する「機関」といふ呼称を用ひてもよいのか否かといふ心情的対立が底流にある皮相な論争であり、学理的には不毛の議論であつた。

そして、昭和期においては、司法界と高等教育機関(大学)では天皇機関説が支配し、初等教育と軍部においては天皇主体説が支配し、天皇機関説は「顕教」、天皇主体説は「密教」と揶揄された。

この対立は、具体的には統帥大権について、これを立憲君主的に捉へて内閣の輔弼によるものとするか、あるいは専制君主的に捉へて内閣の輔弼を必要としないもの、すなはち、統帥権の独立を認めるか、といふ帝國憲法の本質論と運用論の問題に集約された。つまり、昭和初期になつて、帝國憲法を大英帝国における立憲君主制の趣旨であるとする解釈が学者と司法の世界で主流となり、統帥権についても、これが陛下の総覧される統治権(帝國憲法第4条)に含まれ、それも国務大臣の輔弼(同第55条)に含まれるとする統帥権の独立を否定する解釈も試みられた。

そして、この「顕教」と「密教」の対立による帝國憲法の本質論と運用論については、むしろ、皮肉なことに、学者からの問題提起ではなく、内閣が帝国憲法第13条の天皇大権(条約大権)を輔弼して昭和5年4月22日、「ロンドン海軍軍縮条約」に調印したことについて、同月25日の衆議院本会議で、政友会総務鳩山一郎が政府(浜口雄幸首相)を攻撃する演説をしたことに始まり、同日、軍部が、これを統帥権の干犯であるとして政府を攻撃し、浜口雄幸首相が、同年11月14日、東京駅で佐郷屋留雄(愛国社)に狙撃され重傷を負ひ、翌年死亡するといふ事件にまで発展した、いはゆる「統帥権干犯問題」の議論の中にこそ、その根本的課題が含まれてゐたのである。

そして、この統帥権干犯問題は、その後に天皇機関説論争(昭和10年)へと飛び火し、遂に「密教」による「顕教」への逆襲は完成する。美濃部はこのとき、「統帥大権の作用が国務大臣の責任の外におかれることは・・・不当にその範囲を拡張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て国政を左右し、軍国主義の弊極まるところなし」と主張したが、後の祭りであつた。

つまり、ここで整理すると、統帥権の独立といふ問題には二面性があり、一つは、統帥権が議院内閣制による国務事項(統治権)に含まれるか否かといふ点であり、もう一つは、統帥権が天皇自らが行使しうる大権事項として認められるものか否かといふことである。そして、天皇、内閣、そして統帥部(大本営)の三つ巴の様相となるが、いち早く天皇が埋没し、後は内閣と統帥部との確執が戦後まで続けられることになつたのである。

かくして、統帥権について、明治期までの専制君主的権限が大正期以降に立憲君主的な行使に留まつたことによつて「権力の空白」が生まれた。つまり、この「統帥権干犯問題」の背後にある「統帥権の独立」といふ軍部の主張は、天皇の超憲法的権威(天皇主体説)や天皇超政論(天皇機関説)といふ見解に基づき、「君臨すれども統治せず。」といふ帝國憲法の立憲主義的運用に隠れて、政府の干渉を受けずして軍部が独断専行する契機を与へたものであり、これが張作霖爆殺事件に始まり柳条溝事件、満州国建国に至るまでの軍部の独断先行と、それを統帥部及び内閣が追認することによる統帥と国務の不一致、軍令と軍政の不一致といふ複合構造を生んだのである。

ところが、そのまま敗戦へと向かふことになつたものの、帝國憲法第13条の講和大権に基づいて、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印したことによつて、我が国は有条件降伏の内容として、我が軍の無条件降伏と完全武装解除を約した。そして、この講和大権の行使の結果、統帥大権(同第11条)及び陸海軍編制大権(同第12条)の行使は停止されることになつた。その意味では、講和大権は、統帥大権及び編制大権よりも上位に位置する天皇大権であるといふことであり、このことは、大東亜戦争の終局段階において証明されたのである。

そもそも、統帥権干犯問題においては、統帥大権(同法第11条)と条約大権(同法第13条)のいづれが優先するのかといふ議論は全くなされなかつた。もし、条約大権が統帥大権及び編制大権よりも優先するとの解釈が肯定されれば、そもそも統帥権干犯問題が起こりうる余地は無かつたかも知れないのである。

しかし、ポツダム宣言の受諾に際して、この大権相互間の優先関係について、現実に決着をつけなければならない事態に直面した。この事態は、「鈴木マジック」とでも呼ぶべき卓見によつて乗り越えられたのである。その事実経過はかうである。

昭和20年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は、同年6月8日、御前会議において、聖戦完遂、國體護持、皇土保護の国策決定を行ふ。これは、本土決戦に至る統帥大権に関する問題であつて、これまで通り統帥権の独立が認められてゐるため、内閣の輔弼が及ぶ事項ではない。しかし、戦局はさらに悪化し、ポツダム宣言受諾の方向へと動く。ポツダム宣言を受諾するについては、一般条約及び講和条約の締結といふ帝国憲法第13条を根拠とする外交問題であるから、立憲君主的に、内閣の補弼による運用がなされてゐた事項であつた。そこで、鈴木首相は、統帥大権の帰属者である大元帥の地位と帝国憲法上の天皇の地位とを理念上区別し、大元帥は天皇が兼務するだけで、大元帥も天皇の家臣であるとの見解を打ち立て、同年6月8日になされた統帥大権による聖戦完遂の国策決定と、講和大権によるポツダム宣言の受諾とは、何ら矛盾しないと結論付けた上でポツダム宣言受諾に至つたのであつた。

このやうな解釈が統帥権干犯問題の際に認知されてゐたならば、「統帥大権を干犯したのは条約大権である。」といふ逆説的説得によつて、そもそもこのやうな問題が起こらなかつたか、あるいは少なくとも冷静な対応がなされたはずである。このときにも、憲法学者の誰一人としてこの鈴木マジックの論理に気付いた者は居なかつた。そして、その後も帝國憲法を改正して現行憲法が制定される際に、現行憲法無効論を体系的に唱へた学者は一人も居なかつた。これは国賊にも等しい知的怠慢であつた。いつの時代でも、憲法学者とは、肝心なときには何の役にも立たない種族のことであり、今後も自己保身のために現行憲法無効論を必死になつて拒み続ける抵抗勢力となることであらう。

ともあれ、この鈴木マジックにより、専制君主的な「御聖断」が生まれ、結果的には、臣民の生命と財産に対するこれ以上の惨禍が及ばないこととなり、同年6月8日の御前会議における国策決定のうち、國體護持、皇土保護は実現したのである。

しかして、顕教と密教の確執は終つた。しかし、このことが帝國憲法に照らして容認しうるか否かとは全く別問題であり、「結果良ければ全て良し」として思考停止することはできないのである。

天皇の側からのクーデター

ところで、帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある点について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」とする天皇機関説からの見解(美濃部)があつた。

専制君主的色彩のある帝國憲法と雖も、それが立憲的(合憲的)に運用されることは当然のことであつて、ここでいふ「クーデター」が非立憲的軍事行動(違憲的軍事行動)を意味するとすれば、これは自明のことを述べたものに過ぎない。しかし、このことは、二・二六事件の収拾処理と大東亜戦争の敗戦処理について、これらを「天皇側からのクーデター」の見地から国法学的に考察することは決して無意味なことではない。

まづ、二・二六事件の収拾処理について、その叛乱鎮圧を口実としてもう一つのクーデター、すなはち、緊急勅令による戒厳令の渙発下での新たなクーデターの可能性があつたのではないかといふ点を検討したい。

そもそも、二・二六事件の鎮圧のために戒厳令が必要不可欠か否かについては、政府、軍部内にも意見の対立があつた。しかし、この問題については、史実はともかく、クーデター(未遂)といふ緊急事態に対して、帝國憲法はどのやうに運用されるべきかといふ国法学的課題として捉へる必要がある。

もし、帝國憲法が立憲君主制的運用しか許されないとすれば、即日、戒厳令といふ専制君主制的措置がなされたこと自体を問題にすべきであつて、戒厳令の必要性を充分審議してから渙発されるべぎであつたからである。しかし、当時はそのやうな議論はなかつたし、緊急勅令による戒厳令は、形式上はあくまでも帝國憲法に基づいて立憲的に渙発されたことになる。

しかし、このことから直ちに、これら措置が「天皇の側からのクーデター」のやうな非立憲的措置ではなく、反立憲的、憲法破壊的な二・二六事件の鎮圧を立憲的に行つたことになると断言できるのであらうか。

なぜなら、陛下は、その独白録にもあるやうに、様々な時期においてクーデターを懸念されてゐた。そして、その嚆矢が二・二六事件であり、専制君主的行動もこのときが初めてである。さらに、二・二六事件の蹶起将校である安藤大尉が処刑のとき、「天皇陛下万歳」ではなく、「秩父宮殿下万歳」と唱へたことや、その後の統帥人事においても、二・二六事件に心情的理解を示した軍人を疎まれたことなどから、この機に乗じて陛下を排除しようとする勢力に対抗するための防御的な「天皇の側からのクーデター」として、緊急勅令や討伐命令が渙発されたと推測することも不可能ではない。

そもそも、過去におけるクーデターの成功例は、壬申の乱のやうな特殊な事例を除いて、全て「玉」を擁した錦旗行動であつたからである。幕末のとき、薩長の藩士たちは天皇を将棋の「玉」に喩へてこの「玉」の争奪を画策し、それを成功させたのである。このことからして、二・二六事件が失敗した最大の原因はこの「玉」の問題であつた。つまり、叛乱軍は、中橋基明中尉による近歩三(近衛歩兵第三連隊)の部隊をして、これを赴援隊と詐称して皇居(宮城)に入れ、守備隊本部を占領し、坂下門を閉鎖して重臣や要人の参内を拒んで天皇を擁し、もし、そのクーデター目的を達成するための勅令が渙発されないときは天皇を弑逆することもやむを得ないといふ計画を立ててみたものの、その重要性を全く認識せず呆気なく失敗に終はつてゐる。これではクーデターが成功するはずはなかつたのである。そして、この計画とその失敗についても、幻の「陸軍大臣告示」のやうに、「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」であらうから、これが叛乱軍による秩父宮擁立の噂と重なることもあり得たからである。

ともあれ、帝國憲法には、専制君主的な色彩のある規定と立憲君主的な色彩のある規定とが併存してをり、制定当初からの解釈運用が変遷してきたことは前述のとほりである。しかし、帝國憲法が原則として立憲君主的な憲法であつたことは、帝國憲法の制定過程からして明らかであつた。すなはち、「帝國憲法草案」が立案された際、この草案第4条(帝國憲法第4条と同じ。)の審議において、絶対君主制を強調し天皇大権は憲法以前の存在であるとする立場から、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」との規定のうち、「此ノ憲法ノ條規ニ依リ」との部分の削除を求める主張がなされたのに対し、伊藤博文は、この規定を立憲君主制移行への根拠規定として説明し、この削除の主張を退けた経緯があつた。このことは、法形式の静的観点から帝國憲法を判断した場合、二つの異なる理念を持つ矛盾した規範といふことになるが、「規範は自らが予定してゐる方法で進化する」との「動的規範」の観点からすれば、帝國憲法は、絶対君主から立憲君主へと進化するための規範であつたことになるからである。

それゆゑ、それぞれの天皇大権がどのやうな状況においてどのやうな要件に基づいて行使されるかは、時代の変遷とともに流動的であるとしても、国家緊急権の発動における緊急性の要件を以て制約されてきたことは確かであつた。

それは、平時における法体系と非常時(戦争、内乱、大災害など)における法体系の法体系二元論の芽生えであつた。そもそも、平時と非常時とでは、価値体系、価値の優先順位を異にする。平時では言論により「話せば解る」と信じて説得できたものが、非常時には「問答無用」として命を奪はれる結果にもなる。戦争や内乱や大災害は、「民主的」に起こるものではなく、言論の自由、表現の自由などは、平時においては最大の尊重を必要とするのは当然のことであるが、多くの命が奪はれるか否かの国家的な緊急事態のときに、これらの自由の主張は虚しく無力であり、内乱勢力の集会結社の自由の保障は、国民の生命、財産の喪失と直結するものであるから、価値体系が平時の場合と非常時の場合とでは異なるのである。

法体系といふものは、法的保護に値する価値の体系に基づいて構築されるものであつて、平時における価値体系と非常時における価値体系がそれぞれ異なるのであれば、自ずとそれぞれの法体系をも異にするのは当然のことである。また、非常時においては、民主制の原理で慎重な審議を経て決議するといふ手法では機を逸する事態となり得るのであつて、決議とその実施には迅速性と機動性が要求される。

ここに、民主制、立憲制の根本体制を維持・擁護するためのものとして、その権限の範囲及び事項並びに期間等を限定した「委任的独裁」が、その必要性の所産として登場するのである。つまり、たとへば現行憲法のやうに、国家緊急事態に対応する規定を持たないものの規範領域は、平時に限定され、非常時に関しては規範領域外となり、超法規的措置がとられる領域となる。そして、人権条項を含む全ての条項には、明文規定はないものの、「ただし、戦時(非常事態時)の場合を除く。」といふ但書があることになる。

ともあれ、以上の様々な考察からずれば、二・二六事件の収拾処理において、それが明らかに戒厳大権行使における緊急性を満たさないと判断される場合でなければ、その措置は帝國憲法に適合し合憲であると判断されることになる。

では、次に、大東亜戦争の敗戦処理についてはどうか。

つまり、ポツダム宣言受諾の際の陛下の「御聖断」についても、「天皇の側からのクーデター」ではないかとの同様の指摘があり、これが帝國憲法において許容されるのか否か、そして、その後になされた帝國憲法の改正法としての現行憲法制定手続、就中、その中心的な部分となる天皇による現行憲法の「公布」は、帝國憲法に適合するのか否かといふ点である。

まづ、「御聖断」とは、ポツダム宣言受諾といふ講和大権の行使であつて、この時点ではその行使についての要件である緊急性は紛れもなく存在した。それゆゑに帝國憲法に適合して合憲である。

しかし、その後、帝國憲法の改正法である現行憲法の制定について、帝國憲法第73条に基づく勅命による発議と公布についてはどうか。結論を言へば、この憲法改正大権の行使には全く緊急性の要件を満たさないのであつて、帝國憲法に違反して違憲無効である。「天皇と雖も帝國憲法の下にある」ことは、第4条の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」とすることからも当然のことなのである。

そして、その改正手続の違憲に加へて、現行憲法の内容は、明らかに國體破壊の内容であるから、これもまた違憲無効である。現行憲法の制定により國體の変更があつたか否かについて、八月革命とか、八月クーデターとかの議論は、今では淘汰された噴飯ものの理論であるからここでは触れないが、GHQによる直接全面占領が国内的には緊急勅令(ポツダム勅令)に基づてなされ、その占領下で現行憲法が制定されたといふ点については、帝國憲法に基づく立憲的措置とはほど遠いものであつたことは確かであり、その意味からして、現行憲法制定に至る経過は、まさに反立憲的なものであり、また、その内容において反國體的なものであることは多言を要しない。つまり、現行憲法には、手続的正義(合法性)も実体的正義(正統性)もない。それゆゑ、これはGHQの恫喝による「天皇の側からのクーデター」、あるいは「外国勢力(GHQ)の助けを借りた天皇の側からのクーデター」といふべく、この帝國憲法の改正としての現行憲法制定手続とその内容は絶対に帝國憲法が容認するものではないのであるから、現行憲法は帝國憲法の改正法としては絶対に無効である。いはば、現行憲法の制定は、帝國憲法の改正の名による反立憲的(反國體的)クーデターなのであり、承詔必謹論を以てこれを容認することは反國體的言説に外ならない。そして、結論的には、後に述べるとほり、國體護持のため帝國憲法と正統皇室典範を復元させる一切の措置がとられるべきであつて、その目的のため「復元的クーデター」によつて現行憲法と占領下の皇室典範(皇室弾圧法)を排除して帝國憲法秩序を回復することは、帝國憲法によつて立憲的に容認されてゐるのである。

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