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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第十五回 天皇の赤子

たみくさに こびへつらひて えらばれし おみがうらでは たみをあなどり  (民草(大衆)に媚び諂ひて選ばれし臣(政治家)が裏心では民(大衆)を侮り)


前回(第十四回)では、水子(みづこ)や赤子(あかご)について述べましたが、今回は、天皇の赤子(せきし)について述べてみたいと思ひます。


天皇の赤子とは、天皇(皇統)を親に見立て、臣民を子に見立てることからできた言葉です。そして、天皇の赤子である臣民には、孟子のいふ「赤子の心」が求められるのです。


天皇の赤子が、純真な「赤子の心」によつて、やむにやまれぬ心で行動するとき、時と場合によつては天皇に対する「直訴」といふ行動様式をとることがあります。

帝国憲法第30条によれば、「日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」とありますので、請願といふ方法で天皇に奏上することは可能ですが、この手続を経ずに「直訴」することは、昔からよくありました。。


昨年10月31日の園遊会で今上陛下に直接に書簡を手渡すといふ、山本太郎参議院議員の行為があつて物議を醸しましたが、これは、請願法による手続は経てゐないとしても、相当の敬礼を守るといふ帝国憲法の定めた憲法事項を満たしてゐますので、請願法に関する規定に違反してゐるとしても帝国憲法自体には違反してゐないので違憲な行為ではありません。


ところが、この行為について、天皇を政治利用したといふ批判が起こりました。しかし、これは、本当に天皇を政治利用したことだつたのでせうか。


「天皇の政治利用」といふ言葉は、占領憲法下で生まれた言葉ですが、そもそも「天皇の政治利用」とは、占領憲法の本質であることを誰も指摘してゐません。

占領憲法第1条は、「天皇条項」として喧伝されてゐますが、「この地位(天皇の地位)は、主権の存する国民の総意に基く。」とありますので、この条項は、「国民主権」条項であり、「天皇条項」ではないのです。主権者である国民が主人であり、天皇はその家来または傀儡であり、天皇の生殺与奪の権利は国民が掌握してゐるのだと高らかに謳つた「国民主権条項」として占領憲法の冒頭の第1条に掲げられてゐるのです。


昭和21年6月26日、帝国議会の衆議院帝国憲法改正案第一読会で、衆議院議員北浦圭太郎は、「八重、花ハ咲イテ居リマスルケレドモ、山吹ノ花、実ハ一ツモナイ悲シキ憲法デアリマス」と発言しました。占領憲法は「山吹憲法」であると嘆いたのです。


アメリカでは宗教的倫理感から堕胎を禁じてゐますので、そのやうな立法をGHQが指示して成立させたといふことが暴露されると、自国においても批判の矢面に立つことになるので、さう言はれないために、GHQの意向を受けて、これに迎合した傀儡議員たちが集まつて議員立法の形式で「優生保護法」(昭和23年)を成立させました。この法律は、明らかに「胎児虐殺法」なのです。


八重咲きの山吹(やへやまぶき)は、花は咲いても実が生らないのです。それと同じやうに、第1条から第8条までの8箇条の天皇条項と呼ばれてゐるものには、元首たる天皇としての「実」がない憲法であるといふのです。

つまり、国民主権下の象徴天皇制(傀儡天皇制)定めた占領憲法は、立憲君主制憲法ではなく、実質的には共和制憲法に過ぎないと嘆いたのです。


そして、北浦は、これに続いて、「山吹憲法ナドト失礼ナコトヲ申シマシテ、或ハ関係筋カラ私ハ叱ラレルカモ分リマセヌガ・・・」と発言しましたが、この「関係筋」とはGHQのことです。北浦は、GHQが立憲君主制憲法に偽装して共和制憲法を作つたことを「山吹憲法」といふ表現で指摘したのでした。


ですから、占領憲法は、「立憲君主制の憲法」ではなく、「象徴」といふ全く実体のない美辞麗句を用ゐた「共和制の憲法」であり、傀儡天皇(家来天皇)を「象徴」として規定するもので、天皇を共和制国家の単なるアクセサリーとすることを意味してゐるのです。いはば「お飾り天皇制」なのですから、本質的に天皇を「政治利用」したものなのです。


従つて、占領憲法を「憲法」であると認める輩からすれば、天皇の政治利用は占領憲法の根本精神であるとして、これをどんどんと推進すべきなのに、誰もこれを主張しないのは、余りにも不思議なことなのです。


ですから、山本太郎議員が天皇を政治利用したと批判することは、占領憲法の精神からすれば、とんでもない「違憲」の主張であり、直ちに粉砕されなければならないことだつたのです。


ところで、山本議員の天皇に対する直訴は、田中正造の直訴と同様か否か、請願法に照らして違法か否か、などといふ議論がありましたが、これらは、極めて次元の低い議論です。問題の本質は、そんなところにあるのではありません。

そもそも、山本議員は、議員であるゆゑに、園遊会といふ限定された特権的機会に参加できたのであり、この特権を附与したのは一体誰なのか、といふことです。


政治家や著名人などに限定し、その者だけに園遊会に出席できるといふ特権を付与するのは、天皇の赤子を「成果主義」とか「功名主義」によつて公然と差別し、一視同仁の大御心に悖ることなのです。


園遊会の参加人数に制約があるのであれば、全国的に抽選にて平等の方法で選別すればよいのではないでせうか。

昨今の問題意識には、この視点が全く欠落してゐるのです。


このことこそが重大問題なのであると初めに指摘したのが、血盟団事件で、元大蔵大臣である井上順之助を暗殺した小沼正であると私は思つてゐます。

小沼は、御大典の特別観兵式の日に青山で陛下の行幸の列に出くはした際、洋服を着た者だけが沿道に通され、仕事着の法被を着た職人の小沼は警官から沿道に出るのを阻止されました。


身なりや外観的なもので社会的地位を判断されて差別されたのです。そのとき、小沼は、「私達だつても天皇の赤子ぢゃないか」と憤慨したことが、井上日召の血盟団事件に参加して、天皇と赤子とを隔てる特権階級を膺懲することの動機の一つとなりました。


小沼は、血盟団事件の裁判において、「私としては沿道に於ても天皇の行列を拝さうとするのを阻むのは天皇の御心ではない。中間に居る無理解なる役人達が阻止するのだと云ふ風に感じました。」と述べ、「今の特種特権階級なる者が、皇室と国民の中間に介在して、而して皇室をして国民の生活の中から分離して仕舞ふた、而して皇室の御聖徳は彼等によつて中断させてしまふた。」と獄中手記でも書いてゐます。


足尾銅山鉱毒事件で農民のために奔走して議員を辞し、明治天皇に直訴した田中正造の行為を評価する一方で、山本太郎議員が今上陛下に手紙を手渡した行為を評価しないといふ、論理無視の喧しい感情論を言ふ者も居ますが、そのやうな人たちは、田中正造の直訴状は幸徳秋水が書いたことを知つてゐるのでせうか。


いづれにせよ、行為者の内心や思想は別として、相当の敬礼を守つてゐるのであれば、現象面では、田中正造と山本太郎議員の行動に違ひはありません。


しかし、この両者に決定的な違ひがあるのは、田中は、議員を辞して、誰でも可能な方法で直訴を行ひ、決して議員としての特権を行使して直訴したものではないのです。これに対して、山本議員は、園遊会参加者として特権を与へられ者が、その特権を利用して行つたといふことです。


特権に便乗した行為であることを批判するのであれば当然に理解できますが、思想信条や手段方法だけによつて峻別できるものではないのです。


虎ノ門事件を起こした難波大介の行為は、その外形的行為(犯罪行為)によつて処罰されたのであつて、もし仮に、難波大介が、田中正造と同様に書面によつて相当の敬礼を守つて直訴したのであれば、その内容が不敬罪に該当するものであつても、請願としては認められるべきであり、不敬罪としてのみ処断されるべきであるといふことになります。


山本議員の行動のことで、「政治利用」といふ言葉が空虚に一人歩きしました。これについては、手紙を渡す行為自体が政治利用だとか、手紙を渡そうとしたことをマスコミが取り上げることを見越して行つたことがマスコミの利用を手段とした政治利用だなどの様々なことが言はれましたが、このやうなことは余りにも瑣末な議論です。


よく考へてほしいのです。占領憲法こそが天皇を政治利用する構造になつてゐることを忘れてはならないのです。天皇は「国政に関する権能を有しない」とする象徴といふ美名の「傀儡天皇」の存在を認めることこそが政治利用の極地なのです。

前にも述べましたが、占領憲法は、天皇を政治的アクセサリーとして利用した「お飾り天皇制」といふ特徴を持つた「共和制憲法」を目指したものであり、天皇を政治利用することを本質とするものです。「臣民は天皇の赤子」とする帝国憲法と「天皇は国民の家来」とする占領憲法とでは雲泥の差があります。


その根本的なところを批判せずに、個別の現象や人の行為を過大評価して、それが政治利用であるとか、政治利用ではないとかの議論をして大騒ぎするのは、占領憲法の効力論を論ずることなく、改憲だ、護憲だ、と有効を前提として大騒ぎしてゐる構造と瓜二つの雛形となつてゐるではないでせうか。


血盟団事件については、様々な評価に分かれてゐますが、祖国防衛権の行使といふ側面からすると、これを全否定することはできません。この事件を、祖国再生の行動原理の指針として捉へても、あるいは反面教師として捉へても、いづれでも結構ですが、血盟団事件を乗り越えなければ、祖国の再生はできないことを肝に銘じていただきたいと思ひます。


山本議員の行動のことで、「政治利用」といふ言葉が空虚に一人歩きしました。これについては、手紙を渡す行為自体が政治利用だとか、手紙を渡そうとしたことをマスコミが取り上げることを見越して行つたことがマスコミの利用を手段とした政治利用だなどの様々なことが言はれましたが、このやうなことは余りにも瑣末な議論です。


平成二十六年十一月十五日記す 南出喜久治


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