自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H28.12.01 連載:第六十四回 薬漬け

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第六十四回 薬漬け

めしうどに のませつづけし やまひだね くすとあざむく ひとやのつかさ
(囚人(収容者)に飲ませ続けし病種(毒)薬と欺く人屋の司(刑務所、施設、病院))

精神障害とされるものには、重度のものから軽度のものまで様々なものがあるとされてゐる。精神性障害(精神病)、統合失調症、うつ病や双極性障害(躁うつ病)などの気分障害、薬物依存症などの物質関連障害、適応障害や社会不安障害などの不安障害、自閉症やADHD(注意欠如・多動性障害)などの発達障害、睡眠障害などといふやうに、臨床心理学などの「発達」とともに、多種多様の「障害」の類型が大量生産されてきた。


そして、その「障害」の大量生産を支へるものは、精神医療産業による多種多様な向精神薬とその大量生産であり、それを精神科と心療内科を先兵として、患者に大量消費させる構造である。


向精神薬とは、精神に作用する薬の総称である。その中には、統合失調症などの治療剤とされる抗精神病剤や、うつ病の治療剤とされる抗うつ剤、躁病の治療薬とされる気分安定剤、不安障害を改善するとされる抗不安剤、精神活動を高めるとされる精神刺激剤など多くの種類があり、主として、精神科や心療内科で処方されてゐる。


つまり、精神科と心療内科が先兵となつて、向精神薬を患者に大量投薬させて消費させることによつて精神医療産業が飛躍的に発達してきた。いまもその傾向に衰へはなく、隆昌となつてゐる。まさに、精神医療における医薬複合体の構造になつてゐるのである。


これらの向精神薬が用ゐられると、少なからず副作用がある。副作用といふよりは、明らかに新たな疾病を引き起こす。その新たな疾病を抑制するために、さらに別の向精神薬等が投薬され、また、それによる副作用(疾病)が発症するといふ、イタチごっこの泥沼に陥つてゐる。そして、最も重篤な副作用(疾病)が、向精神薬依存症なのである。


つまり、ひとたび精神科や心療内科を受診すると、余程のことがない限り、薬漬けとなり慢性的に通院するリピーターとなる。この精神医療における医薬複合体が、大量の精神障害者を産み出し、殆どがリピーターとなつて、この蟻地獄の餌食となつてゐるのである。


精神医療産業は、精神障害を直すためのものではなく、精神障害者を大量生産するためのものであり、製薬会社が大量に生産した向精神薬を、その先兵となる精神科と心療内科が患者に大量投薬して大量消費する産業循環によつて隆盛となる。まさに、ウィン-ウィンの関係にある。


もし、製薬会社が、精神障害を完治させる薬を製造したのであれば、精神障害者は激減し、精神医療産業が衰退してしまふといふジレンマに直面するが、そんな自殺行為をするはずがない。むしろ、精神障害者数を増やすためには、依存性の高い新薬開発に熱心なのである。


現に、精神障害者は右肩上がりに増加してゐる。気分障害に限定しても、平成8年の患者数が43万3千人(うつ病患者20万7千人)であつたものが、平成20年の患者数は104万1千人(うつ病患者70万4千人)と急増し、現在ではさらに増加してゐる。


日本精神神経学会では、平成16年に、抗精神病薬は単剤での使用が望ましいにもかかはらず、多剤大量処方が改善されてゐない現状を指摘し、平成20年には、過量服薬の危険性に特に配慮が必要である境界性人格障害に対するガイドラインを公開した。また、日本うつ病学会が、平成21年に、「SSRI/SNRIを中心とした抗うつ薬適正使用に関する提言」として、大量処方を避けるべきであるとする一般的な注意点を喚起したりしてゐるが、このやうなことは全く焼け石に水である。

また、平成22年には、厚生労働省自殺・うつ病等対策プロジェクトチームが発足し、その他各種団体の様々な取り組みがなされてはゐるが、精神医療産業の自己増殖問題と向精神薬自体の危険性にメスを入れたものではないので、全く無力なものである。


といふのも、向精神薬を一旦投薬し始めた後に、「一気断薬」を行ふことは命の危険も含むほどの極めて危険な行為であり、そのことからしても、いかに向精神薬が危険なものであり毒物であることがわかるのである。

現に、独立行政法人「国立精神・神経医療研究センター」(NCNP)では、以前から抗精神薬減量法のガイドラインを発表してきたが、一気断薬がいかに危険であるがここにも示されてゐる。

減薬を経て断薬に至るプロセスは極めて複雑で、たとへば隔日漸減投与などの方法で漸減させて行くことをしないと、その患者は、副作用(新疾患)と断薬によるリバウンドの錯乱と後遺症とが背中合はせになつてゐるために、予想外の精神異常と異常行動を生み出すのである。


結論を言へば、向精神薬を用ゐる精神医療自体が根本的に誤つてゐると断言してもよい。そして、このことは、医療全体についても言へることである。もし、医学が進歩してゐるのであれば、医学の進歩に反比例して、病気や患者は激減し、医療費は減少するはずである。人々の「自然治癒力」を高めることに主眼を置かず、やたらと特殊な高額医療や向精神薬、さらには、全く予防効果のない各種のワクチンなどの投薬に頼らうとし、必然的に薬漬けにさせて医療費を増大させて行く。これは医療医学の「進歩」ではなく「退化」である。


このやうな薬漬けの傾向は、社会全体に及んでゐる。特に、外部との接触を回避させて益々閉鎖性が進む各種施設において顕著である。完全隔離またはこれに準じた施設、具体的には、刑務所、精神病院、児童養護施設やこれと同様の管理体制の施設は、外部との接触が困難か、あるいは遮断されてゐるために、いはば、内部で何がなされてゐるのかが解らないのである。その結果、密室での施設内虐待、向精神薬の薬漬けが大つぴらに進む。これによつて施設の経営効率はさらに高まり、経営利益が拡大するのである。


精神病院が刑務所と同様に、ベンサムが考案したパノプティコン構造に類似した施設の構造によつて、極めて少人数で多数の収容者を狭い場所に押し込んで監視し、管理効率を高めて経費節減を実現するために、向精神薬を多用して収容者を薬漬けにする。暴れる者、理屈や文句を言つて職員を手こずらせる者などをおとなしくさせるために投薬する。その投薬を拒否する者に対しては、本人には知らせずに食事に向精神薬を混ぜ、欺し投薬をするのである。こんなことは、刑務所や精神病院だけでなく、障害者施設、特別養護施設、児童養護施設などの施設でも一般でも行はれてゐるのである。


いまや、施設経営の基本は、刑務所の民営化に象徴されるとほり、経済的な観点のみでなされてゐると言つても過言ではない。人道的、道徳的な視点は失はれてゐる。収容者は、収益を上げるための手段であり、できる限り長期に亘つて収容することによつて利益を得る。そして、管理を容易にし管理コストを節減するために、極力外部との接触を拒み、薬漬けにすることである。疾病老人や障害者などの社会貢献ができない人々が施設内で天寿を全ふしてくれることが利益に貢献してくれるのである。


意識を不可逆的に喪失し、専ら延命装置だけで命を繋いでゐるスパゲッティー症候群の終末期患者について、家族の者が延命装置を外して「安楽死」させてほしいといふ要望を医療側が受け入れることはできないのは当然であるとしても、このやうな状況にも、経済上の損得勘定が持ち出される。この家族と病院との関係は、施設収容者の家族と施設側との関係と同じである。


社会貢献ができない者を抹殺するといふナチスの優生思想による安楽死論は論外であるとしても、人の命や生活を損得勘定で判断し、収容者を隔離し薬漬けにしてでも延命させ、あるいは長期収容させることについて、社会貢献ができない収容者の立場を逆手にとつて収容者を金儲けのネタにする損得勘定を以てその家族と施設とがウィン-ウィンの関係を築いてゐる社会の姿は、優生思想で染め上げられた社会に勝とも劣らない残酷でおぞましいものであり、それに麻痺してしまつてゐる人々の意識に戦慄を覚える。


平成28年7月26日に起こつた相模原障害者施設殺傷事件の犯人が、自らの行為は障害者に「安楽死」を与へるものだと発言したことを我々が批判することは簡単であるが、そんなことで終はる話ではない。我々の社会がそれ以上に残酷な組織的構造になつてゐるのではないかとの真摯な反省も必要となるはずである。


親孝行や家族の労り合ひは、「共同社会」の営みであり、分業体制に馴染むものではない。これを他人(施設)任せにすれば、たちどころに「利益社会」の営みとして利害損得を求める分業体制に組み込まれてしまふ。

そして、すべては経済の論理のみで支配され、施設の職員の家族である老人等もまた別の施設に預けられるといふ分業の連鎖となつてしまつてゐる。

つまり、このやうな施設運営に付きまとつてゐる拭ひきれない残酷さの根源は、家族共同生活における扶養関係を崩壊させた「分業体制」にあることを痛烈に自覚し、その改革に尽力しなければならないのである。

南出喜久治(平成28年12月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ