連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編
第六十七回 本家祭國
さがにいき いへをまもりて いのちつぐ いはひまつりの くにからのみち
(本能に生き家族を守りて命継ぐ祭祀の國幹の道)
本能・家族・祭祀・國體の歌
さかしらに おのがかなめと おごれども かげにおびえて とりみだすぬし
(賢しらに己が要と奢れども影に脅えて取り乱す主)
理性・個人・宗教・主権の歌
本能←→理性
家族←→個人
祭祀←→宗教
國體←→主権
理性では心臓は動かせない。本能があるから人類は生き延びてきた。理性とは、「計算能力」のことである。犯罪を犯すのは理性があるからである。本能だけで生きてゐる動物は、無益な殺生もしないし詐欺などもしない。人間だけがそれを行ふ。正しい理性を作る本能強化教育をしないと人間は進歩できないし社会の秩序が乱れる。
人間が理性を働かせて神(God)の観念を作つた。そして、その神(God)から人間が作られた。しかし、その作られた人間が居なければ神(God)は観念されない。そして、その神(God)・・・と永遠に続く「循環矛盾」を抱へてゐるのが一神教である。そのために、人間は、この循環矛盾に苛まれ、信じないことによつて地獄に落ちることへの恐怖と、これから逃れるための思考停止との循環を繰り返す。影に怯える毎日を過ごす。
神仏を信じなければ救はれない。信じる者だけが救はれる。命を受け継いできたことを感謝するために行ふ祖先の祭祀(いはひまつり)をしてはならない。神仏を信じない親兄弟や家族や子供が地獄に落ちても、信じた自分だけが救はれればそれでよい。
これは究極の差別主義であり個人主義である。
神(God)はこの世を統治する。神(God)とは「主」であるから、その統治権は「主権」である。イエスは、神(God)と一体であるから、イエスに主権がある。
そのイエスが死刑に処せられて死んだが、その後復活して昇天した。その後に再臨して千年王国の王(主権者)となつてこの世を再び統治するまで、人間が神(God)に代はつて王となつて主権者となる。
それが国王主権や国民主権の正統性であると主権論者は主張する。
こんな非科学的な一神教の教義から導かれるのが合理主義(理性絶対主義、rationalism)であり個人主義であつて、これには普遍性はない。
本能、家族、祭祀、國體。この「本家祭國」は、科学であり、人類の歩んできた歴史と伝統による普遍的なものである。
これらは、上記二首に全てが集約されてゐる。
南出喜久治(平成29年1月15日記す)