自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第七十八回 立憲主義

せりあひて あげつらふのを さけぬるは そとづらまもる おびえしえせと
(競り合ひて論ふのを避けぬるは外面守る怯えし似非人)

安保法制が問題となつたころから、やたらと立憲主義といふ言葉が使はれるやうになつた。


政治の世界でも野党がしきりにこれを言ひ出したことに連動して、朝日新聞が今年の元旦に「試される民主主義」といふ記事を出して、これまでの民主主義一点張りの主張から立憲主義の主張へとシフトしてきたのである。


立憲主義は多義的である。しかし、最大公約数としては、立憲制度(立憲制)といふ統治制度に基づいて政治を行ふことであるから、少なくとも、憲法を破壊したり、憲法に基づかない「革命」や「征服」(デベラチオ)による変革を認めない立場なのである。


つまり、立憲主義を唱へる者は、革命ないしは征服によつて生まれた占領憲法の統治を全否定しなければならないのであるが、占領憲法を憲法として認める者が立憲主義を主張するのは、噴飯ものと言はなければならない。


人の物を略奪した犯罪者が、今後は人の物を略奪してはならないとの掟を作つて他人にそのことを守らせるやう押しつけることの矛盾は誰でも解るはずである。


ところで、立憲主義の定義として、占領憲法を憲法として認める者の多くは、国民が権力を縛るものが憲法であるとするのが立憲主義の意味であると一面的な主張をして、それがいまや流行してゐるが、それならどうして国民の義務が憲法に規定されてゐるのかが説明できない。


また、その「権力」といふのは、政府の権力だけでなく、政治、経済、情報その他一切の生活環境において、弱者の力を超える力を持つ強者の影響力のすべてが権力なのであつて、官僚や政治家・政党、マスメディアの力もまた権力であることを忘れて、権力者同士が批判合戦する場合にも使はれる政治用語となつてしまつてゐる。


ましてや、そこまで権力の概念を拡大して、その権力を縛るといふのであれば、国内の権力のみならず、外国の権力も含むことになる。さうすれば、GHQといふ外国の軍隊によつて完全占領されて独立を奪はれた状態で、その強迫強要によつて帝国憲法の改正手続がなされことは、立憲主義に完全に違反することになる。つまり、前に述べたとほり、立憲主義は「革命」や「征服」(デベラチオ)による変革とは全く相容れないものであり、立憲主義を唱へるものは、占領憲法を無効としなければならないのである。


さらに、一般論として、憲法が国民主権から生まれたとするのであれば、国民主権の元となるのが国民の憲法制定権力とすることからすると、憲法制定権力によつて生まれた憲法が、ひとり歩きして、今度は、国民主権の根拠となる国民の憲法制定権力を縛るといふことになる。

では、そんな憲法はどこから生まれたのかと聞けば、国民主権とか国民の憲法制定権力であると答へるのである。


これは、人間とGodの関係と同じやうな循環論法である。人間の思考の産物としてGodが作られた。そして、そのGodによつて人間が造られた。これが典型的な循環論法であり、永遠に結論がでない矛盾の典型であり、このことは憲法と国民主権との関係と同じだからである。


ところが、立憲主義は、この循環論法だけではなく、次のやうな明らかな矛盾がある。

国民主権とは、人間がGod(主)の権利を持つたので、国民「主権」といふのであるから、国民主権は、Godと同じやうに、普遍性、絶対性、無謬性があるとされる。ところが、その国民主権を縛つて、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義については憲法の改正が出来ないとする憲法改正限界説に立つことになる。


つまり、憲法が国民主権を縛り、国民主権よりも憲法が上位にあるといふ矛盾である。


さらに、もつと大きな矛盾がある。憲法制定権力を行使したときの国民と、現在の国民との差別である。

過去の国民も現在の国民も同じ国民であり、主権者として同等平等であるはずなのに、占領憲法を制定したときの国民の意志に、現在の国民が服従させられるといふことは、現在の国民主権を否定することになるからである。


これまでの憲法を無視して、新たに憲法制定権力を行使して憲法をつくることができないのは何故なのか。どうして、憲法改正条項に拘束された憲法改正しかできないのはどうしてなのか。


この問題は、国民主権の根本問題として昔から言はれてきたことであつたが、憲法業者たちはこれを「不都合な真実」であるとしてこれまでずつと黙殺してきた。


安保法制の国会審議のとき、シールズ(SEALDs)は、国会の中には民主主義がなく国会外の我々の中に民主主義がある、といふことを主張した。

しかし、国会に民主主義がないといふのは、それこそ議会制民主主義を定める立憲制(立憲制度)を否定することであり、こんな主張こそ立憲主義違反といふことになる。


「主義」といふのは、ある理念を実現させようとする運動であり、立憲主義を主張する運動は、まさに政治運動なのであり、そんな運動を露骨に展開する日弁連の運動が政治運動ではないと判断する裁判所はいまや壊死状態であり、それこそが立憲主義の危機であると言へるのである。


このやうに、安保法制に反対する日弁連と共闘した民進党や共産党、社民党なども、いまや、たちの悪い政治集団となつて世の中を混乱を追ひ込んでゐる。


民主党の菅内閣は、平成22年7月16日の閣議で、アフリカ東部ソマリア沖・アデン湾で行なつてゐる自衛隊の海賊対策活動を1年間延長することを決め、翌17日、ソマリアの隣国ジブチで自衛隊基地建設の起工式が行なはれ、自衛隊は、常設の海外基地を持つことになつた。

また、南スーダンについても、平成23年11月15日、民主党野田佳彦内閣において、自衛官を派遣することが閣議決定されたのである。


つまり、武装部隊の自衛隊を海外に派遣し、武力による威嚇を行ひ続けてきたのは、民主党(後の民進党)政権によるもので、これを追認するための安保法制を安倍内閣が制定したことを批判することは、欺瞞、偽善も甚だしい。


ところで、これまで、政府は、占領憲法第9条の解釈は、次のやうな「解釈改憲の階段」を登り続けてきた。
  ① 自衛隊は軍隊ではないので合憲である。
  ② 日米安全保障条約は合憲である。
  ③ 自衛権は自然権として認められる。
  ④ 個別的自衛権は認められる。
  ⑤ 個別的自衛権の行使も認められる。
  ⑥ 個別的自衛権の行使による自衛戦争は認められる。
  ⑦ 個別的自衛権による自衛戦争は交戦権の行使ではない。
  ⑧ 集団的自衛権は認められる。
  ⑨ 集団的自衛権の行使による自衛戦争は認められる。
  ⑩ 集団的自衛権による自衛戦争は交戦権の行使ではない。


一体、占領憲法第9条のどこにそんな解釈ができる表現があるといふのであらうか。制定過程でなされた議論から解釈するとしても、「前項の目的を達するため」といふ、いはゆる芦田修正の文言は、単に、「動機」を意味するだけで、戦力を「保持しない」のは無条件です。ましてや、「交戦権」については、この動機も示されずに無条件に「認めない」といふのである。


政府は、これまで⑧までの階段を登り続けたが、今回の安保法制によつて⑨の階段に足を掛けた。しかし、これほど欺瞞に満ちた解釈は呆れ果てたものである。ここまで解釈改憲をして、9条の文言をここまで不道徳に解釈でねじ曲げる。

「法の支配」も「立憲主義」もあつたものではない。


「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。国民には法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」と長谷部恭男は言ひ切る(平成27年11月29日、朝日新聞、「平和主義守るための改憲ありえるか」長谷部恭男、杉田敦、対談記事)。

つまり、エリート集団が決めた密教的解釈に国民は従ふ義務があり、国民は素直に日本語の常識で読んではいけないと命令して押しつけるのである。


もつとも、長谷部は、①から⑧までは認めて、⑨⑩は認めないとして、安保法制を違憲だとしたが、ここまでこの解釈改憲の階段を登つてきたのであるから、あと2段はもう一息である。悪事を最後まで完遂して、立憲主義を蔑ろにしなければ生き様において中途半端ではないか。


ところで、占領憲法第9条で軍隊を否定しても、第66条(文民規定)の規定があるので、ここから軍隊の存在を容認してゐるのだといふ西修などの見解があるが、溺れる者は藁をも掴むといふか、こんな与太話を信じるバカも出てくるのである。


しかし、温泉場に、「入れ墨の人お断り」といふ表示があることから、入れ墨をしてゐる人が世の中に居ることは解るが、だからと行つて、入れ墨をした人を温泉場の警備員に採用することまで認めたものではないことは誰でも解ることではないか。


中共がサラミスライス戦法で侵略行為を拡大し続けることを批判するのであれば、同じ戦法で解釈改憲を拡大し続けることを恥じなければならないのであつて、そのやうなダブルスタンダードの姿勢は、「法の支配」と「立憲主義」に相容れないことを自覚すべきなのである。

南出喜久治(平成29年7月1日記す)


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