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トップページ > 自立再生論02目次 > H29.07.15 第七十九回 銀河鉄道の夜

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第七十九回 銀河鉄道の夜

とつくにの かみやほとけに すがりても おやをすてたる こころいやせず (外国の神や仏に縋りても祖先を捨てたる心癒やせず)

宮澤賢治の作品の中で、『銀河鉄道の夜』が賢治の生死観、宗教観を一番示してゐるものだと思つてゐます。


賢治は、浄土真宗の宮澤家の長男として生まれ、当然にこれを受け継ぐ筈でありましたが、自ら法華経信仰を確立して、父に改宗を迫つたが叶へられなかつたとのことです。


賢治は、法華経信仰に改宗するために浄土真宗を棄教しましたが、私の場合は、改宗するのではなく浄土真宗の虚妄に気付いて個人的には棄教したものの、生前の父親に棄教を迫ることをしなかつた(できなかつた)のは、賢治のこの作品の影響を否定できません。


小説を余り読まない私は、賢治が浄土真宗を棄教してそれを父親に改宗を迫つたことを知つて、同じことで悩んでゐた私としては、どういふ心境でそれを行つたのか、といふことが知りたくて、晩年に書いたこの作品を読んでみたくなりました。この児童小説『銀河鉄道の夜』は生前は未発表のもので、何度もその原稿に手を入れ、亡くなる直前まで推敲されてきたものであるため、ここに賢治の生死観、宗教観が濃縮されてゐると思つてゐたからです。


私は、この小説(第三次稿)である『銀河鉄道の夜』(角川文庫)のなかで、ブルカニロ博士の言葉を借りで、


「みんながめいめいじぶんの神かみさまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神かみさまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。」


と語つたことに注目しました。


賢治も、この作品を書いた後であれば、父親に改宗を迫らなかつたであらうと思つてゐます。


なぜ、こんな話をし出したかといふと、「ほかの神かみさまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」といふ言葉が父親に浄土真宗を棄教するやう迫らなかつた理由の一つであつたことを伝へたかつたのみならず、ある人物との劇的な出会ひを語りたかつたためです。


その人物とは、ソウルで出会つた張民成(チャンミンソン)氏です。そして、張氏と出会つて、彼の行動を知つたとき、この言葉が脳裏を過ぎつたためでした。


韓国で、何ら明確な弾劾理由もないのに、朴槿恵大統領を引きずり下ろすために北朝鮮の工作員が主導したローソクデモの嵐が吹きすさぶ中で、張氏がたつた一人で太極旗を翻して、このままでは韓国がなくなるとの危機感から、命懸けの街宣活動を始めたことから、多くの人がこれに呼応して太極旗デモが始まつたのでした。

しかし、張氏は、決して表には立たず、裏方に徹して一人の活動を続けました。その張氏と出会つて、永年の友のやうに抱き合つてお互ひを理解することができたのです。


そして、その後、数人の北朝鮮工作員が「金日成万歳」と叫びながら、張氏の頸椎その他の全身の数十カ所を鉄パイプで殴打したことから、張氏は生死を彷徨ふ重傷を負つてしまつたのです。証拠のビデオ映像があるのに、左派は支配された警察は、今でも全く無視して放置したままです。

しかし、屈強な体力があつたことも幸ひして、奇跡的に一命を取り留め、首や体にギブスを付けながら、それでもまた街頭に立つたのです。


いまは、拘置所(義王市)に収監されてゐる朴槿恵を早期に釈放させるために、拘置所前に、朝から夕方まで、ソウルの自宅からここに通つて街宣活動を続けてゐます。これを今も毎日毎日続けてゐるのです。

朴槿恵を今でも大統領閣下として、その無罪を確信し、朝夕、その方向へ三拝九拝の礼を欠かさないのです。前世で朴槿恵と夫婦か親子だつたなど揶揄されても決してその行動を止めずに続けてゐます。


張氏は、行動の人でありますが、それ以上に祈りの人なのです。


張氏は、敬虔なクリスチャンです。しかし、張氏の行動に、私は何の前置きも理由もなしに涙がこぼれるのです。


そんな張氏の祖国を思ふ命懸けの行動は、すでにクリスチャンを超えてゐます。


『銀河鉄道の夜』に出てくるクリスチャンの青年たちが「天上」である「南十字サウザンクロス」駅で降りるときに、一緒に降りようと勧められたジョバンニが、「ほんたうの神さまはもちろんたつた一人です」と言はれたことに対して、「ああ、そんなんでなしにたつたひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」と答へて、ここで降りなかつたといふ意味深長なやりとりの描写は、私としては、賢治の中に、法華経の世界観をも超えた何かが宿つたのだと感じました。


途中下車する人は、祭祀を離れた人のやうに感じます。祭祀には途中下車はありません。永遠に続く道なのです。


「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」が祭祀の道であると確信し、銀河鉄道の道は、祭祀の道であると理解できたのです。


南出喜久治(平成29年7月15日記す)


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