自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H29.08.15 第八十一回 第一権力

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十一回 第一権力

よみうりや だましそやして おもねるは ふさがれしひの すりこみのなれ
(瓦版屋(マスコミ) 騙し煽して阿るは塞がれし日(占領期)の刷り込みの習慣)

国家権力は、権力分立制により、立法、行政、司法の三権に分立されてゐます。これは、それぞれの権力が一つに集中することによる独裁の弊害をなくすといふ機能と、その逆に、三権に分掌させることによつて専門性を持たせて統治効率を高めて、より統治権力を拡大強化しようとする機能の二面性があります。しかし、これらは、いづれも国家権力の分掌であつて、それぞれ完全に独立したものではなく、権力の抑制と均衡がなされてゐるといふ説明がなされてゐます。


三権分立といふのは、当初は三権のうち立法が抜きん出て強かつたことから、その時代は、立法国家と呼ばれました。ところが、官僚制や行政権が肥大化してくると、今度は行政が抜きん出て、行政国家と呼ばれることになりました。


司法国家といふ言葉もありますが、司法権が抜きん出て、司法積極主義により、どんな事件についても憲法判断を積極的に行ふといふ制度はなく、司法国家といふ時代は理念として存在しても、現実には存在しません。特に我が国は、司法国家の欠片もありません。

ですから、権力的な序列からすれば、第一権力が行政、第二権力が立法、そして、第三権力が司法といふことになります。


ところで、第四権力といふのは、政府権力ではなく、民間の商業活動としての報道機関(メディア)のことを指して呼ばれることになりましたが、これは、序列的に第四権力と呼ぶことにも疑問があり、そもそも第一権力から第三権力といふ分掌された国家権力ではなく、これに次ぐものとして認識することに違和感があります。


『フランス革命の省察』を著したイギリスの保守思想家エドマンド・バークは、新聞のことを第四階級 (Fourth Estate) と名付けましが、国王又は聖職者、貴族、市民といふ三つの身分による社会的勢力の階級に次ぐ社会的勢力としての第四階級といふ意味でした。


フランスでも、フランス革命前のアンシャン・レジーム(旧制度)において、シェイエスの『第三身分とは何か』の中で、僧侶(第一身分)、貴族(第二身分)に次ぐ、商人・職人・富裕農民など、フランス革命の主体となつた都市ブルジョアジーである平民(第三身分)といふ概念が生まれましたが、都市の下層民や下層農民などのプロレタリアートはこれから除外されてゐましたので、これらのプロレタリアートを名付けるとすれば、これが第四身分といふことになります。


しかし、この身分階層の分類における第四階級とか、第四身分といふものと、権力の分類としての第四権力といふものとは全く意味が違ひます。


日本における第四権力といふ言葉は独特であり、田中角栄がこの言葉を批判的に定着させたといふ経緯がありますが、言葉だけが一人歩きして、あたかも、国家権力に劣後する権力のやうなイメージがありますが、実際は、第一権力から第三権力が束にしてかかつても、打ち負かせることができないほどの強大な権力なのです。


その意味からすると、第一権力から第四権力といふこれまでの呼称は、歴史的に誕生した順序による呼称に過ぎず、権力の強さによる序列ではありません。


権力の強さといふ実質的な判断からすれば、民主制のルールによつて抑制と均衡がはかられてゐる立法、行政、司法の三権を完全に凌駕して、単独で独裁的運用がなされるメディアは、政治の世界において最も強大な権力であるといふ実態からして、ぶっちぎりの「第一権力」と呼ぶべきです。


報道機関(メディア)を第四権力と呼称し続けることによつて、いかにも第一権力から第三権力に対して、それよりも力の弱い第四権力がその不正を指摘するなどして果敢に挑み続けてゐるといふイメージは、まさに虚構なのです。


報道機関(メディア)は、私企業であるために、編集部人事において閉鎖的であり、情報を独占してゐます。報道機関として参入できるのは、特別に限定された巨大企業のみです。新規参入は事実上許されません。そのため、業界再編成に至るやうな大きな競争はなく、規制緩和の対象にもなつてゐません。


記者クラブといふギルド制を既得権益として未だに情報の寡占を死守し、身内の不祥事は勿論、自ら組織的に犯した虚偽報道の責任も認めず、事実を隠蔽しながら、特定の政治目的を実現しようとする圧力団体になつてゐます。


取材の自由とか報道の自由などの特権を与へられてゐるにもかかはらず、国民の知る権利に奉仕するためといふ大義名分は単なる画餅に過ぎず、偏向した情報や虚偽の情報を垂れ流して、国民の知る権利を侵害し続けてきた存在です。


殆どの報道は、匿名報道であり、虚偽報道の場合における責任の所在を明らかにしないため、虚偽報道が生まれる構造的な欠陥を是正しうる自浄作用もありません。


私企業であつても公的な存在であるならば、国家権力と同様に、民主制のルールが実現されなければならないのに、編集権の独立を叫んで「編集部独裁」を続けてゐます。


放送法第4条第1項には、編集の準則として、「公安及び善良な風俗を害しないこと」(第1号)、「政治的に公平であること」(第2号)、「報道は事実をまげないですること」(第3号)、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(第4号)が求められてゐるにもかかはらず、これらは守られてゐません。


電波媒体の報道においては、このやうな準則がありますが、新聞その他の紙媒体の報道にはそのやうな規定はありません。事実報道においても、匿名報道のままで、虚偽を排除するための自浄作用が働かない状態を是正する制度を設けてゐない状況であるにもかかはらず、国際基準だと称して、現在では放送法第4条を削除せよとの乱暴な意見すらあります。


政権交代を促進させるための世論誘導を行つたり、公正さ、正確さを担保する措置を講じることなく、調査の方法や内容等には透明性がなく、得体の知れない組織主体で世論調査がなされ、その公正さや正確さが第三者機関によつて検証されることがないままに、その結果を発表して政治的影響を与へ続けてゐます。


編集権の独立を叫ぶのは、恣意的な報道をすることを正当化したいエゴに過ぎません。編集権の独立どころか、編集の民主化が必要です。現状を漸進的に改革するとのであれば、せめて正確な事実報道、調査報道の情報を踏まへて、その評論を報道する場合、その報道内容とは全く無縁の元スポーツ選手とか、芸能人やタレントなどをコメンテーターとして出演させ、報道機関の方針に従つたコメントをヤラセのやうに語らせて、いかにも多くの者の意見を代弁してゐるかのごとく演出することはやめるべきです。しかも、そのコメンテーターは常連として固定化されをり、その人選は専ら報道機関が恣意的に行つてゐるので、これもやめさせなければなりません。


報道機関が権力であると認識するのであれば、立法、行政、司法の三権が相互に抑制均衡されて濫用ができない制度であるのと同様ないしは類似の制度が導入されなければなりません。つまり、民主制のルールとその運用における手続保障が実現されなければならないのです。


しかし、前にも述べたとほり、報道機関は、立法、行政、司法の三権からは、超然として独立し、しかも、民主制のルールも手続保障もない完全な独占(独裁)体制なのです。


報道機関は、政治状況を論評する際に、民主主義や立憲主義を擁護することを標榜して、自己の立ち位置の正当性を強調します。

ところが、報道機関の組織やその運営は、民主主義や立憲主義とはほど遠いものであり、明らかなダブルスタンダードです。

立憲主義の定義として、国民が権力を縛るものが憲法であるとするのが立憲主義の意味であるとするならば、その「権力」の中には、政府の権力だけでなく、政治、経済、情報その他一切の生活環境において、弱者の力を超える力を持つ強者の影響力のすべてが権力が含まれます。官僚や政治家・政党、マスメディアの力もまた権力なのです。


これまで、テレビに多く出演して露出度を高めたタレントが、その表面的な知名度を利用して選挙に立候補して首長や議員に当選した事例は山ほどあります。これは、ポピュリズム(人民主義)をさらに劣化させたポピュラリズム(人気主義)を加速させてゐます。バラエティー番組で顔をさらし続けれて人当たりのよい姿を演じてゐるだけでは、どんな思想や政策なのかは解りませんが、それでも、顔を見たことがあるだけといふ理由で投票行動に走るのです。テレビに出演して顔を売るのが実質的には効率的な選挙の事前運動になつてゐる状況は、極めて歪んだ民主制の運用と言へます。まさに衆愚政治を加速させる原動力となつてゐるのがテレビを中心とする報道機関(第一権力)なのです。


つまり、この第一権力は、立法機関である国会の衆参両議院の議員や都道府県の首長などを誰にするかを恣意的に判断して選出できる「予備審査権」ないしは「人事権」を握り、国政を思ひのままに操ることができる地位にあると言つても過言ではありません。


さうであれば、メディア関連法を改正ないしは新設して、第一権力である報道機関に公正な民主制のルールを導入して、国民の監視下、統制下に置かれるべきですし、少なくとも世論形成に最も影響を及ぼす論評の報道に関しては、多様な意見を反映させ、「世論の縮図」となるやうな多種多様な意見を持つ人をコメンテーターや投稿者として採用すべき制度として確立させるべきなのです。

報道機関が密室の中で特定の者を恣意的に人選して、その者を常連で出演させるのではなく、公正な第三者機関による公募の方法や立候補した発言者に対する視聴者などの投票制などの方法により人選させることが必要です。


討論番組とか投書欄の編集については、国民参加の第三者機関に委ねるべきですし、憲法論、政治論、時事問題などのジャンルに区分して、双方向の番組や紙面作りがなされるべきなのです。編集権の独立などといふ「情報独裁」を否定し、編集権の民主化を実現しないメディアは解散させるのです。


このやうな方法によつて広範な国民の中から民主制のルールによつて数多くのオピニオン・リーダーを選出するのであれば、その者が国政選挙などに立候補することは納得ができるはずです。


政府の権力が報道機関といふ権力を統制することは許されないとしても、国民が報道機関を統制することに反対できる理由はありません。私企業であるから営業の自由があるとの口実は、国民の知る権利に奉仕する義務の前に粉砕されることになります。


このやうにして、初めて立憲主義の下での第一権力として認められるものであつて、いまのままであれば、報道機関は、熟議のない民主制、すなはち、衆愚制を操る言論的暴力の集団以外の何物でもありません。


そもそも、國體護持総論第三章の「無效理由その十二 政治的意志形成の瑕疵」で述べたとほり、昭和21年12月1日から始まつた「憲法普及会」といふ、占領憲法を絶賛して素晴らしいものだと喧伝し、その効力に関する大問題を完全に隠蔽した全国的な大規模の官製の「洗脳運動」を報道機関が積極的に追随して、無批判に応援してきた「事実」について、報道機関はその「罪となるべき事実」を認めて国民に「告白」し「懺悔」しなければなりません。

「大政翼賛会」を批判する報道機関が、「憲法普及会」といふ、これに優るとも劣らない国民に対する思想統制洗脳運動をGHQの指図を受けて、報道機関がこれに積極的に加担したことを率直に認めるべきです。


そして、報道機関は、報道の民主化の前提として、憲法普及会による大洗脳運動の実態を克明に報道することから始めなければなりません。

これができなければ、報道機関に正義を語る資格はありません。


参政権を行使しうる正確な情報を知る権利は、本来は報道機関の正確かつ公正な報道によつて保障されるものであつて、それが偏向してゐたり虚偽によつて情報操作がなされると、間接民主制が形骸化して機能不全となります。偏頗で虚偽の情報が垂れ流される環境の下では民意の反映ができなくなるからです。このやうな情報環境を整備しないまま、国民投票などの直接民主制を一部で採用しても、決して間接民主制を補強することにはならず、むしろその弊害が増幅されるだけです。


現在では、インターネットの普及により、テレビや新聞などを視聴したり購読したりする人が少なくなつて、広告収入が激減することにより、報道機関の赤字経営が続いてゐます。もし、報道機関が既得権益に胡座をかいてこのまま続けるのであれば、このまま消滅する運命にあります。むしろ消滅してくれた方が、偏向報道、虚偽報道による弊害が無くなるので、その方がよいのかも知れません。

南出喜久治(平成29年8月15日記す)


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