自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十二回 日本とハワイ

アメリカの むごいしうちに アロハオエ なみだでうたふ リリウオカラニ
(亜米利加の惨い仕打ちにアロハオエ涙で歌ふリリウオカラニ)

陸地の総面積は四国ほどであるが、その海域を含めばその2倍近いハワイ(Hawaii、布哇)は、昔は独立したハワイ王国であつたものの、今は、アメリカ合衆国の第50番目の州となつてゐる。

そして、我が国でも、日本がアメリカの第51番目の州になつてはどうかといふ議論が敗戦時からあり、最近でも丸山和也参議院議員の不用意な発言があつたりしたが、この議論は、様々な理由から、日米双方に支障があるため今の時点では全く現実味がない。


なぜなら、それが実現すれば、日本人はそのほぼ全員が異教徒の日系アメリカ人となり、合衆国における日系人の人口比率がハワイとは比較にならないほど劇的に増加して合衆国の政局に大きな影響が出てくる。

それだけではない。これまでは、アメリカは、政治的にも経済的にも日本を「属国」にしてきたのに、それが、他の州と同格となつて「本国」に昇格させることになることを望んではゐない。

そのことは日本側にとつても同様であり、これまでは曲がりなりではあつてもその政治的かつ経済的な意味において「独立国」であつたものが、その独立が奪はれることになり、公用語が大和言葉から英語に変更されることに日本人の圧倒的な大部分が望んでいないからである。

そして、決定的なことは、日本には天皇が御座しますことである。


しかし、ハワイの場合、どうしてハワイ王国の独立を奪はれてアメリカに併合されてしまつたのかといふことについて知つておくことは重要である。日本には本当にその可能性がないのか、日本とハワイとの違ひは何だつたのかについて検討しておく必要があるからである。


ホノルル市内にいくつかのポリネシア系原住民(カナカ)の墓地がある。これは祖先崇拝の痕跡であるが、参拝してゐる人の姿を見たことがない。そして、他の多くの場所にはサイプレス(糸杉)が植ゑられてゐる。これは、ハワイ王国が伝統的な祭祀を捨ててキリスト教へ改宗したことを示す痕跡と言へる。サイプレスは、欧米の教会や墓地に植ゑられてゐるものだからである。


ハワイ王国は、カメハメハ大王が統一王国を作り、日本よりも約50年も早い、天保10年(1840)10月8日に立憲君主制の憲法を公布した。年代比較からすると、天保10年と言へば、吉田松陰(寅次郎)が10歳にして長州藩の藩校明倫館で講義をした頃である。そして、ハワイ王国は、その12年後に、さらに新憲法を制定し、リンカーンの奴隷解放宣言よりも10年も早く、奴隷禁止条項を定めたのであつた。


ところが、アメリカなどからの侵略征服の圧力が強く懸念される中で、明治14年(1881年)、大アジア主義に傾倒するカラカウア国王が来日し、ハワイが併合されるとすれば、アメリカなどの欧米ではなく日本に併合されることが望ましいといふ方向で、日本からの多くの移民を要請し、皇室とハワイ王室との姻戚関係を結ぶ縁談の申し入れをした。

それは、山階宮定麿王(後の東伏見宮依仁親王)とカイウラニ王女との政略結婚の申し入れであつた。


しかし、翌15年に、明治天皇はこの縁組の申し入れを拒絶する。

その理由は、これまで外国王室との婚姻の前例がなかつたこと、そして、これによりアメリカとの軍事的緊張関係が高まることが懸念されるため、これに備へてハワイ防衛まで行ふだけの軍事力が備はつてゐなかつたことにあつた。


それから10年ほど経過した明治26年(1893年)、米海兵隊164名が突如としてハワイに上陸し、軍隊を持たないハワイ王朝を簡単に転覆させられ、カラカウア王の後を引き継いだリリウオカラニ女王を強制退位する宣言まで行つた。

この事実を「ハワイ革命」と呼んでゐるが、我が国の占領憲法が「八月革命」によつて生まれた有効な憲法だといふ謬説が一世を風靡したやうに、その国の自律的政治変革ではない、単なるディベラチオ(征服)に過ぎないものを「革命」といふ言葉で誤魔化そうとする売国奴は、いつの世もどこにでも居るものである。


このやうにして、アメリカは、翌明治27年(1894年)、ハワイ共和国を強引に成立させた。

さらに、翌明治28年(1895年)には、リリウオカラニ女王を反逆罪の首謀者として逮捕し、同罪で逮捕された約200名の命と引き換へに女王廃位の承諾署名の強要した。そして、その3年後の明治31年(1898年)、アメリカは、スペインとの戦争のどさくさ紛れに、ついにハワイを併合してしまつたのである。


ハワイでは、その後も細々とハワイ主権回復運動は続けられてきた。そして、平成5年(1993年)のハワイ王朝転覆100周年には、クリントン大統領がアメリカの蛮行を謝罪したものの、未だに主権回復は果たせてゐないのである。


ホノルルのメインストリートの名前は、皮肉にもカラカウア通りと言ふ。しかし、原住民以外の観光旅行者や移民たちからすれば、カラカウア王の先見性を述懐することは全くなく、繁華街の名前といふ程度の意識しかない。


ハワイでは、愚かにも、早いうちから祖先祭祀を捨ててキリスト教に改宗してしまつた。摂政カアフマヌの時代になされた亡国の道であつた。これは、宗教にとつては、祭祀は完全に「邪魔者」なのであり、祭祀を捨てさせて宗教を受け入れれば、その国を征服できるからである。欧米かぶれで開明を気取る者が常に陥る亡国の誘惑に負けたのである。


これにより、国を滅ぼし、紛争を生み出した。

祭祀の民が自らそれを捨てなくても、ケルト、ゲルマンなどのやうに力づくで征服され改宗されて祭祀の民でなくなることもある。それがこれまでの世界の歴史だつた。


いま、ハワイには、人々を統合する祭祀といふ基軸がない。あるのは「この指止まれ」として、この指に止まらない者を排斥し、お互ひに殺し合ひすることを「本質」とする宗教と、空虚で世俗化した観光用の芸能しかない。また、それを見物する者も観光と娯楽などを目当とするだけである。ホテルでは、宗教心のない日本人が、新婚旅行を兼ねてハワイに来て、俄のクリスチャンになつてキリスト教の教会で挙式もどきをしてゐる。


この夏には、カラカウア通りに、法輪功が中共政府に抗議するパネルを陳列させてゐたのを見かけたが、法輪功への弾圧、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波の悲劇などに対して、人権派とか平和主義らは、決して支那本国に行つて批判の声を挙げない。


人権派とか平和主義者といふ輩は、批判する相手が弱かつたり、批判しても弾圧などの危害を受けないことが予測計算できて、無抵抗が予測される相手に甘えられる時と場所でなければ批判はしない保身の権化となつた偽善者なのである。いまや人権とか平和とかは、誰でも教祖になれる新興宗教に過ぎなくなつた。


宗教的潔癖感から他者を差別して排除する宗教を基礎として生まれた人権思想や平和主義がいかに欺瞞に満ちたものであることを自覚しなければ、こんな連中にハワイの主権回復を訴へても無理なのである。


ハワイの原住民に対する政府の保護政策として、政府は原住民居住区で新築住宅の提供をしようとするが、主権回復運動を行つてゐる者は、その提供を拒んでゐる。提供を受ければ主権回復運動と矛盾するといふジレンマがあるからである。そのことを大多数の移民は、嘲り笑つてゐる。


いづれにしても、いまやハワイの歴史を伝へるものは、現地のどこを探してもない。むしろ政府はこれを完全に消し去らうとしてゐる。

カメハメハ大王、カラカウア王、リリウオカラニ女王の銅像などは、単なる観光用のもので、歴史的な説明は何もない。


さうであれば、やはり主権回復運動は、原状回復として民族祭祀の復活から始めなければ長続きしないし、成功しないはずである。民俗芸能は、すべて祭祀のためのものであつたが、今や祭祀抜きの娯楽芸能に脱した。いまの我が国でも、祭祀の復活ができずして、「戦後レジームからの脱却」などと唱へても到底おぼつかないし、我が国がそのうち空虚にハワイ化するのではないかとの憂ひを抱かざるを得ない。


ところで、私には、リリウオカラニ女王の「強制退位」と、今回の今上陛下の「強制退位」とがどうしても重なつて見える。飛躍であるとか杞憂であるとかの批判を受けても、どうしてもその感覚は失せない。


平成28年8月8日の今上陛下のおことばは、退位の御叡意を明確に示されたものではないにもかかはらず、これに藉口して成立させた「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は、政府が勝手に退位させると取り決めた時期に、今上陛下を「強制退位」、「強制譲位」させるといふものであるからである。


皇室の自治自立を回復するための典範奉還と、祖国の正気を回復するための帝国憲法復元改正を果たせないまま、今日に至つたことは誠に慚愧に堪へない。


国民を主人とし、天皇を家来とする国民主権の日本国憲法は、天皇の強制退位にまで踏み出すことになつた。「象徴天皇制」といふ言葉の欺瞞から抜け出し、さらにもう一歩進んで、その実質は「奴隷天皇制」、「傀儡天皇制」であると明確に宣言し、皇位にまで土足で容喙し、完全なる共和国憲法の正体をついに明らかにしてきたのである。


祭祀を基軸とする大日本帝国憲法下の「臣民」と主権回復を目指すハワイの「原住民」とを見比べ、そして、祭祀を捨て去つた日本国憲法下の「国民」とハワイの「移民」とを見比べは、日本とハワイの現状におけるそれぞれの問題点と将来がはつきりと見えてくるのである。

南出喜久治(平成29年9月01日記す)


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