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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九十一回 保守とリベラル

よなほしの すべはいづくと たづぬれば をさなごこちの われにかへれと
(世直しの術を何処と尋ぬれば幼心地の我に返れと)

昨年、平成29年の総選挙ほど保守とリベラルといふ言葉を対立概念として用ゐられて飛び交つた選挙はなかつた。


さういふ風潮もあつてか、総選挙前の10月17日付け読売新聞朝刊に、論点スペシャル「日本の保守とリベラルとは」といふ記事が掲載され、佐伯啓思と井上達夫との見解が併記された。


井上達夫は、「真のリベラル政党は、いまだ日本にない。」と言ひ、佐伯啓思は、「日本には本当の意味で保守政党がない。」といふ。

それなら、まづはその定義を明確にすべきなのに、リベラルと保守の定義は二人とも曖昧である。井上は、「元々は、特権階級の既得権を擁護するのが保守。身分的特権を否定し能力主義的な自由競争を重視するのがリベラルだ。」といふ、トンデモ定義をするが、これならば、新自由主義を標榜する自民党や日本維新はリベラルになつてしまふのであり、論理破綻を犯すことになる。こんなことを言ふのは、「あの」井上だから予測されたことかもなのかも知れない。


千座の置き戸47(平成28年3月15日)の「グローバルなもの」でも述べたとほり、リベラルとか、革新とか、保守とかが「対立概念」であれば、いづれか一方の概念が定まれば他方の概念も決まることになる

しかし、これらが完全な対立概念であるかといふと、決してさうではないやうであり、共通してゐる点もあると思はれる。それでも、最も深層部分では対立してゐるといふのが現実なのである。


では、保守とは何かといふことになるが、まづは、ベトナム戦争報道でピュリッツァー賞を受賞したハルバースタムの「保守主義者」の定義を叩き台にしてみたい。

ハルバースタムは、「保守主義者とは、将来に向けて節約して備蓄し、質素倹約して、支出は収入の範囲内にとどめ、過去の栄光や現在の豊かさがいつまでも続くと信じない懐疑主義者のことである」と定義する。


しかし、懐疑主義と言つても、これは特に鞏固な思想概念でもなく、単なる思想傾向と言つた程度であり、懐疑ではなく漠然とした不安も含むのであれば、人類が進歩し続けることを絶対に疑はない者など、この世に果たして居るのかと思ふと、これでは定義としては不適切である。


保守といふのは、確かに何かに対する「懐疑」がある。それは、「進歩」についてだけではなく、その本質は理性を絶対視し、理性を万能としてきた合理主義(rationalism)を懐疑するといふ姿勢に集約されると思ふ。


理性は万能であるとして合理主義を貫き、革命と計画統制経済を企てる共産党が「保守」ではないことは当然であるが、これと同様に、万能の理性によつて編み出された資本主義も自由貿易体制も誤りがないとする考へもまた「保守」ではない。


政治の世界において自民党が保守で、旧民進党などがリベラルといふ分類もまた極めて怪しいものである。伝統を壊し続ける与党と、環境保全や格差是正などを主張する野党の対立状況からすると、どちらが保守なのか頭が混乱してくる。

かうなつてくると、保守なるものは、今の政治勢力には存在してゐないと断言しても過言ではない。


昔は、保守と革新と言つて対比してゐたものが、いまでは保守とリベラルといふ対比に置き換へられてゐる。

革新といふ言葉が、ソ連の崩壊によつて敬遠されることになつたので、看板を付け替へてリベラルといふ看板名に書き換へただけあつて、特に大きな変化はなく、羊頭狗肉の類である。雰囲気とか気分の問題であり、カタカナ英語を使ふことで、大衆の受けを狙つただけである。


「右」と「左」といふ区別もある。この区別は、フランス議会を嚆矢とするが、右翼と左翼、右派と左派といふ対比の方も漠然としてゐるものの、この方がなんとなくイメージ的に解つた気がする。


では、政治思想や社会思想において、一体何が決定的な対立軸なのか。


イメージで言へば、右脳と左脳の対比で理解できるのではないか。

右脳派=本能=保守、左脳派=理性=革新(リベラル)である。


丁度一年前である平成29年1月15日の「千座の置き戸」67の「本家祭國」で述べたとほり、本能と理性、家族と個人、祭祀と宗教、國體と主権といふ対立の基軸を踏まへた認識から理解して区別するのがよいと思ふ。

そして、平成29年12月15日の「千座の置き戸」89の「理性の限界」で述べたとほり、真の保守とは、理性への「懐疑」だけではなく、理性の「限定」ないしは「制限」でなければならないといふことである。


やはり、本能と理性、家族と個人、祭祀と宗教、國體と主権の概念対立を認識して、本能・家族・祭祀・國體を基軸として国家社会構造を再生させるための「改革」をするのが真の「保守」と言へる。


現在の社会構造は、その殆どが理性万能主義、啓蒙主義でできあがつてゐる。

目に見えないものは信じないのが理性である。オカルトといふのは目に見えないものの意味であり、その意味では祭祀も宗教もすべてオカルトである。

感性とか霊性といふものは、本能から生まれる。決して目に見えない。しかし、これまで人類は、その本能のお陰、発明、発見をしてきた。発明や発見はその成果が生まれた後は目に見えるが、それを導いた感性や閃きは決して目に見えないオカルトなのである。


オカルトの強さ、怖さを知ること。それが祭祀の道なのである。


南出喜久治(平成30年1月15日記す)


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