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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百七回 山西省残留将兵の真実(その四)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(残留工作)


ところで、帝国憲法第13条の講和大権に基づき、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印をなし、同法第11条の統帥大権に基づき全軍に対して停戦と武装解除が命じられたのであつて、第一軍将兵と居留民の全員を内地に帰還させることは当然であり、これに反して第一軍司令官の名で山西独立のための武装残留を命令して内外に表明する方式では単なる反乱軍となる。これは、明治11年の竹橋事件(竹橋騒動)、昭和11年の二・二六事件と同様の轍を踏み不成功は火を見るよりも明らかであつた。


しかも、竹橋騒動や二・二六事件の場合は単なる国内問題に留まつたが、この方式では国内問題はおろか国際問題として我が国の立場を一層窮地に追ひ込むことになる。それゆゑ、第一軍が日閻密約を実現するためには、隠密裡に既成事実を積み上げて我が国政府に追認させるといふ、いはば満洲事変の方式しか選択肢はなかつた。


このことは山西軍側の事情においても同様であつた。戦勝国である中華民国政府の軍隊が敗戦国の軍隊を傭兵とすることは、戦勝国側からしても、ポツダム宣言等に違反することになり閻錫山自身の地位をも危ふくするからである。


閻錫山が太原入城後の昭和20年9月ころから残留工作が始まり、第一軍と山西軍とが共同して「合謀社」設立し、社長は閻錫山の秘書長、常任として岩田、総務部長に第一軍主計大尉加藤嘉之助、宣伝関係に第一軍報道班長長野賢中尉が就任した。そして、この合謀社の名で大々的に第一軍首脳による残留工作が展開され、いかにも山西軍から第一軍将兵へ直接に留用を呼びかけるやうな文書なども第一軍自らが作成して、組織的にその麾下の将兵に配布する方式などがとられた。


いづれにせよ、残留は第一軍の全将兵ではなく、精鋭の選抜部隊となることから、これらの残留工作は、祖国再生の志を持つた精鋭将兵の選抜のために必要な手段でもあつた。

そして、そのやうな残留工作に加へて、あるときは日閻密約の構想による祖国再生を説き、また、あるときは、もし、一部の将兵が残留しなければ大多数の将兵や居留民が帰国できないことになるとの喧伝工作を行ひ、さらに、表向きには、帰国手段としての鉄道輸送を完遂するために鉄道警備と修理を任務とした鉄道修理工作部隊として一時残留する者を志願選抜することの名目で、最終的には上官の命令を以て、第一軍と閻錫山とが予定した特務団徴用員数に満つるまで、選抜した精鋭将兵に対し残留命令を下したのである。


現に、第一軍では、軍事極秘として特務団の建制を行ひ、編成表まで作成して閻錫山と共同して組織的に行つてゐたものであつて、戦車隊、教育部、病院などまで編成した。これは、紛れもなく武装部隊の残留を目的とするためであり、戦車隊と衛戍病院の設置は長期戦を当然に想定するものである。


そして、従来までの第一軍の建制によらず、特務団の名称で新たな建制とし、選抜将兵を既存の建制に準拠していくつかの兵団に分け、さらに各兵団に独自の名称を付与した理由は、従来の建制に類した名称をそのまま用ゐると、形式上も第一軍の各部隊が武装残留してゐることが発覚することを回避する狙ひがあつたからである。


また、居留民に対しても残留工作が行はれたのは、銃後の守りを必要とする総力戦(陸軍のいふ国防国家体制)の長期化に備へてのことであり、何よりも山西省で経営してゐた日本軍民による数多くの重軽各工業の工場等の施設機械についての技術者が確保されなければ、その後の操業が不能となり、日閻共通の不利益を被ることになるとの判断があつたからである。


ところで、マーシャル米特使の斡旋により重慶で国共会談が行はれてゐたが、昭和21年1月10日に国共停戦協定が成立した。そもそも国共合作は既に有名無実となつてをり、山西省のみならず各地で国共間の軍事衝突が繰り返されてゐたためである。国共合作は同年7月に名実ともに消滅するが、特に、山西省では、山西軍と八路軍との戦闘は、この停戦協定とは無関係に繰り返されてゐた。


ともあれ、この国共停戦協定により、重慶にマーシャルを議長とする「三人委員会」(張治中、周恩来)、北京に「軍事調処執行部」が設けられ、この下に山西省などの紛争地で直接調査し調停に当たる36組の「三人小組」(米、国、共)が設けられたのである。


そこで、山西軍の友軍として第一軍の精鋭が残留してゐることを発見されないためにも、精鋭部隊を転戦させながら隠匿し、中国人名を名乗らせて一時的に軟禁状態にするといふ画策すらなされたのである。

そして、残留した精鋭将兵をいち早く現地召集解除としたのは、たとへ発覚しても、第一軍とは関係がないことの対外的な口実とするためであつた。


(日閻密約と残留命令の存在証明)


昭和21年9月13日に支那総軍が発した「総参一電第380号」の電文からすると、同年3月30日に山西地区日本官兵善後連絡部長が打電した「山日連甲第158号」の電文にある「南京日本官兵善後總連絡部」とは「支那派遣軍總司令部」であり、「山西地区日本官兵善後連絡部」とは「(山西地区の)部隊長ノ有スル局地司令部」のことを意味する。つまり、「「山西地区日本官兵善後連絡部」は「第一軍司令部」ではなく、あくまでも「第一軍司令部」の隷下にある「(山西地区の)部隊長ノ有スル局地司令部」なのである。


つまり、南京を拠点とする支那派遣軍には、北支那方面軍(北京)、第六方面軍(漢口)、などが属し、さらに、北支那方面軍は、その直轄軍の外、第一軍、第十二軍、駐蒙軍で構成され、第一軍には、第69師団、第114師団、独立混成第3旅団、独立歩兵第10旅団、独立歩兵第14旅団などが隷属してゐたのであつて、前掲「総参一電第380号」の電文には「第一軍」の文字は全く見られない。山西地区に駐屯する軍隊は、第一軍を構成する一部の部隊に過ぎないからである。


このことからして、南京に駐屯する支那派遣軍總司令部は、北京に駐屯する第一軍司令部に対して軍令を発令し、さらに第一軍司令部からその隷下の山西地区を含む局地司令部へと軍令を伝達するといふ本来の指揮命令系統が混乱してゐたため、支那派遣軍總司令部が、第一軍司令部を飛び越えて直接に山西地区の局地部隊へ伝令することになつたことを前掲「山日連甲第158号」の電文は明らかにしてゐることに間違ひはないのである。


ところで、前掲「総参一電第380号」の電文により、前掲「山日連甲第158号」の電文の通報先(伝達先)である「第二戦区司令長官閣下」とは、我軍の司令官ではなく、「閻錫山」であることを証明するものであり、この文書は、「支那派遣軍總司令部」が中國陸軍總司令部(蒋介石)の隷下にある第二戦区長官の閻錫山に要請した文書であつて、澄田と閻錫山との日閻密約の存在を証明する第一級の価値ある重要な歴史的証拠と評価できるものである。


これにより、特務団徴用は閻錫山の軍隊(山西軍)が我軍の将兵に対して個別的に勧誘した結果であり、我軍の組織的関与はなかつた旨の政府の弁解は明らかに虚偽であり、我軍の強制的関与があつたことを証明して余りあるものである。


つまり、前掲「山日連甲第158号」の電文によれば、「貴軍(山西軍)ハ既ニ発令セラレタル左記中國陸軍總司令部訓令等ニ基キ飽ク迄衷心ヨリ残留ヲ希望スル一部技術者(誠字第219号ニヨル徴用ハ高級技術者ノ智識的徴用ニ適用セルモノニシテ労務的ナル服役者ハ人字第2556号ニヨリ悉皆皈國セシムルモノトス)以外全軍民ヲ皈國セシメラレ度」「特ニ特務團ニ編入再武装セシムルガ如キハ聖旨ニ悖リ且中國訓令ニ反スルノミナラズ國際問題ヲ惹起スベキヲ以テ直チニ特務團編成残留ヲ中止スルト共ニ一兵ニ至ル迄真相ヲ徹底セシメ去就ヲ誤ラシメザル如ク指導セラレ度」とするのである。


このことからして、仮に、政府が主張するとほり、特務団は「衷心ヨリ残留ヲ希望スル一部技術者」のみで構成されてゐるとすれば、「高級技術者ノ智識的徴用ニ適用セルモノニシテ労務的ナル服役者」もまた残留希望者であるはずであるが、残留を希望する同服役者を何故に悉皆帰国させる必要があるのか。


これは、特務団編入者が、残留命令による服役者であることを意味するのであつて、日閻密約により内密に残留命令が出されてゐたことの証左なのである。そして、この密約が発覚して国際問題になることを畏れた支那派遣軍總司令部が弁解の口実として山西軍に対する形式的な要請をしたのが前掲「山日連甲第158号」の電文の通報に過ぎないのである。すなはち、「徴用」とは、まさに残留命令により山西軍に我軍の将兵を売り渡した日閻密約の履行を意味する「暗号」だつたのである。


(「軍令」の継続的発令)


政府の説明によると、昭和21年3月14日15時に第一軍参謀長が発令した「独歩14旅参電第451号」に、「本作戦命令ハ擅権ノ罪トナラヌカ」と問ひ合はせるものであるとするが、軍令の意味と内容を恣意的に曲解した恐るべき詭弁である。これは、「本作戦命令ハ擅権ノ罪トナラヌカ研□ノ事」として、「故ナク戦闘」を為してはならないと留意させた上で為された「軍令」であつて、「布川大尉ハ特務団結成要員ヲ以テ一大隊(二中基幹)ヲ編成シ即時出発独立第243大隊ノ戦闘ニ協力スベシ」と明確に布川大尉に対して軍令が無条件で発令されてゐるのであつて、布川大尉がこれを復命し、その直属の部下であるSが布川大尉の命令に従ふことは至極当然のことである。


戦闘に待つたはなく、例へ「擅権ノ罪トナラヌカ」との疑問があつても、その判断は現場の指揮官に委ねられるものであつて、文言上も当該命令の内容は「戦闘ニ協力スベシ」として無条件かつ絶対の内容であるから、これに服従しなければならない。これに抗命して逃亡すれば、陸軍刑法第4章(第57条、第58条)の抗命ノ罪又は同法第7章(第75条ないし第78条)の逃亡ノ罪により死刑となるのであつて、「進むも地獄、退くも地獄」なら、例へ擅権ノ罪に問擬されたとしても進んで敵を殲滅して死地に臨むことこそ武人の誉れとして布川大尉は二念なく選択したはずである。


いづれにせよ、政府は、残留将兵に「擅権ノ罪」の適用がありうること、すなはち、陸軍刑法の適用があることを認めてゐるのである。陸軍刑法は身分犯(同法第1条)であつて、陸軍軍人に適用される。このことは、この時点でも特別権力関係下で陸軍将校としての軍務遂行上の地位と責任を肯定し、未だに残留将兵に対して召集解除がなされてゐないことを自白してゐることになるのである。


さらに、昭和21年3月25日に発令された第一軍参謀長の「乙集参甲電第274号」の電文と、同日に発令された独立歩兵14旅団参謀長の「独歩一四旅団第534号」の電文についても、これらは、その他の全ての軍令と同様に、あくまでも「軍令」として発令されてゐることに留意されなければならない。軍令とは、軍の組織と地位に基づくものであつて、もし、特務団編入者が召集解除され軍人としての地位を喪失し軍務から外れてゐるのであれば、何ゆゑに特務団に対して軍令が発令されるのか。第69師団、第114師団、独立混成第3旅団、独立歩兵第10旅団、独立歩兵第14旅団などを様々な名称の特務団として編成し、支那派遣軍總司令部を南京日本官兵善後總連絡部と、山西地区の局地司令部を山西地区日本官兵善後連絡部とそれぞれ改称したとしても、その実態はまさしく軍隊であり、その後も軍令は一貫して軍中央の参謀長等により発令され続けたのである。


特に、前掲「乙集参甲電第274号」の電文と「独歩一四旅団第534号」の電文によれば、召集解除がなされたとする昭和21年3月15日から10日後の同月25日に、参謀長から独立歩兵第14旅団長に対し、特務団を南団柏付近に集結させる旨の「軍令」が発令されたが、さらにその集結場所を太谷へと変更したことになつてゐるものの、これが特務団へ当該軍令が伝達されたとする根拠はない。現に、この時点では住岡氏の部隊は大営盤に到着したころなのであり、集結場所が南団柏又は太谷であると住岡氏は聞いたことがなく、もし、現場の指揮官がこれを受命してゐれば、この軍令に従ふことは当然なのであるが、さうではなかつたのである。


いづれにせよ、これらの軍令の存在は、特務団が軍令下にある兵団(軍隊)であることを示してゐる。現に、数多くの電文軍令等が存在してをり、これらは昭和20年9月13日から同21年4月25日まででも全部で24通となり、これらを時系列順に再度列挙すると、


支那総軍「総参一電第380号」(昭和20年9月13日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第107号」(昭和21年2月2日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第122号」(同年2月5日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第131号」(同月8日)
第一軍参謀長「乙集参甲密第16号」(同月15日)
第一軍参謀長「乙集参甲密第21号」(同年3月1日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第192号」(同月4日)
第一軍参謀長「乙集参甲密第22号」(同月5日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第194号」(同日)
支那総軍「総参電第482号転電」(同月10日)
支那総軍「総参電第494号」(同月11日)
第一軍参謀長「独歩14旅参電第451号」(同月14日15時)
第一軍参謀長「独歩14旅参電第511号」(同月20日14時)
第一軍参謀長「乙集参甲電第274号」(同月25日)
独立歩兵14旅団参謀長「独歩一四旅団第534号」(同日)
山西地区日本官兵善後連絡部長「山日連甲第158号」(同月30日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第315号」(同年4月6日)
支那総軍「総参電第963号」(同月10日)
北支那派遣軍「甲方参電第592号」(同月13日)
第一軍司令官、参謀長「乙集参甲電第351号号外(起案用紙)」(同月15日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第353号」(同月16日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第357号」(同日)
第一軍参謀長「乙集参甲電第400号」(同月22日)
支那総軍「総参電第178号」(同月25日)


となる。


そして、これらに共通するのは、前述したとほり、全て一貫して「軍令」として継続的に発令されたものであるといふ厳粛なる事実なのである。

南出喜久治(平成30年9月15日記す)


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