自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百八回 山西省残留将兵の真実(その五)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(澄田、山岡らの証言)


これまで述べた日閻密約とそれに基づく残留命令は、祖国再生を願ふ至情の発露として評価されるべきであつて、それを実践した第一軍首脳らの行為を全否定して批判すべきものではない。しかし、絶対に許すことができないのは、日閻密約の履行が不可能となつた時点以後における彼らの変節、すなはち、自己らの戦犯免責を約束してもらふことと引き替へに残留将兵を閻錫山に売り渡して敵前逃亡を行ひ、自己保身のために強制残留ではないとの虚偽の証言をし続けることである。


特に、澄田と山岡は、捕虜となつた多くの残留将兵が未だ太原戦犯管理所で著しい虐待と拷問の日々を送つゐたころの昭和31年12月3日、衆議院海外同胞引揚及び遺家族に関する調査特別委員会において、虚偽の事実を並べ立て、指揮官としての責任を果たさず自己保身のために残留将兵を最後まで擁護せずに見放したことが、昭和31年12月3日の第25会国会衆議院「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会会議録第4号(以下「会議録」といふ。)で明らかになつてゐる。


澄田と山岡は、戦犯容疑者の地位にありながら、日閻密約が存在したために山西軍の最高顧問として迎へられて優遇され、太原陥落の前に戦犯を免れて敵前逃亡し帰国したのである。これらの事実経過には、あたかも刑事被告人がその事件の裁判官の法律顧問になることと勝るとも劣らない異常さがある。それも、この日閻密約における自己の地位を私的に利用して閻錫山に媚び売り、閻錫山もこれを積極的に許容したことによるものであつて、公私混同も甚だしく、唾棄すべきほどにおぞましいものがある。


いづれにせよ、この特別委員会において、澄田と山岡は、特務団編成などの密命が第一軍参謀長名で発令されてゐることに全く触れてゐないし、上記のやうな山西省の特殊事情について全く証言しなかつたことなどからして、他の参考人の証言と比較からしても、この証言が虚偽であることは一目瞭然である。また、この特別委員会において配布された昭和31年12月3日付けの厚生省引揚援護局未帰還調査部作成の「山西軍参加者の行動の概況について」と題する資料(以下「厚生省資料」といふ。)がある。これは、厚生省引揚援護局未帰還調査部が当初から澄田、山岡の説明を鵜呑みにしたものであつて、事前配付の資料としての公正さと正確さを著しく欠いたものといふべきである。


ところで、澄田が自ら自筆で署名押印して作成した昭和44年5月22日付け証明書によれば、「下級者の立場から見ると、受降官閻将軍の強い要請に応え、而も自らも残留を当時における至上最高の理念なりと確信していた上級指揮官の強制残留と受取られたのも、寧ろ当然過ぎるほど当然ではあるまいか。」と、まるで他人事人のやうに記載し、そのやうな記述しかできなかつたことの弁明として、「現地復員となつていますから命令で残留などと言うことはどうしても書くことが出来ませんので強制残留もあり得たと申す意味で書いて置きました」と住岡氏に対する手紙に書き綴つたのである。


これらは、昭和44年5月のことであり、前掲調査特別委員会での参考人証言から12年余を経過した時点のことであるが、昭和47年9月の日中共同声明、同53年の日中平和友好条約締結よりも前のことであつて、未だ中共政府との国交がなかつたころのことである。


そのため、現在のやうに、防衛庁保管資料や中共側の資料等が存在しない時点であつて、厚生省(厚生労働省)もそのやうな資料が発見されないものとして、澄田と山岡の証言のみにより厚生省資料や会議録を作成し、会議録の他の参考人証言を全く無視したのであるが、現時点での資料を検討すれば、本件残留問題を根本的に見直す必要がある。


澄田や山岡も、まさかこのやうな資料が発見されるとは予想せずに、前掲調査特別委員会で虚偽の証言を行つたのであるが、澄田は、流石に良心の呵責からか、それまで否定してゐた強制残留の事実について、「あり得た」とするところまで認めるに至つたのである。


ところで、会議録において第一軍隷下の大隊本部付将校であつた百々参考人らの証言によれば、大隊の主な業務内容は、「復員業務」と「残留業務」であつたとして、その残留業務については、特務団の編成などに関するその詳細な内容の説明と強制残留であつたことの具体的事実が述べられてゐる。これは、一部の精鋭将兵の残留を条件としなければ大多数の将兵を含む軍民全員の復員ができないとする日閻密約の内容を示唆するものである。つまり、一部の残留将兵が人質となつたことを意味するのであつて、第一軍の在留業務とは、人質ないしは人身御供の選抜業務といふことになる。


換言すれば、大多数の帰還を実現するためには、殿(しんがり)備へ、尖兵、後衛、兵站、鉄道警護など様々な説明を以て、その実質は来る八路軍との山西防衛、独立戦争の戦闘要員たる精鋭部隊を残留させることが絶対条件となつてゐたのである。


(残留と俘虜)


そもそもこの強制残留を国際法的に見れば、我が国も中華民国政府も当事国となつてゐた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」の附属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第4条以下に定める俘虜の取扱に関する規定に明らかに違反してゐる。


日閻密約は、いはば武装残留将兵の身柄引渡に関する日閻間の合意であつて、残留将兵は、閻錫山の下で軟禁状態にある俘虜として「敵ノ政府の権内ニ属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ」(同第4条第1項)との権利を有してゐるはずのところ、残留将兵は、個人(閻錫山)又は部隊(山西軍)の権内に属してゐる。本来は国民政府の権内に属するにもかかはらず、国民政府などで構成する三人小組に発覚することを逃れて部隊を隠匿するなどの様々な画策が行はれたのである。


また、「国家ハ、将校ヲ除クノ外、俘虜ヲ其ノ階級及技能ニ応ジ労務者トシテ使役スルコトヲ得。其ノ労務ハ、過度ナルヘカラス。又一切作戦動作ニ関係ヲ有スヘカラス。」(同第6条第1項)とされてゐるところ、将校を含め全員を作戦動作そのもので、戦闘行為といふ過度な労務を賦課したのである。


しかも、それを組織的かつ継続的に、澄田らの敵前逃亡と山西軍の後退孤立、そして山西城の落城に至るまで戦闘使役を賦課した。その結果、ある将兵(以下「S」といふ。)は、上官の布川大隊長が戦死する八路軍との激戦の中で戦闘不能の負傷を受け、手榴弾で自決を図つたが果たせず、八路軍(当時は人民解放軍)の俘虜となつたのである。


なほ、Sがこのとき自決を図からうとしたのは、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」と説いた戦陣訓(昭和16年1月8日、東条英機陸軍大臣発布)の精神に基づく自己の生死観により、武人の最期を決断したことに他ならない。このことは、Sが如何に忠良なる将校であつたかを物語るものであつて、Sが絶大な信頼を置く上官の布川大隊長から帰国延期の残留命令を拝命しなければ、承詔必謹を旨とするSとしては、矛を納めよとの聖上の詔に背くことは絶対にあり得ない。この場合、詔と上官の命令とが形式上は二律背反になるとしても、本来そのやうなことは起こりうるはずはなく、このやうな非常事態においては、上官の命令は大元帥陛下の御叡慮を体現したものに相違ないと反射的に推測して判断しうるものであつたのである。

南出喜久治(平成30年10月1日記す)


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