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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十八回 本能と理性 その五

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


文明が野蛮なものであるのは、文明が宗教と合理主義で織り成されてゐるからです。理性によつて本能を封じ込め、祭祀を否定するからです。


合理主義といふのは、科学ではありません。

科学とは、何時、誰が試みても同じ結果が生まれるといふ普遍的な再現性があり証明可能なものを真理であるとするものです。ところが、理性といふのは、観念の産物としての計算原理ですから、その働きによる観念は、人によつて様々で同じものに到達できないことから再現性もなく証明もできないものです。

仮説は、無数にいくらでも打ち立てることができます。そして、それを真実であるとして論理構築するのは思想なのであつて、科学ではありません。そこに仮説を真理とする思想性を本質とする宗教と親和性があります。


つまり、「人間は神(God)によつて造られた」などの再現性のない仮説を真実して構築したのが宗教だからです。仮説はこれだけではありません。宗教の教義全体が仮説の体系なのです。そして、この仮説を真実として、論理思考を展開すれば、立派な合理主義者になれるのです。


「公理」といふ、証明不可能であるにもかかはらず、その証明を必要とせず自明の真実として承認されて他の命題の前提となる基本命題があります。ユークリッド幾何学における5つの公理と公準は良く知られてゐます。


ですから、科学や論理学といふのも、公理、公準といふ証明不可能ではあるが、誰も疑ふことのない命題(仮説)から出発する意味においては、宗教と構造は似てゐます。しかし、科学は、論理に矛盾があれば成り立たないのに対し、論理に矛盾があつても成り立つのが宗教なのです。むしろ、矛盾があればあるほど、そのことが人知を超えた深奥なる教へであると説き、「信仰」の世界を描き出すのが宗教固有の構造なのです。


この構造はすべての宗教に共通します。


前にも述べたとほり、
 God was born(by humanity)
 I was born(by God)
の循環論法を受け入れたり、「救済」、「復活」、「再臨」などの仮説で成立したキリスト教だけでなく、アラビア語を、いはば「真言」として、この真言で書かれたクルアーン(コーラン)といふ根本啓典を絶対的なものとするイスラム教も同様ですし、また、「解脱」などを説いた仏教も然りです。


たとへば、金剛般若波羅蜜経の解釈において、「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」の意味を、「A、即非A、是名A」、つまり、「Aは非AであるがゆゑにAである。」と恣意的に一般化し、肯定(即)と否定(非)とが自己同一であるとする「即非の論理」を編みだし、これが『善の研究』を著した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」といふ支離滅裂の言説へと連なるのです。この「即非の論理」といふのは、論理学における排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)に明らかに反してゐるので、「論理」が破綻してゐます。


つまり、正確には「即非の非論理」とすべきところを、これまた「即非の論理」と命名するほどの「非論理」なのです。


この非論理は、親鸞の「教行信證」の「顯淨土眞實教文類一」の冒頭にも見られます。 「つつしんで淨土眞宗を案ずるに、二種の廻向あり。一には往相、二には還相なり。往相の廻向について、眞實の教行信證あり。」として、仏に成るための精進をして(往相)、仏に成つて衆生を済度する(還相)ことを説きますが、これは自力の大乗仏教であつて、絶対他力でも専修念仏でもありません。まさに非論理であり矛盾の極みです。


しかし、宗教といふものは、本来さういふものなのです。さういふものとして成立してゐるものと理解すればよいのです。矛盾したものであつても、それが深奥なる真理であるとする仮説によつて展開する思想体系を無条件で信仰させるのが宗教の真髄だからです。


ところで、宗教の分類として、啓示宗教と自然宗教といふ分け方があります。そして、一般の解説では、啓示宗教とは、キリスト教やイスラム教のやうに神の啓示を信じることによるもので、これに対し自然宗教とは、アニミズムなどの本能原理による自然発生的なものと、これとは異質な啓蒙思想とか理神論までの理性原理によるものを含めたものとします。そして、これらに共通するのは、神(God)の存在を否定する無神論であるとする点で共通するとします。


しかし、啓示宗教は、神(God)の語つたとする経典から導かれる奇跡や恩恵を信じるとする「啓示」に対して、自然宗教は、人の心の働きによるものとして、それを「理性」だと捉へる分類は、話にならないほどの余りにも大きな誤りがあります。


啓示宗教と自然宗教の区分については、よく誤解されてゐますが、いまからその誤解を徐々に解くことにします。


まづ、啓示宗教と言つても、キリスト教とイスラム教とは、同じ啓示宗教であるとしても、少し構造が違ひます。


キリスト教は、預言者であるモーセとイエスの言葉を記録した聖書といふ根本啓典を通じた神(God)の啓示を基本としますが、それ以外に、神(God)が人間に与へた理性を通じた神(God)の啓示もあるとします。


このやうにして、理性的な啓典解釈を認めた結果、必然的に「理神論」が生まれます。世界の創造者としての神(God)は認めるが、その後の世界は自然法則によつて変化するだけで奇跡や啓示を否定するのが理性宗教としての理神論です。啓典(宗教)と理性(宗教)との対比を認識するために、理性と本能とが対比してゐることが理解不能となつて、本能は単なる欲望としか理解できなくなつたために、理性絶対主義といふべき合理主義が生まれるのです。


一人ひとりの個人単位の救済を唱へても、決して家族単位の救済を唱へない完全個人主義の宗教体系であるキリスト教は、まさに合理主義の温床です。


これに対し、イスラム教は、預言者ムハンマドの言葉を記録したクルアーン(コーラン)といふ根本啓典を通じた神(アッラー)の啓示のみを基本としますので、理性とか本能とかは啓示とは全く無関係です。


アラビア語ではアクル(理性)とフィトラ(天性、本能)といふ区別がありますが、これらは啓示には何の影響も関係もありません。


ところで、キリスト教もイスラム教も、その成立過程と時期からして、ギリシア思想の合理主義の影響を受けてゐますが、イスラム教は、キリスト教ほどその強い影響は受けて居ません。

カントの唱へた純粋理性と実践理性の区別は、このギリシア思想の影響をもろに受けたもので、これがあたかも本能と理性との区別に対比させてしまつたために、とんでもない誤りを犯してしまつたのです。


そもそも、キリスト教もイスラム教も、そして、カント哲学などは、理性と本能の区別と定義が全くできてゐないのです。できたつもりでゐても、不正確で矛盾に陥つたものなのです。


本能と理性との定義と区別は、極めて簡単です。また、簡単でなければならないのです。宗教や哲学で、膨大で饒舌な言葉を使つて説明しても、ここを誤魔化したり曖昧にしてゐますので、後の話が混乱するだけです。


心臓が動いてゐるのは、理性の働きによるものではありません。これははつきりしてゐます。理性によつて、動けと命じたり、想念するから動いてゐるのではありません。生きてゐるから動いてゐるのです。生きてゐることを支配するのが本能です。


ですから、大脳の思考を経由するものがすべて理性であり、それ以外のものはすべて本能の働きといふことなのです。この明確な定義から出発しなければなりません。


啓典の成立以前に、自然発生的な祭祀の信仰は人類とともに存在してゐたものです。そして、本能と理性が人類とともに存在し続けることも、帰納法的に認められて、再現性を満たしてゐますので、これの区別とその態様とは科学的に認められます。そして、祭祀もまた、いままで世界中で間断なく続いてきたもので、これも科学の世界で認められた存在なのです。


これからは、この前提に立つて話を続けることになります。

南出喜久治(平成31年3月1日記す)


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