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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四十八回 祭祀と宗教 その九

いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)


原始仏教では、輪廻は苦であり、輪廻からの解脱を目的としました。


『太平記』に、楠木正成、正季の兄弟が、湊川の戦ひで自害する際に、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」との後生の誓ひなし、それを『日本外史』において、「願七生人間、以殺国賊」(ねがはくはななたびじんかんにうまれて、もつてこくぞくをころさむ)といふ、七生滅賊、七生報國の志を讃へたやうに、輪廻転生を受け入れる我々の伝統的精神からすれば、輪廻は決して苦ではありません。


しかし、この精神性を否定する仏教への違和感を顕在化させずに、我が国は仏教を受け入れてきました。


仏教がインドから各地へと伝搬するにつれて、様々な風習や民族信仰を取り入れて変容し、支那を経由して我が国に伝来した大乗仏教は、儒教や道教などとも融合し、さらに、我が国でも次第に神道とも混淆し、七生報國の精神性とも共存したために、どの部分が仏教固有のものかが判りにくくなつたのです。


しかも、仏教伝来のときから、遣隋使、遣唐使などの時代を経てもたらされた多くの大乗経典について、これらがすべて釈迦の直伝と信じられてきたために、その多くの経典の中で、釈迦が最も重要と説いた教へはどれなのかといふ探求がなされ、その中から抽出された特定の経典を中心とした多くの宗派が生まれます。


キリスト教やイスラム教のやうな、唯一至高の神の啓示を記したとする数少ない啓典に基づく啓典宗教でさへ、その解釈が別れて教派が形成されるのに、それとは比較にならないほどの膨大な量の大乗経典に基づく宗教である仏教では、多くの教派、宗派に別れるのは必然と言へるものでした。大乗経典の中には、教へとして矛盾対立したものがありますので、尚更のことです。


大乗経典は、第144回「祭祀と宗教 その五」で触れましたとほり、江戸中期の富永仲基が『出定後語』で説くやうに、釈迦入滅後700年までに徐々に成立したものであつて、釈迦の説いた教へではないとの「大乗非仏論説」があります。

このことは、既成仏教教団としては死活問題ですので、これに反発してゐますが、すべての大乗経典のみならず、自宗派が依拠する経典についても、釈迦の直説であるとする根拠を示すことはできません。そのため、仏教の多くの宗派は、仮に、釈迦の直説でないものであつても、教理的に否定されるべきものではないと反論します。


しかし、ここでは、教理的にその宗派の教へが否定されるか否かを問題にしてゐるのではありません。理性的に解釈構成できる各宗派が打ち立てた教理の合理性について議論してゐるのではないからです。


もし、各宗派の開祖や宗祖が、自派が依拠する経典が釈迦の直説ではない可能性があることを認識してゐたとすれば、もう少し違つた展開になつたのではないかと思ひます。

仏教伝来のときから江戸時代に至るまで、仏教の各宗派の開祖、宗祖は、大乗経典が釈迦の直説、直伝であることを信じて疑はず、自派こそが釈迦の正統なる教へであり、仏教の真髄であると自負してゐるからです。

だからこそ、「仏教」を名乗るのですが、それは、自派が依拠する特定の経典が釈迦の直説であるとする経典原理主義となつてゐるのです。


しかし、自派が正統な仏教であるとすることを説明するのは容易ではありません。複雑かつ矛盾した経典の中から、特定の経典に依拠した自宗派の教へ正しいと信者に説明することは極めて難しいので、もつと単純な方法で説明することが必要となります。

そのために、仏像が必要になります。仏像崇拝です。


仏像の荘厳さ、秀麗さを目の当たりにした人としては、教理に感動するのではなく、その仏像に感動し、これに化体された仏の教へが仏教としての正統性と無謬性を示すものと受け止め、それを礼拝して、祈願を繰り返せば、詳しい教理の説明を受けなくても信仰を得ることになります。これが偶像崇拝の仕組みなのです。


ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの啓典宗教が偶像崇拝を禁止したのは、その教理の正統性や無謬性を判断するについて、教理それ自体で理解することなく、その偶像の美術工芸的な出来映えによつて左右されることを懸念したためです。特に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が成立した時期では、メソポタミアやエジプトなどの中東世界は、美術工芸における技術水準の高い多神教文化圏ですので、宗教的偶像の製作競争をすれば、一神教の啓典宗教側が絶対的に不利であることが明らかだつたからです。


これに対し、我が国に伝来した大乗仏教の場合は、多くの如来や菩薩ごとに教へが異なるため、その教へごとに本尊を確定し、それぞれの仏像を作る必要があつたのです。それを崇拝させることによつて、その教へに帰依させ、信仰を深めさせる必要があつたのです。難解な経典を理解させることは至難であり、知れば知るほどその経典に疑問を抱くことになつて信心が得られない結果になるからです。


これとは別の意味で、神道には、神像がありません。古神道は、祭祀の道であり、本能に忠実だからです。自然物を依代とし、常設神殿を持たなかつたからです。偶像を作るのは理性の働きであり、祭祀には馴染まないものです。


ところで、この仏像崇拝などの偶像崇拝は、「物神崇拝」(フェティシズム)の一種と言へます。

神の姿をこの目で見ることができないのと同様に、貨幣経済における貨幣は、貨幣によつて示される「価値」の実在を客観的に証明することもできないのですが、その実体のない抽象的な「価値」を貨幣に化体させる「信仰心」によつて支へられてゐます。その価値は、当初は、材質の価値(金、銀など)に見合つたものでしたが、現代では、その材質の価値とは無縁に価値が決められるのです。これが物神崇拝の仕組みです。


我が国への仏教伝来が、大乗経典とともに仏像が一体となつて伝はつたことを思ひ出してください。


欽明天皇は百済王からもたらされた仏像の見事さに感銘され、その「仏」の端厳な相貌を仏教と受け止められてゐるからです。つまり、仏教公伝といふよりも、仏像公伝であり、これがその後の仏教を基本的構造と性格を特徴づけることになりました。


宗教の基本的構造は、まづ第一に、教理崇拝です。啓典宗教では当然のことですが、その変形として、仏教の場合は、先ほど述べた仏像崇拝となります。仏像はその教理を化体したものであり、それを本尊として礼拝することによつて信心を強くして、仏のご加護を求めることができるといふものです。

そして、第二に、信心を得ないと地獄に落ちるといふ死後の恐怖を植ゑ付け、それから逃れて救はれるためには信心を捨ててはならないといふ脅しです。仏に縋れば浄土へと導かれるといふことで、再び仏像崇拝へと戻るのです。

これを循環させることが基本的な構造となつてゐます。

戦国時代に、本願寺が、「進者往生極楽 退者無間地獄」と信者を煽つて集団自決させたことがその典型です。


仏教において、浄土といふものは、一切の煩悩や穢れを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣がなく、仏や菩薩が住む清浄な国土のことです。

これには、信心する如来や菩薩などの種類によつて、それぞれ次のやうな浄土のメニューが用意されてゐます。


阿弥陀如来の西方極楽浄土
阿閦如来の東方妙喜世界
薬師如来の東方浄瑠璃浄土
毘盧遮那仏の蓮華蔵世界
大日如来の密厳浄土
釈迦如来の霊山浄土
弥勒菩薩の兜率天
観世音菩薩の補陀落浄土


また、浄土と対極にあるのが穢土です。穢土とは、汚れた国土といふ意味であり、煩悩で汚れた凡夫が住む現実世界のことです。

源信の『往生要集』では、厭離穢土、欣求浄土として対句で使はれました。この「厭離穢土欣求浄土」は、戦国時代で徳川家康が馬印として用ゐられました。余談ですが、平安時代からの「江戸」の地名を家康が「穢土」を連想するとして改名しなかつたことが不思議であるとの見解がありますが、今では母音の区別がつかなくなりましたが、「江戸」(えど)と「穢土」(ゑど)とは発音が違ふのです。


ともあれ、地獄に落ちるぞといふ脅しは、宗教一般で用ゐられるものですが、最近では露骨な脅しは少なくなりました。恐怖によつて形成される信心といふのは、長続きしないからです。


特に、我が国では、この脅しによる恐怖から逃れる伝統的な知恵がありました。


閻魔は、もとはヒンドゥー教の神であり、輪廻転生する死後の世界を支配する王でした。閻魔王は国全体を司るので、死者に対して、地獄行、極楽行のいづれかを裁定します。この閻魔の像を見ますと、恐ろしい形相をしてゐますが、その服装は支那風です。これは、仏教かヒンドゥー教の閻魔を混淆して支那を経由するときに、道教の信仰による影響を受けたからですが、仏教においては、地蔵菩薩の化身とされてゐます。

このことからしても、伝来仏教がインドで生まれた仏教とは大きく様変はりしてゐることを示してゐます。


いづれにしても、地獄の恐怖を刷り込ませるために、その説法をし続けると、仏教の教へどころか、その恐怖だけを与へることになるため、ほどほどにせねばなりません。そのためには、閻魔の仏像や仏画や地獄図などを拝観させて、人々の深層心理として地獄の存在を植ゑ付けることにします。

その上で、閻魔が地蔵菩薩の化身であるとして、閻魔の慈悲に縋らせることによつて、「閻魔さま」と愛着を寄せることになります。

このやうに、閻魔は、インドから支那を経て、まさに伝統的な怨霊信仰や貴種流離譚に絡め取られて、全国的に根付くことになつたのです。


これは、我が国の歴史的な伝統文化によつて、脅しを基本とした宗教の害毒を消し去つた姿でした。

南出喜久治(令和2年6月1日記す)


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