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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五十二回 帝国憲法の現存証明 その二

ななそまり むをちのすめの いつくしき のりしろしめす とこしへのみよ
(七十餘六條の皇國の稜威奇しき法(大日本帝國憲法)知ろし召す永代の御代)


④ 昭和20年8月14日 ポツタムム宣言受諾


アメリカは、ポツダム宣言を速やかに受諾しない我が国に対し、「迅速且完全なる壊滅」の実行に着手して、広島と長崎に原爆を投下し、ホロコーストを開始したために、我が国はポツダム宣言を受諾しました。


このポツダム宣言受諾の法的根拠は、帝国憲法第13条です。第13条には、「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」とあり、宣戦大権、講和大権といふ戦争大権と条約大権を規定してゐます。

この戦争大権の行使によつてポツダム宣言を受諾しましたので、これは、停戦から最終講和へと向かふ被占領非独立の長い「トンネル」の入り口に位置する第一段階の講和条約となります。


この日に、政府内が「subject to」問題などによつて混乱してゐることに対処するため、午前10時に御前会議が開かれました。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を受諾に至る経緯について報告しましたが、全閣僚一致での受諾ではなく、阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀長は、天皇と國體護持の確約がないままの降伏に反対を主張して本土決戦を提唱します。このままで閣議の評決をすれば、賛成3、反対3の同票で、鈴木首相が賛成票を投じれば、これまで通りの賛成の評決となるところ、鈴木首相は、あへて天皇陛下に御聖断を仰ぎました。そして、午前11時、陛下の文武叡聖なる御聖断がなされ、ポツダム宣言を受諾することが再確認されたのです。


このときの大御歌(おほみうた)は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」です。


ともあれ、多少の混乱があつたにせよ、「統帥権干犯」などといふ愚論を封殺して、ポツダム宣言の受諾に漕ぎ着けたのは、昭和20年4月に成立した鈴木貫太郎内閣の鈴木首相の、いはば「鈴木マジック」によるものでした。


同年6月8日の御前会議において、「聖戦完遂」、「國體護持」、「皇土保衛」の三つの国策決定を行ひます。このうち、「聖戦完遂」については、本土決戦に至る統帥大権に関する問題であつて、これまで通り統帥権の独立が認められてゐるため、内閣の輔弼が及ぶ事項ではなかつたのです。

しかし、戦局はさらに悪化し、ポツダム宣言受諾の方向へと動きます。ポツダム宣言を受諾するについては、一般条約及び講和条約の締結といふ帝国憲法第13条を根據とする外交問題ですから、立憲君主的に、内閣の輔弼による運用がなされてゐた事項でした。


陸軍が、天皇と國體護持の確約がないままポツダム宣言の受諾をすることに反対し、本土決戦を提唱するのは、同年6月8日の御前会議における「聖戦完遂」、「國體護持」、「皇土保衛」の三つの国策決定を根拠とします。そのために、ポツダム宣言受諾後に、軍の一部がクーデターを企てて混乱することになりました。


鈴木首相は、そのことを想定して混乱を防ぐためにも、統帥大権の帰属者である大元帥の地位と帝国憲法上の天皇の地位とを理念上区別し、大元帥は天皇が兼務するだけで、大元帥も天皇の「家臣」であるとの見解を打ち立てます。

そして、同年6月8日になされた統帥大権による「聖戦完遂」の国策決定と、講和大権によるポツダム宣言の受諾とは、何ら矛盾しないと結論付けた上で、ポツダム宣言を受諾するまでに至つたのです。


⑤ 昭和20年8月14日 大東亜戦争終結ノ詔書
⑥ 昭和20年8月15日 玉音放送

一部の陸軍将校などによるポツダム宣言受諾阻止、玉音放送阻止、聖戦完遂のためのクーデター未遂事件(宮城事件)が14日未明から起こり、宮城が占拠されるに至つたものの、間もなく鎮圧され、15日正午には、大東亜戦争終結ノ詔書を天皇陛下の肉声で録音された玉音放送がラジオを通じてなされ、臣民は敗戦の事実を知りました。

そして、枢密院御前会議が開かれ、東郷外相は、ポツダム宣言は我が國體を人民投票によつて決すべきことを求めてはゐないことを報告し、鈴木貫太郎内閣は、その大任を果たして総辞職となりました。


⑦ 昭和20年8月16日 天皇の停戦下命。自衛のため戦闘行動を除き陸海軍全部隊の即時停戦命令(大陸命第1382号、大海令第48号)発令。


帝国陸海軍の将兵も臣民であることから、大東亜戦争終結ノ詔書を拝命して停戦することになるやうですが、軍自体は、帝国憲法第11条の天皇の統帥大権の下にあります。

帝国憲法第11条には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、軍組織に対する天皇の停戦命令がない限り、戦闘行為は継続します。

本来であれば、ポツダム宣言の受諾と同時に停戦命令が発令されるところが、ポツダム宣言受諾時の混乱のため、停戦命令が遅れてしまつたのです。


⑧ 昭和20年9月2日 降伏文書の調印。


大東亜戦争は、帝国憲法第13条前段に基づく天皇の「宣戦大権」により、昭和16年12月8日に開戦となり、同20年8月14日、同じく同条前段に基づく天皇の「講和大権」の発動により、『ポツダム宣言』を受諾して停戦し、同年9月2日の降伏文書に調印して、我が国は、独立を失ひ、GHQによる完全軍事占領が始まります。

そして、同じく帝国憲法第13条の講和大権によつて締結されたサンフランシスコ講和条約(桑港条約)が昭和27年4月28日に発効して独立するまで、GHQによつて、我が国の國家主権、領土保全及び政治的独立が武力の行使によつて奪はれ續けたのです。


昭和49年12月14日の第29回国連総会の『侵略の定義に関する決議』によれば、その第1条には、「侵略とは、一國による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」とあることから、このGHQの行為は「侵略」に該当します。そして、このGHQの侵略によつて軍事占領統治下に置かれ、我が国の独立は完全に奪はれたことになりました。


連合軍は、昭和16年8月14日の『英米共同宣言(大西洋憲章)』、昭和20年2月11日の『ヤルタ密約』と同年7月26日の『ポツダム宣言』により、戦後の世界支配の枠組みを決定し、我が国に対し、軍隊の無条件降伏と完全武裝解除を求めました。

その要求は、広島と長崎に原子爆弾を投下しつつ「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみ」(ポツダム宣言第13項)とするホロコースト予告の恫喝であり、我が国にはこれを受諾するしか他に道はなかつたのです。


そのため、ポツダム宣言では、形式上、日本国軍隊の無条件降伏と完全武裝解除や民主主義的傾向の復活強化等の政治命題を我が国が自主的に実現するやう要求してゐたものが、昭和20年9月2日、東京湾上にて署名した『降伏文書』では、

The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.


「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」 との文言がありました。


この「制限ノ下ニ置カルル」との点は、バーンズ回答と同様、「subject to」の翻訳として表現されたのですが、これは「制限」ではなく「隷属」です。

連合国は、我が国の期待と甘えにも似た気休めに等しい「誤訳」を当然のことながら無視し、我が国を軍事占領による絶対強制下に置き、その自由意志を奪つて占領政策を推進しました。


從つて、ポツダム宣言では「一切の軍隊が無条件に降伏すべき」との文言であり、「日本軍の無条件降伏」であつたにもかかはらず、降伏文書では、實質的に「日本國政府の無條件降伏」にすり替へられることとなつたのです。それは、ポツダム宣言が引用する「カイロ宣言」に、「日本国の無条件降伏」とあつたことによるものでした。


これは、連合國からすれば、すり替へといふよりも、我が國がGHQの「subject to」(隷屬)を容認したことによる必然な流れといふことになります。つまり、我が政府の自主性は悉く否定されて独立を完全に奪はれ、連合軍による軍事占領統治(侵略)が実施されたのです。


「subject to」は、デヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」ではありませんから、占領軍の「直接統治」ではなく「間接統治」によることを意味してゐました。

そこで、降伏文書調印の翌3日、重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性が確認されたのですが、その占領統治の実態は、占領典憲制定の強制、東京裁判の強行、徹底した検閲と言論統制、メディア支配、公職追放、レッドパージ、内閣と政府の人事に対する直接干渉と指令、選挙の干渉、帝国議会審議の干渉、法案制定の指示、財閥解体、宮家皇籍剥奪、裁判干渉、二・一ゼネスト中止命令など、国内統治の全事象に亘つてその主要事項については「直接統治」になつてゐました。


また、ポツダム宣言第7項では、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。」とあり、「聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点」の占領といふ「部分占領」であつた筈が、全国的な「全部占領」となりました。


これはまさに騙し討ちによるすり替へですが、このやうな重大なことについて、我が国の側からは、誰一人異議を唱へる者は居ませんでした。

南出喜久治(令和2年8月1日記す)


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