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トップページ > 自立再生論02目次 > R02.10.01 第百五十六回 帝国憲法の現存証明 その六

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五十七回 帝国憲法の現存証明 その七

ななそまり むをちのすめの いつくしき のりしろしめす とこしへのみよ
(七十餘六條の皇國の稜威奇しき法(大日本帝國憲法)知ろし召す永代の御代)


⑳ 昭和31年12月18日  国際連合に日本国加入(効力発生)


この日に、我が国は戦勝国連合の組織に加入します。ソ連との講和条約が締結されたことを契機として、我が国は東西冷戦構造となつた国際社会の一員となりました。


しかし、敵国条項を存続させたままの加入は、敵国条項が適用されることを容認したことを意味します。


いづれにせよ、これもまた、講和条約であり、帝国憲法第13条が存続するから実現できたものです。決して占領憲法第73条第3号を根拠として加入条約を締結したことではないのです。


㉑ 昭和47年9月29日  日中共同声明


支那の八路軍(後の人民解放軍)は、国家ではない共産党軍閥なので、我が国は宣戦布告をしてゐません。中華人民共和国(中共)の建国は、大東亜戦争停戦後の昭和24年10月1日ですから、戦争の対手国ではありません。


しかし、支那大陸では、中華民国といふ国家との戦争と、非国家である共産党の人民解放軍との戦闘とが混在したハイブリッド戦争となつてゐました。蒋介石の中華民国も、国家としての実態に乏しく、いくつかの軍閥の寄り合ひでありましたので、支那での多面的な戦闘状態を「支那事変」と呼んでゐました。純然たる国家間の戦争ではないので、これを「日中戦争」といふのは性格ではないのです。


いづれにしましても、中華民国が台湾に亡命政権を作り、支那本土では、事後に共産党が中華人民共和国を昭和24年に建国しましたが、我が支那派遣軍については、降伏文書に調印した昭和20年9月2日の後も、皇軍将兵の武装解除はなされず、現地での召集解除がなされたのは、昭和21年3月15日であり、山西省では、閻錫山との日閻密約によつて皇軍将兵に対して第一軍による残留命令が出されて、その後も八路軍との戦闘行為が継続したといふ特殊な事情がありました。


このことは、ちくらのおきど第104回から第113回の「山西省残留将兵の真実」で10回に亘つて詳しく述べたとほりです。


さういふ様々な事情を踏まへると、支那事変については、単純に「戦争状態の終了」といふことでは収まりきれないものがあるのです。


降伏文書調印以後も八路軍との戦争状態(戦闘状態)が存在するために、日中国交回復に際してこれらの清算も確認する必要があつたのです。


それが日中共同声明に反映されます。


これには、かうあります。


   「一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。」


つまり、「不正常な状態」とは、我が軍と八路軍との「戦争状態」(戦闘状態)とそれに伴ふ清算関係等のことです。

そして、これが、この共同声明の発出される日に終了するとしたのです。


中共は、人民解放軍の支配下で戦後に建国された傀儡国家なので、「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態」といふのは、正確には、「日本国と八路軍(人民解放軍)との間のこれまでの不正常な状態」のことです。


国家間の戦争状態ではない戦闘状態といふのは、厳密に言へば、帝国憲法第13条の戦争大権によるものではなく、帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との統帥大権の発動によるものです。国家に対する戦争大権の行使ではなく、敵対する軍閥掃討のための統帥権に属するものなのです。


それゆゑ、この「不正常な状態」の終了とは、我が軍が停戦命令後にも八路軍との戦闘行為が継続し、統帥権に反する事態が継続したことなどを意味します。


統帥権は、軍の存在を前提としますので、占領憲法では軍が存在しないのですから、そもそも統帥権は存在しない。やはり、この不正常な状態を終了されるのも、帝国憲法第11条と第13条に基づくことになります。


㉒ 同日(昭和47年9月29日) 日華平和条約の破棄


この昭和47年9月29日と同日に、北京において、田中角栄首相と中共首脳との間で中共日中共同声明を発出したと同時に、同行した大平正芳外務大臣が、「日華平和條約はもはや存在しません」と言明して、日華平和条約を破棄しました。


この日華平和条約の破棄は、憲法上において重要な意味を含んでゐます。


「一つの中国」論を認めるか否かとは全く別の問題があるのです。


つまり、戦争状態を終了させる講和条約である日華平和条約を締結した後、これを破棄する行為は、法的な意味で戦争状態を復活させることを意味します。

現実に戦争状態に突入するか否かとは別に、講和条約とその破棄について検討する必要があります。


条約でも契約でも、破棄といふ意味は、解除とか無効とか取消などのやうに、その合意が初めから無かつたとするか、将来に向かつて効力を失ふといふ意味で使はれます。


さうすると、講和条約の破棄は、それによつて合意した内容を少なくとも将来に向けて失効させることですから、日華平和条約第1条によつて、終了した筈の「戦争状態」が、終了しなかつたことになることですから、これは、「戦争状態の復活」を意味します。


「戦争状態の復活」といふのは、新たな「宣戦布告」です。

帝国憲法第13条であれば、戦争大権によつて法理論的には可能です。しかし、戦争権限(交戦権)のない占領憲法では、それは絶対に不可能です。

むしろ、戦争状態の復活は、戦争放棄を唱へる占領憲法真理教の信者たちは猛反対する筈ですが、誰もそのことを指摘しませんでした。

所詮、似非平和論者ばかりだからです。


いづれにしましても、帝国憲法は、この昭和47年9月29日まで現存してゐたことが証明されました。


そして、その後において、帝国憲法が消滅したことを主張したい者としては、そのことを証明しなければなりませんが、誰もそれを証明した者は居ません。


訴訟法の一般論として、証明責任(立証責任)は、それが存在すると主張する者が証明責任を負ひます。それが存在しないと主張する者は、その不存在について証明責任は負はないのです。


存在しないことを証明することは、困難な証明といふ意味で悪魔の証明と呼ばれますが、必ずしもその証明責任が免責されるものではありません。背理法によつて、存在しないことや無効であることを証明することができる場合があるからです。


存在すると仮定し、あるいは有効であると仮定したときに、その論理的矛盾が生じることを証明することによつて、不存在や無効を証明することができるのです。


真正護憲論が、占領憲法を憲法として無効であることを証明したのは、この背理法を使つて証明したのです。


ところで、行政訴訟においては、処分の適法性、有効性は、その処分の有効性を主張する行政の側にあります。

これと同様に、占領憲法が憲法として無効であると主張する者は、その無効性を証明する責任はなく、占領憲法が憲法として有効であると主張する者が、憲法として有効であることを証明しなければなりません。


真正護憲論を批判する者は、占領憲法が、どのやうな理由で憲法として有効であるのかを証明してからでないと、批判をする資格がないことを知らないのです。法の無知です。


しかし、真正護憲論は、本稿の冒頭で述べましたとほり、憲法として無効であることの証明責任がないのに、さらに一歩進んで、占領憲法が憲法として無効であることを背理法を用ゐて「証明」して見せたのです。


それだけでも有意義なのですが、真正護憲論は、このことに加へて、帝国憲法が現存してゐることまでを「証明」したのです。


本稿で述べたかつたことは、占領憲法が憲法として無効であることの証明よりも、帝国憲法が現存してゐることの証明に力点を起きました。


そして、これまでにおいて、昭和47年9月29日まで帝国憲法が現存してゐることを証明したのです。


そして、ソ連の後継国である共和制ロシアとの間で、日ロの最終講和条約が締結されるときにも、帝国憲法に基づくことになるのです。


交戦権(戦争権限)が否定されてゐる占領憲法のままであれば、帝国憲法に頼らざるを得ませんが、もし、占領憲法第9条が廃止されて、占領憲法でも戦争権限が付与され講和条約が締結できるやうになつても、帝国憲法は当然に存続し続けます。


昭和47年9月29日の時点で帝国憲法が現存したことが証明されたのですが、現在まで約50年経過しましたが、これまで一度も帝国憲法が「消滅」したとする事実が存在したことを証明されたことがありません。


消滅したことが証明されない限り、帝国憲法は現存してゐることになるのです。

南出喜久治(令和2年10月1日記す)


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