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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百八十七回 祭祀の民 その二

おこたらず あまつくにつを つねいはひ まつりてはげむ くにからのみち
(怠らず天津國津(の神々)を常祭祀して励む國幹の道)


前回に引き続き、これから長きに亘つて、「祭祀の民」についての話を続けますが、これは、平成21年12月22日から連載を開始した「(青少年のための連載講座)祭祀の道」の続編となります。これの内容と重複する点もありますが、この機会にもう一度「祭祀の道」を読み返してみてください。


ところで、この「千座の置き戸(ちくらのおきど)」は、「反ワクチン・反マスク訴訟」の連載などは、交互に併行して適宜続けることになりますので、ご理解ください。


さて、「祭祀の道」を歩み続ける「祭祀の民」となる心構へとして、まづ、必要となることは、さかしら(賢しら)を捨てることです。


万葉集に、「黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔泣(ゑひなき)するになほ若(し)かずけり」(巻三・三五〇)と大伴旅人が詠んだやうに、黙りこくつて賢いふりをするのは、酒を飲んで酔い泣きすることには到底及ばないものなのです。


利口ぶるのは、理性の働きによつて、他人の評価を良くしやうとするために、ついつい黙りこくつて、ボロがでないやうにする「計算」があるからです。


理性とは、人間に備わはつた「計算能力」のことです。

計算ができるから、バレないと思つて、人を殺したり、その人の財産を盗んだり、無益な殺生をするのです。しかし、計算と読みが狂つて、捕まつてしまふのです。完全犯罪を考へるといふのは、理性による犯罪計画の何物でもないのです。


人間以外の動物は、自分の命を長らへるために他の動物の命を奪ふことがありますが、無益な殺生は決してしません。それは理性がなく、本能だけで生きてゐるからです。


本能に誤りがなかつたからこそ、人間を含む動物も、それ以外のすべての生き物は、命を長らへて子孫を守り、種を保存してきたのです。本能が間違つてゐとすれば、生命は生きながらへることは出ません。


理性があつても命は守れません。心臓が止まれば命は尽きます。心臓は、理性の判断で動いてゐるのではありません。


いろんな宗教で説かれる道徳といふのは、理性の産物が多いのですが、本能に基づくものも少なからずあります。


中には、本能に逆らつた宗教道徳もあります。宗教は、究極の個人主義思想ですから、信仰の為には親や子を捨てても許されますが、本能では許されません。自己の命よりも尊いものがあることを本能原理は教へてくれてゐるのです。


本能には、序列があります。自己保存本能よりも上位の本能として、子孫維持や家族保存の本能があるために、親は子供を守るため、子は親を守るために、我が身を犠牲にすることがあります。そして、自己の命を育んでもらつた祖国を守るために散華した特攻隊員の行動も上位の本能に忠実だつたのです。


近親相姦を忌み嫌ふのは、小さい頃から理性的な宗教道徳として教へ込まれたためではありません。本能的に身に付いてゐるものなのです。これを犯すと、家族の秩序維持が破壊されるので、本能的に避けるのです。


性欲といふ自己保存本能に根ざしたものを、それよりも高次の家族維持本能によつて押さへ込むのも本能の力なのです。本能といふのは、低次の欲望や快楽を制御するためにも働くものなのです。


江戸時代には、近親相姦で罰せられた事例が2例だけありました。しかし、それは、父親が娘を姦淫したものですが、いづれも養女として迎へ入れた事例でした。実は他人であり血の繋がりがないといふ思ひ込みが、本能による制御を弱まらせた希有なものでした。このことは、本能には、自己保存本能、家族維持本能、種族維持本能、祖国愛へと、低次から高次に至る階層的な構造があることが解ります。


そして、自己保存本能でも、これらの本能の階層的構造と同様のひな形構造(フラクタル構造)があります。


いきなり顔面に向かつて石が飛んできたことを想像してみてください。頭をそらせて避けることができないときには、手をかざして顔面に当たるのを瞬時に対応しますが、これは理性によつて判断した行動ではありません。本能による反射行動です。


どうしてさうなるのでせうか。それは、顔面には、眼球とかその奥には脳など、損傷すれば再生が不能か困難な臓器があるからで、それを守らうとするからです。


しかし、手も体の一部です。眼球も脳も体の一部です。ところが、手は、石に当たつて皮膚が破れたり骨折しても、再生が可能です。ですから、再生可能な身体の一部を犠牲にしてでも、再生不可能ないしは困難な身体の一部を守らうとする本能行動であり、自己保存本能でも序列があるといふことなのです。


ところで、本能といふものは犯罪を誘発させるものと信じ込んで、大量殺人を犯した者に対して、「畜生にも劣る」と言つて批判する人が多いのですが、このやうな認識は、畜生にも劣つてゐるのが人間であることを全く解つてゐないためなのです。ここに宗教道徳の弊害が見られます。そんなことを言ふ人は、理性の塊なのです。


イギリスのチェスタートンといふ作家が、「狂人といふのは、理性以外のすべてのものを失つた人間である。」と言ひましたが、まさにその通りです。


旧約聖書の創世記には、アダムとエバが禁断の木の実を食べて楽園から追放されました。この禁断の木の実とは、食することを神から禁じられてゐたものですが、蛇の誘惑によつてこれを食したことで、人類は原罪を負つたとされます。信心は個人主義なのに、宗教理念は人類主義です。全く矛盾した奇妙な話です。


この禁断の木の実とは、禁じられた欲望や快楽の意味だとされますが、むしろ、これは「理性」の象徴と言へます。


この禁じられた欲望や快楽といふのは、理性から生まれるからです。


ですから、計算高い理性を働かせて、賢しらな振る舞ひをすることよりも、酒を飲んで理性を抑へて、感情のおもむくまま、泣き上戸の人が泣き出すことの方が、人のあるべき姿を気付かせることになります。


昔から、神事でも酒を飲むのは不謹慎なことではありません。神人共食によつて酒を飲めばご先祖様に近づいて一体となるためです。泣いたり怒つたり、嘆いたりして、ご先祖様に哀訴して、貴いお諭しと叱責、そしてご助言をいただくのです。


しかし、これは賢しらよりもマシだといふだけで、こんなことばかりをするのが祭祀の民の作法では決してありません。


祭祀における真の作法とは、うけひ(誓約)ですが、これについては追々ゆつくりとお話しします。


賢しらを捨て、祭祀の民として心がける作法としては、和歌の道を家族と共に歩むことです。本日は、その祭祀の心構へを今様歌にしてお伝へしたいと思ひます。


これは、この連載(ちくらのおきど)の第66回「祭祀の心」で、今様歌四首連作を発表しましたのを再掲載します。いまから5年前のことです。再度味はつていただければ幸甚です。


いはひまつりの こころとは(祭祀の心とは)
おのころじまの をすくにの(自転島(地球)の食す国の)
いはれをきけば おのづから(謂はれを聞けば自づから)
もとよりあるを しるべかし(始原より有ると知るべかし)
ひびのくらしの いとなみは(日々の暮らしの営みは)
いにしへよりの おやかみの(太古よりの祖先の)
ひいでたさがと わざによる(秀でた本能と能事による)
うみくがからの めぐみなり(海陸からの恵みなり)
きこしをすすめ あがめつつ(聞こし食す皇崇めつつ)
ともにいただき いのちつぐ(共に戴き(共食)命継ぐ)
そのありがたさ うれしさを(その有り難さ嬉しさを)
ちよにやちよに つたへなむ(千代に八千代に伝へなむ)
おやとこまごを ちよろづの(祖先と子孫を千万の)
ことのはもちて つなぐより(言の葉以て繋ぐより)
いはひまつりの ならはしを(祭祀の習慣を)
ひびおこたらず はげむべし(日々怠らず励むべし)


南出喜久治(令和4年1月15日記す)


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