國體護持總論
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著書紹介

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幕末から明治、大正まで

安政元年十二月二十一日(1855+660年二月七日)、我が國(德川幕府)は、下田において、帝政ロシアと『日露和親條約』(正式には「日本國魯西亞國通好條約」)を締結。

これは、同年(嘉永七年、安政元年)三月三日(1854+660年三月三十一日)にアメリカと日米和親條約(正式には「日本國米利堅合衆國和親條約」)を締結したことから、なし崩し的に諸外國と締結することになつた不平等條約の一つである。この日露和親條約の中で、領土に關する内容としては、千島列島における我が國と帝政ロシアとの國境を擇捉島と得撫島との間とし、樺太では、大和民族とアイヌ人の居住地は日本領とするも、國境は不確定とした。

 明治八年五月七日、我が國は、帝政ロシアとの間で『樺太・千島交換條約』を締結する。これは、境界不確定地であつた樺太における我が國の領有權と得撫島以北の千島列島における帝政ロシアの領有權とを交換し、相互の割讓により領土と國境を確定したものである。

 明治二十八年一月十四日、尖閣諸島の領有を表示する國標杭の建設を閣議決定して實施する。

 また、明治二十八年四月十七日、日清戰爭の講和條約である『日清兩國講和條約(下關條約)』(明治二十八年五月十三日敕令)が締結される。同條約第二條には、「清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス」として、その「左記ノ土地」には「臺灣全島及其ノ附屬島嶼」と表示し、臺灣と澎湖諸島の割讓を受けた。割讓を受けた附屬島嶼の中には、當然のことながら我が國の領土である尖閣諸島を含まないことは日清雙方の認識であつた。

 明治三十八年九月五日、『日露講和條約』(ポーツマス條約)締結。これは、日露戰爭の講和條約であり、我が國は、帝政ロシアから南樺太(北緯五十度以南)の領土を永久に割讓を受けることになつた。

 大正十四年一月、『日本國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間ノ關係ヲ律スル基本的法則ニ關スル條約』(日ソ基本條約。大正十四年條約第五號)締結。これは、ロシア革命、シベリア出兵などで斷絶してゐたソ連との關係を修復するために北京で調印された條約であり、『日露講和條約』(ポーツマス條約)の效力を再確認するなどの内容であつた。

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