國體護持總論
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無效理由その十二 政治的意志形成の瑕疵(つづき)

しかし、占領憲法においては、憲法改正案の贊否を問ふための特別の國民會議の選擧もなく、その代用としての衆議院の解散總選擧もなく、ましてや國民に極東委員會の決定内容等の詳細を周知させることもなかつた。しかも、憲法改正のための充分な論議等の時間を與へるどころか、祕密會の小委員會でGHQ草案の翻譯檢討に終始したかの如き審理をしただけで、その經過内容も五十年後になつてやうやく開示しただけで、その當時は全く周知させないまま祕密裏に手續を進め、最終の改正案について、國民の信を問ふための國民投票はおろか、衆議院の解散すら實施してゐないのである。このことは、假に、國民主權主義の立場に立つたとしても、有效に憲法として成立したものとは云へないのである。

もし、現在、このやうなことが行はれた場合、誰もがそのやうな改正は無效であるとするはずである。あのときは有效だが、今行はれた場合は無效だといふ論理は、國民の意思決定の價値と效力が時代別に等差を認める不當な差別主義を前提とした二重基準であつて何らの説得力もないのである。

偉大な數學者であり思想家でもあつた岡潔は、「西独は進駐軍治下の憲法というものはありえないといって毅然としてその憲法を變えることを拒否したのに、日本は唯々諾々として進駐軍治下で憲法を變えた。問題はここにあるのであって、いや進んでしたのだ、いや強いられてしたのだと言っているようだが、問題はそれ以前にあるのである。これはたとえ國民投票に問うても、進駐軍治下という状勢においてはなおいけないというのである。日本の場合はその國民投票にさえ問うていないではないか。強いられてしたのか進んでしたのかをどうしてきめるのか。しかし實際は、日本の場合は進んで憲法を變えたのである。政府はそうしなければ萬世一系の皇統を斷絶するぞといって恐喝されたからであって、政府はその時國民にはかったわけではないが、私はそれが國民過半の感情だったからであると思う。」(文獻292)と述べたが、まさに正鵠を得た言葉である。

假に、前述した昭和二十一年七月二日の極東委員會(FEC)特別總會で採擇された『新日本憲法の基本諸原則』が臣民に正確に周知されてゐたとすると、幣原や吉田のやうにマッカーサーの口車に乘つて拙速な形で占領憲法を制定する必要はなかつたのである。つまり、この『新日本憲法の基本諸原則』である、①主權は國民に存することを認めなければならないこと、②日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること、③日本國民は、天皇制を廢止すべく、もしくはそれをより民主的な線にそつて改革すべく、勸告されなければならないこと、もし、日本國民が天皇制を保持すべく決定するならば、天皇は新憲法で與へられる權能以外、いかなる權能も有せず、全ての場合について内閣の助言に從つて(in accordance with)行動すること、④天皇は帝國憲法第十一條、第十二條、第條十三條及び第十四條に規定された軍事上の權能をすべて剥奪されること、⑤すべての皇室財産は國の財産と宣言されること、⑥樞密院と貴族院を現在の形で保持することはできないこと、⑦内閣總理大臣その他の国務大臣は全て文民でなければならないこと(文民條項)などは、いづれも占領憲法の規定のとほりであつて、マッカーサーの強迫と詐術によつて拙速に占領憲法を制定しなくても、結果的には同じであつて、占領憲法を拙速に制定したことによる我が國側の利益は何もなかつたのである。何も變はらないのであれば、臣民が『新日本憲法の基本諸原則』を周知して、その原則でなければ講和の條件を滿たさないことを充分に自覺して慎重に改正作業に入ることができたはずであり、それによつて講和獨立後における占領憲法の再改正ないしは破棄も容易にできたはずである。つまり、これらの歴史的な事實經過からすると、マッカーサーは、極東委員會と張り合つて、自らが占領憲法の制定に關する政治的な主導權を握りたいといふ權力欲と自己顕示欲のために、我が國政府首腦に對し強迫と詐術を繰り返して占領憲法を拙速に制定させたことが明らかとなつてゐるのである。もし、極東委員會の『新日本憲法の基本諸原則』が公表されてゐれば、マッカーサーの立場はなくなり、詐術が通じないこととなつて、占領憲法の制定に關してマッカーサーの出る幕はなかつたのである。幣原首相が「危機一髪トモ云フベキモノ」といふのは、實のところ、我が國の立場ではなく、マッカーサーの立場のことであつたのである。

そればかりではない。まだまだ臣民にリアルタイムで周知されてゐなかつたことが多くある。第二章でも觸れたが、極東委員會の昭和二十一年三月二十日の決定、同年十月十七日の「再檢討」の決定などについてもさうである。

昭和二十一年十月十七日、極東委員會(FEC)は、『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定を行つた。これは、同年三月二十日の極東委員會(FEC)のなした『日本憲法に關する政策』において、「極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすると、既に成立したとする新憲法について事前審査がなされてをらず、それが果たして七月二日の『新日本憲法の基本諸原則』における「日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること」の要件からして、帝國議會の承認がこれに該當するのかについて、極東委員會が最終審査權による新憲法の承認又は不承認を判斷するためにも、日本國民に對し、その再檢討の機會を與へるべきであるとの見解を示した。アメリカは、帝國議會の承認がポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思」であるので、極東委員會において最終審査として承認されるべきとし、ソ連はこれに不承認として反對したことから、承認か不承認かを棚上げにする案として、占領憲法施行一年目から一年間(昭和二十三年五月三日から同二十四年五月二日までの間)に「再檢討」といふことになり、占領憲法は、極東委員會の最終審査を經ずに實施されることになつた。しかも、昭和二十一年十月七日に帝國議會で改正案が成立した十日後であり、公布前のこの時期になされた「再檢討」決定は、「憲法の權威を損なふ」との反對があり、マッカーサーも翌二十二年一月三日の書簡を以て吉田首相にも趣旨の異なる通知をしただけで、公表はされなかつた。ここでいふ「憲法の權威」とは、占領憲法が憲法であることを臣民に假裝することを維持することの權威であり、「權威の假裝」の意味である。假裝が必要なのは、占領憲法が「日本國國民の自由に表明せる意思」に基づかないことが露見することを阻止しなければならないからである。この決定が公表されたのは、二・一ゼネストの中止命令がなされた萎縮效果も覺めやらぬ占領憲法施行直前の昭和二十二年三月二十日であつた(新聞報道は同月三十日)。

このやうに、臣民に對し眞實を秘匿するといふ消極的な不作爲の欺罔以外にも、特筆すべきは、積極的な作爲の欺罔もあつた點である。それは、「憲法普及會」による臣民の洗腦である。實はこれこそが臣民に對する最大の洗腦工作であつて、全國組織的な洗腦運動を推進する母體として、昭和二十一年十二月一日、帝國議會は、「憲法普及會」を組織した。官製の洗腦運動の始まりである。この憲法普及會は、衆貴兩院議員を評議員とし、評議員と院外者(學者、ジャーナリストなど)の中から理事を選任し、会長は芦田均(衆議院議員)、事務局長は永井浩(文部官僚)が就任。院外者の理事には、河村又介(九大・憲法)、末川博(立命館・民法)、田中二郎(東大・行政法)、宮澤俊義(東大・憲法)、横田喜三郎(東大・國際法)、鈴木安蔵(憲法)などの學者の他、ジャーナリスト、評論家では、岩淵辰雄、小汀利得、長谷部忠などが就任した。この中央組織の下に各都道府縣に支部が翌年一月から三月までにつくられ、京都支部以外の支部長は各都道府縣知事が就任し、その支部事務所は各都道府縣廳内に設置された。まさに、占領憲法による洗腦運動の「大政翼賛會」であり、その活動はGHQの指圖に基づいたものであつた。

そして、翌昭和二十二年一月十七日、憲法普及會の常任理事會が首相官邸で開催され、GHQ民政局員のハッシーとエラマンが出席した。全國を十區域(東京、關東、北陸、關西、東海、中國、四國、九州、東北、北海道)に分け、各地區で四日ないし五日間の日程で講師による中堅公務員の研修を實施することを決定し、これに基づき、同年二月十五日、憲法普及會が東大法學部三十一番教室で六百六十四名の公務員(各省廳及び警察廳から約五十名づつ)を集めて憲法研修會を實施(同月八日までの四日間)した。その演題は、「開講の辭」(会長・芦田均)、「新憲法と日本の政治」(会長・芦田均)、「近代政治思想」(東大講師・堀眞琴)、「新憲法大觀」(副会長・金森德次郎)、「戰爭放棄論」(東大教授・横田喜三郎)、「基本的人權」(理事・鈴木安蔵)、「國會・内閣」(東大教授・宮澤俊義)、「司法・地方自治」(東大教授・田中二郎)、「家族制度・婦人」(東大教授・我妻榮)、「新憲法と社會主義」(代議士・森戸辰男)、「閉講の辭」(事務局長・永井浩)といふものであつた。

憲法普及會編『新憲法講話』(昭和二十二年七月發行)は、非売品として五萬部印刷して憲法研修會にテキストとして使用された。横田喜三郎は、その中で、自衞戰爭を否定し自衞權は制約されるとして次のやうに主張してゐた。つまり、「自衞の戰爭といえども、今後は戰爭をいっさい行わない」「外國から急に攻められるような場合には、一應自衞權を認めるけれども、國際連合がその自衞權が正當か否かということを判斷して、その後は國際連合が引受けることとし、國際連合が活動できない暫定的の間だけ、自衞權を認めることになっております。」といふ極めて間の抜けた主張であつた。ちなみに、横田喜三郎は、昭和二十六年九月八日の桑港條約と舊安保條約調印後に、一轉して、自衞權を一般的に肯定し、武力なき自衞權の行使として米軍駐留と基地提供を認めるに至り(『自衞權』(有斐閣)昭和二十六年)、その變節の功績によつて最高裁判所長官へと上りつめたのである。

ともあれ、占領憲法が「ただしい、すばらしい」といふ洗腦書は、この『新憲法講話』以外にも、内閣法制局閲『新憲法の解説』(昭和二十一年十一月發行)がある。これは、全文九十四頁のもので、二十萬部發行された。さらに、一般國民を對象とした憲法普及會主催の講演會を全國各地で開催した。一例を擧げれば、群馬縣では三百八十二回、六萬人餘の受講者を動員した。また、石川縣では百八回、一萬二千人、長野縣では五十六回、一萬四千人を動員したのである。

そして、憲法普及會編『新しい憲法 明るい生活』(昭和二十二年五月三日発發)に至つては、全文三十頁のもので、それを二千萬部發行したのである。この部數は、當時の全世帶數に相當する部數である。これを各戸配布したのである。その中で、芦田均は、「新しい日本のために」と題する文を掲載し、「新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであって、われわれの日常生活の指針であり、日本國民の理想と抱負とをおりこんだ立派な法典である。」と、齒が浮くやうな軽薄な言葉で洗腦に加擔したのである。この『新しい憲法 明るい生活』は、憲法普及會と文部省教科書課が第一稿を作成し、東大の横田喜三郎と田中二郎が推敲して、芦田均と金森德次郎が審査した後、GHQ民政局員ハッシーが監修したもので、明確な洗腦文書である。これを投票用紙の配布と同樣の方法で全戸に無料配布したのである。昨今の教科書の偏向どころの騒ぎではない。さらに、洗腦の仕上げとして、全國から懸賞論文の募集をしたのである。審査委員は、芦田均、金森德次郎、宮澤俊義、横田喜三郎である。また、制作指導や資金援助をした映畫も作られた。『新憲法の成立』、『情炎』、『壮士劇場』、『戰爭と平和』などである。それだけでない。兒童向け短編映畫、幻燈、紙芝居、カルタなど、臣民のすべての階層を洗腦した。音楽では『われらの日本(新憲法施行記念國民歌)』、『憲法音頭』まで作られて、すべての行事に演奏された。新憲法施行記念式典では、『君が代』ではなく、「平和のひかり 天に満ち 正義のちから 地にわくや われら自由の 民として 新たなる日を 望みつつ 世界の前に 今ぞ起つ」といふ歌詞の『われらの日本(新憲法施行記念國民歌)』が演奏されたのである。まさに、國民洗腦運動が官民、GHQの總動員體制で繰り廣げられたのである。

このやうに、當時の我が國には、自由な政治的意思を形成しうるだけの「政治的環境」がなかつたのであるが、それに加へて、さらに重大なこととしては、それを支へうる「生活的環境」も全くなかつた點がある。前にも述べたが、當時は、敗戰による極度の食糧難に陷つてをり、その上に、さらに外地から大量の將兵、軍屬、居留民などが内地に復員することによつて、その食糧難は極限状態となつてをり、昭和二十年末から翌昭和二十一年一月にかけての狂亂物價の高騰によつて食糧事情は最惡となり、同年五月一日のメーデー、同月十九日の食糧メーデー、そして、同月二十四日には、停戰時以來二度目の天皇の「玉音放送」がなされ、食糧危機に家族國家の傳統で對處するやうにとの綸言を賜るほどの臣民の困窮ぶりであつた。このやうな状況において、假に、形式的な政治的自由が保障されたとしても、「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(『管子』)との格言のとほり、それは餘りにも空しい畫餠である。大多数の國民は、廢墟となつた燒け跡の中で暮らし、配給食糧だけでは命を繋ぐことができず、食糧管理法に違反して闇米で食ひ繋いできた。その中にあつて、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」(教育敕語)、「天皇ノ名ニ於テ」(帝國憲法第五十七條)裁判を行ふ裁判官の職責を全うする盡忠報國の覺悟をもつて、闇米を一切口にせず配給米だけで生活した東京地方裁判所の山口良忠判事夫婦の姿があつた。そして、山口良忠判事が激務と極度の栄養失調のため、餓死による自決を果たしたのは、占領憲法の施行から約五か月後の昭和二十二年十月十一日のことである。

また、その丁度二年前の昭和二十年十月十一日にも、東京高校(舊制)のドイツ語教授亀尾榮四郎は、「いやしくも教育者たる者、表裏があつてはならぬ。どんな苦しくても、國策に從ふ。」といふ固い信念のもとに、自分は殆ど食べずに、子供たちに食物を與へ續け、ついに力盡きて亡くなつた。  このやうに、家族の命と暮らしが守れるか否かといふ、何よりも最優先の死活問題があり、憲法改正について關心が向けられることはなかつた時代である。

總人口が七千八百十萬千四百七十三人であり、そのうち失業者は約八百萬人の時代である。もし、自由な政治的意思を持ち得た都會人が居たとすれば、それは全て農家からの闇米やGHQからの闇物資を食らつて命を永らへた者ばかりである。特に、GHQの走狗となつて我が國の放送、出版物、信書などの檢閲に携はつてGHQから法外な厚遇を受けてゐた者と、さうでない者との生活格差は甚だしかつた。いはゆる戰後に空前のベビーブームが起こつたのも、紛れもなくそれは空前の食糧危機の投影である。飢ゑによつて生命の危機を感じると、強烈に種族保存本能が機能して子孫を殘そうとすることの結果である。激しく物價が高騰するなかでは、食料を求めるのが最大の關心事である。GHQの走狗となつて檢閲などに從事して破格の待遇を受けてゐる者や、あるいは、GI(米兵)にぶらさがつて生きるオンリーやパンパンなどの奢侈で裕福な生活をする者を横目に見ながら、また、戰爭孤兒たちがギブ・ミー・チョコレートといふ物乞ひの屈辱と強かさを交錯させて生きてゐる社會の中で、多くの人々は、それでも清貧なる矜持を持つて生き拔かなければならなかつた。そのやうなギリギリの生活をする多くの人々からすれば、憲法などは二の次であつた。このときの世相は、隠匿物資の橫流し、かつぎ屋の橫行、買ひ出し列車で彩られ、GHQや政府の隠匿物資などを利用して、それを餌にして飢ゑたる民を動員し、ラジオ、新聞なども總動員して、占領憲法を受け入れてこれを祝賀する啓蒙と喧傳が繰り返された。つまり、占領憲法は、闇米を食つてゐた隙に出来上がつた「闇憲法」であり、そのやうなものに正統性があるはずもない。

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