國體護持總論
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非常大權

次に、これまで述べた「占領基本法」と「占領基本敕令」との關連で、帝國憲法「第二章 臣民權利義務」の第三十一條についても言及してみたい。勿論、これも國内系に限定された議論であることは多言を要しないところである。

帝國憲法第三十一條は、「本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ」といふ規定であるが、帝國憲法下において、これがいはゆる「非常大權」と呼ばれる別個獨立した天皇大權の存在根據であるとする見解があつた。つまり、帝國憲法「第一章 天皇」の第四條から第十六條までに規定されてゐる大權事項とは別個獨立して存在する天皇大權であり、しかも、これは「國家緊急權」としての天皇大權の總括的規定であつて、緊急敕令大權(第八條)、戒嚴大權(第十四條)及び緊急財政處分(第七十條)は、この非常大權の例示的規定にすぎないとする見解である。

これに對し、第三十一條は、緊急敕令大權(第八條)及び戒嚴大權(第十四條)によつて臣民の權利を制限し義務を賦課することができることを規定したものにすぎないとする見解があつて、この二つの見解は對立してゐた。

第三十一條の規定は、大權事項を規定した第一章(天皇)に屬する規定ではなく、第二章(臣民權利義務)にある規定であり、別個獨立した大權の存在と内容を示す表記はなされてゐない。而して、立憲主義に立脚する帝國憲法の解釋において、その存在と内容が明記されてゐない非常大權なるものを解釋によつて創設することはできないのであつて、後者の見解が正しいことは言ふまでもないが、帝國憲法の立憲的理解が未熟な戰前の時代にあつては、兩者の見解の對立は、天皇機關説論爭、統帥權干犯問題、陸海軍大臣現役武官制などの政治的な混亂を引き起こしてきた。

そして、戰後においても、この「非常大權」を以て、ポツダム宣言の受諾と占領憲法の成立を説明する「非常大權説」なる見解が登場する(小森義峯)。ポツダム宣言の受諾は、この非常大權の發動によつてなされ、それを原點として成立した占領憲法は「暫定基本法」としての性格を有するに過ぎず、「憲法」としての性格を有しないとする。そして、GHQによる軍事占領期間においても、憲法としては帝國憲法が嚴存してゐたが、それが「假死」ないし「冬眠」の状態にあつたので、占領解除の時點において法理上當然に非常大權の發動は解除され、帝國憲法は完全に復元したとするのである(文獻119、252)。

この非常大權説は、これだけの論述からすると、占領憲法無效論の一種と考へられなくもないが、論者のこれまでの憲法理論(憲法改正無限界説)からすると、單純にさうとは言ひ切れない疑問がある。

この見解は、前述した「占領基本法」と「占領基本敕令」の有效性の根據を、これらに代へて「非常大權」に求めるものであるが、帝國憲法下の立憲的秩序において、このやうな見解が成り立つ餘地は全くない。まづ、別個獨立した非常大權といふものの存在自體に疑義がある上、ポツダム宣言の受諾は、大東亞戰爭の講和に向けて戰闘終結の端緒となつたもので、これは紛れもなく講和大權(第十三條)の發動である。それが講和大權ではなく非常大權の發動とする根據は一體どこにあるのか。また、非常大權と講和大權との關係はどのやうなものか。非常大權は國内系だけのものであり、講和大權は國際系の規範を創造するものである。それゆゑ、非常大權ではポツダム宣言の受諾ができないのは自明のことである。

そして、帝國憲法が嚴存してゐるとしながら、それがどうして「假死」ないし「冬眠」なのか。非常大權なるものが、帝國憲法を「假死」ないし「冬眠」させるだけの權限を有してゐるとする根據はどこにあるのか。これは、「失效論」の矛盾と同樣に、占領解除の時點において、天皇による何らの行爲も必要とせずにどうして法理上當然に非常大權の發動が解除されるのか、などといふ點において、全く説得力を缺いてゐるからである。つまるところ、このやうな手法は、非常大權の概念とその内容を恣意的に創設ないしは解釋することによつて、どのやうな結論をも導けるものであつて、法の科學の領域における議論ではないといふことである。

附言するに、この非常大權説は、嚴密には無效論とは言ひ難い。この見解の論者(小森義峯)は、改正無限界説に立つてゐるからである。それゆゑ、非常大權を行使し、帝國憲法の無限界改正をなしたのであるから有效であるとするか、あるいは、その後の帝國議會での改正においても改正に限界があるといふ制約もなく有效に改正されたとするか、そのいづれかになるはずである。

そして、この見解の致命的な缺陷としては、假に、非常大權によつて何らかの措置がなしうるとしても、非獨立の占領統治下において國内系の非常大權が無制約かつ有效に行使しうるのかといふ最も重要な問題について全く言及しないことである。それどころか、非常大權を行使して帝國憲法を「假死」ないし「冬眠」することができたとするのであれば、占領下において有效に行使し得たことを前提としてゐることになり、どうしてその行使が有效なのかについての説明がなされてゐない。

無效論に共通するものは、憲法改正大權の行使が無效であることを主張するものであるが、この見解は、憲法改正大權には言及してゐないのである。もし、言及すれば、それは改正無限界となつて占領憲法が有效となつてしまふからであらう。このやうに、この見解は、この重大な問題を回避してゐるのであつて、これを無效論の一種とすることは、效力論爭に無用の混亂を招くだけであつて、論者の正確な釈明がなされない限り、これを無效論として取り扱ふことはできないのである。

あへて言ふならば、この見解(小森義峯)が無效論であるとすると、この「非常大權説」は、宮澤俊義の「八月革命説」と對極の関係にある「ねじれ理論」の學説といふことができる。つまり、宮澤俊義は、改正限界説に立ち、本來ならば占領憲法を無效とすべきところ、その學説による歸結を放棄(回避)して八月革命説を持ち出して有效であるとした。これに對し、小森義峯は、改正無限界説に立ち、本來ならば占領憲法を有效とすべきところ、その學説による歸結を放棄(回避)して非常大權説を持ち出して無效であるとした。いづれも御都合主義の學説であることに變はりはないのである。

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